[#表紙(表紙.jpg)] 虚構の大義 ─関東軍私記─ 五味川純平 [#改ページ]     1  グアム島のジャングルから二十八年ぶりに生還した元日本軍の下士官だった男が、恥かしながら生きて帰ったと云ったとき、元関東軍の兵士だった杉田は、瞬間に、戦闘の断末魔の場面で、『関特演』名残りの徳広伍長がこう云ったのを思い出した。 「最後は突撃だからね」  その云い方は弱々しかった。突撃しようと決意しているようには見えなかった。初年兵に突撃の訓練を実施するときのような迫力がまるでなかった。  彼は、杉田上等兵の手前、上級者としてそう云わなければならぬと思ったにすぎないであろう。「生きて虜囚の辱《はずかしめ》を受け」ないということが日本軍の作られた神話であった。戦闘などしたことのない者まで兵隊はそうあるべきものと無責任に決めてしまっていた。だから、徳広伍長は、部隊が全滅したからには、最後は突撃して果てなければ、世間が、国が、軍隊が、承知しないと思ったにすぎないであろう。  もし、そのとき突撃していたら、杉田も、無論、生きてはいられなかったにちがいない。グアム島からの生還者のことから、重苦しい、暗い、関東軍最後の場面を——それは毎年八月になると年中行事のように繰り返してきたことだが——また改めて回想することもなかったはずである。  杉田は、しかし、グアム島からの生還者が、天皇に蔭ながら会いたいとか、銃を天皇に返すために持ち帰ったとか云いだしたとき、怪訝な思いが濃くなった。  杉田の経験に関する限り——兵隊の経験は、どこででも、誰のでも、たいてい、大部分が共通項から成り立っているものだが——軍隊で天皇が絶対であり得るのは、初年兵の場合だけであった。下士官や古年次兵が、表向きの形式を必要とする場合を除いて、本心から天皇のために軍務に励んでいたなどとは考えられないのである。古兵たちは、日本軍は世界無比の精強な軍隊であるという伝説のなかで、その精強度を形成する要素としての自負の下に古兵の特権を享受していた。軍隊では、「地方」での不公平な序列を、年次や体力によって容易に顛倒し得たから、その限りで、古兵であること自体が特権たり得たのである。  軍隊には、天皇の絶対性は形式的には確かに存在した。兵隊にとって天皇の存在ほど重いものはなかった。軍人精神の端から端まで天皇の存在をもって充填《じゆうてん》されていなければならぬものとされていた。天皇は、銃器から靴の裏の鋲《びよう》にいたるまで、軍隊のあらゆる空間に存在するものとされていた。兵隊の生命も兵隊のものではなかった。それは天皇のためにあるものであり、いつでも天皇のために捨てられるものとされていた。「軍人は忠節を尽すを本分とすべし……只々一途に己が本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟」(軍人勅諭)しなければならぬものとされていた。「皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す」(戦陣訓)るものとされていたのである。  それは、しかし厳密には、軍服と同じお仕着せであった。はじめて軍衣袴を着せられてから暫くの間、軍隊で一括して初年兵と呼ばれる最低の身分である期間は、確かに右のとおりなのである。軍隊の命脈は命令と服従の関係にあるから、さまざまな社会生活から強制的に軍隊に入れられる雑多な男たちを一つの規律の下に統制するには、何か「絶対的」なものがなければならないと建軍の創始者たちは考案したにちがいない。だが、兵隊ずれして古兵になると軍人勅諭も実のところ、絶対性がなくなってくる。「軍人は忠節を尽すを本分とすべし」が、軍人は要領をもって本分とすべし、に置き換えられるのが普通であった。軍隊は、実質的には、何から何まで員数合せの形式主義であった。忠節も員数合せの域を出ない。軍人勅諭を淀みなく暗誦できれば、その兵隊が内心で何を考えていようと、少なくとも、軍人精神の聖典である軍人勅諭を体得しているものとして通用したのである。逆に、暗誦できなくても「忠節」に凝り固まっている男がいないとは限らないのに、その男は間違いなく制裁にさらされなければならなかった。  杉田がグアム島の男の言葉に不審の念を抱いたのは、その男が伍長になっていた古兵だったからである。杉田が、関東軍最後のときにそれぞれ異った正面で戦闘して生き残った高野と池端に、グアム島の男が云ったことについての感想を求めたら、満洲北部の国境で戦った元上等兵の高野は、 「そりゃそう云わなきゃ恰好がつかないじゃないの」  と笑っていた。  満洲西部で戦った池端元一等兵は、真面目くさって答えた。 「迎えに行った役人からでも入れ知恵されたんじゃないでしょうかねえ」  グアム島の男が二十八年間も本心からそう思っていたとすれば、そのむごたらしさは言語に絶している。彼がジャングルのなかに怯えてひそんでいた間に、天皇は現人神《あらひとがみ》から人間へ変身し、戦争責任を勝利国の政略によって免除され、国民の象徴たる地位を与えられ、かつて日本軍が「朕《ちん》が命」によって戦争を仕掛けた国々を親善訪問したりしていたのである。  グアム島の男が本心からそう思ってはいなかったとしても、年齢のちょうど半分を空しくジャングルのなかで費やさなければならなかった事実のむごたらしさに変りはない。よしんばそれが彼が逃げ隠れに終始した結果だとしてもである。  杉田は、自分がグアムで生き残ったとしたら、どうしただろうかと考えずにはいられない。だが、彼は、自分の経験からその答を導き出すことはできない。置かれた条件が全く異っているからである。彼が、生死を賭けて幾山河|彷徨《さまよ》いつづけたのは、グアムとは地理も気象も状況がまるでちがう東部満洲であった。ただ、彼は、自分の今日までの生涯の半分をジャングルのなかに埋めなければならなかったとしたら、最大の怨念と皮肉をこめずには、銃を返すために持ち帰ったなどとは云えないだろうと思うのである。  最後は突撃だからね、と、日本的類型に属する最期の選択に迫られていた徳広伍長は、既に亡い。  二十七年前、そのとき、潰滅した陣地のタコ壺で、杉田上等兵は日本軍の習慣に対して従順でもなかったし、自暴自棄に陥ってもいなかった。  彼は、ためらいもなく、上級者にこう答えた。 「突撃するって、どこへですか。前後左右みんな敵だ。出たら、とたんにやられるにきまってる。犬死にですよ。それでもやりますか」 「……じゃ、どうする」  間をおいて、徳広伍長が杉田の顔を見ないようにして云った。 「このままじゃ、捕虜か、殺されるかだ」 「暗くなるまで待つんです」  杉田が答えた。 「脱出しましょう。暗くなったら生存者を集めてきます」  伍長は顔が土色になっていた。 「……どこへ」 「それは状況次第です」  杉田は、まだ経験したことのない、途方もない負担がこれから自分にかかってくることを意識していた。 「どこへ行っても敵ばかりだぞ、きっと。脱出できるかね」 「できます」  杉田は、一年十カ月前そこから出て来た自分の生活の場へ、現在地点から宙に直線をひいた。そこには重畳とした山脈がつらなっている。涯もない曠野がある。気の遠くなるほどの距離である。だが、紙片一枚で否応なくそこからひっぱり出されて来たのだ。今度は自分の意志で戻って行く。できないということはない。 [#改ページ]     2  杉田が召集されて東部ソ満国境の興凱湖に近い部隊に入隊したころ(昭和十八年十一月)には、関東軍はまだ『関特演』以来の陣容を保っていた。ほんの一小部分の兵力が他方面へ転用されただけで、次の年から二十年春へかけてのような原型をとどめなくなるまでの兵力抽出はまだ行なわれていなかった。 『関特演』は、後述するように国運を左右する数々の事件を起した関東軍の歴史のなかでも、対ソ武力発動を用意したという意味と、そのときをもって関東軍が兵力装備ともに頂点に達したという意味で、やはり特筆されるべき大事件であった。  結果的にはのちの南方戦域への兵力供給源となった『関特演』は、脆弱《ぜいじやく》な基礎的国力の上に虚勢を張りつづけた日本の軍国主義の象徴の一つである。  昭和十六年六月二十二日、ドイツがソ連に対して電撃的侵入を開始したことは、日本の軍部にとって年来の宿敵ソ連へ進攻するためのまたとない機会を提供するものであった。その前から、独ソ戦必至の情報が頻々と伝わって来ていて、日本軍部は対ソ作戦の検討を進めていたのである。  時は来た。独ソ開戦の好機を捉えて対ソ武力発動することが七月二日(昭和十六年)の御前会議で決定された。それに基づいて発令された大動員が関東軍特別演習、略して『関特演』である。  もともと、関東軍は、大正八年四月の創設以来、租借地関東州と満鉄付属地の警備を目的としていたが、日本の野心的な膨脹政策は関東軍をいつまでもおとなしい警備目的にとどめてはおかなかった。満蒙は日清・日露の両戦役で日本が血で購った土地であるという国民の愛国的情緒に訴える煽動は、折りから不況に喘いでいた国民に隈なく浸透して、「満洲生命線論」が日本全土にみなぎった。それにつれて、満洲では日本の権益主張をめぐって外交紛争懸案が数百件の累積をみるようになった。満洲事変(昭和六年九月十八日)の前夜的時期と名づけてもよいであろう。そのころから関東軍の駐屯目的は拡大して、満洲の実質的占領と対ソ戦備を主題とするにいたったのである。日本の支配階層と軍部にとって、満洲を押えることは、経済的要求を充足するために必要であったばかりでなく、「アカ」の本山であるソ連に備えるために必要であった。日本の「皇国」思想からも、日本陸軍の軍事思想からも、ソ連は不倶戴天の敵であった。  満洲事変以後、関東軍は駐屯目的の拡大に即応して膨脹をつづけたが、ソ連も日本の軍事的意図に対して無為には過さなかった。極東ソ連軍の拡充は常に関東軍に対して優位を保っていたのである。  関東軍は、昭和十三年、ポシェット地区(朝鮮・満洲・ソ連の国境の入り組んだ地域)の国境紛争に藉口《しやこう》して、大本営と朝鮮軍に実力行使の強硬意見を具申した。直接にその結果とはいえないが、日ならずして朝鮮軍の一個師団(第十九師団。長・尾高《すえたか》中将)が威力偵察と称して戦闘に投入され、却って戦闘力量を偵察される結果に終った(張鼓峰事件)。翌昭和十四年、今度は満洲西部国境のノモンハンで関東軍の一個師団(第二十三師団。長・小松原中将)が潰滅に近い惨状を呈した。それだからこそ、なおのこと、対ソ進攻は関東軍の宿願なのであった。 『関特演』の時点で対ソ武力発動をするには、しかし、幾つかの条件が満たされねばならなかった。昭和十六年という年は、好戦的な日本の昭和史のなかでも、特に日本が重大な選択をした年である。この年、日本は、対米英関係の決定的悪化・衝突の危険を冒して石油その他戦略資源獲得のために「南進」を決行している。それと並行してソ連に対して「北進」を行なうのは、いくら好機到来といっても、危険度がきわめて高い。したがって、対ソ作戦の発起には、およそ次の条件が必要であった。ドイツ軍のヨーロッパ・ロシア侵入が希望的観測どおりに進捗すること。そのために極東ソ連軍がヨーロッパヘ還送されて、兵員において二分の一、航空機・戦車において三分の一に減少すること。これが基本構想であった。作戦期間はおよそ二カ月、厳冬の到来以前に作戦を収束する必要から作戦開始はおおむね九月初頭と予定されていた。このために、七月七日から九月へかけて第一次動員二十五万で六十万に増強、第二次二十五万で八十五万の大軍に膨れ上る予定になっていた。  この対ソ武力発動の企図は、しかし、七月七日の第一次動員下令から僅か一カ月後の八月九日には中止しなければならなかったのである。  その理由の第一は、ドイツ軍の進撃速度がはじめに日本軍部が期待したほどのものでなくなり、ソ連が持ちこたえそうな気配が見えはじめたこと。つまり、シベリアからの兵力の西送が日本の希望的推定量に至らなかったこと。第二に、主として輸送力の不足から『関特演』そのものの動員速度が計画どおりに進捗しないこと。第三に、七月下旬の日本の南部仏印進駐に対する報復として米国から資産凍結・石油禁輸の痛打を浴びたために、戦略物資の節約持久を図らなければならなくなり、大軍を動かして対ソ戦の大消耗を冒すわけにはゆかなくなったこと、等である。  事を起す前に洞察がないこと、合理的な判断がないことが、敗戦に至るまでの日本の政治・軍事の特徴だが、日本軍部は対ソ戦発起だけはさすがに諦めて、兵力動員は続行した。その結果、関東軍は七十万の大軍団になった。これが、名実ともに関東軍が頂点に達した時期であり、「無敵関東軍」が盛んに呼号されたのもこのころである。当時、関東軍は日本最強の方面軍であると謂われた。確かに、日本の生産力の水準においては、この軍団は最精鋭の名に値していた。だが、ノモンハン事件で小松原師団が全滅的打撃を蒙った事実をひた隠しに隠して、国民を欺くことで面目を保とうとするような姑息な軍の性格では、それからの僅か二年間に軍の近代化・火力重点主義への再編成という難事業を果すことはできなかったのである。それにもかかわらず、実情を知らされない国民は「無敵関東軍」を信じていた。もっと悪いことには、軍自体が自分の描いた無敵の虚像を信じこんだのであった。 『関特演』に関しては、もうひとことつけ加えておく必要がある。日本の敗戦時、その無条件降伏の直前、ソ連がヤルタ協定に基づいてドイツ降伏の三カ月後、八月九日に、突如としてソ満国境三方面から満洲内へ怒濤のごとくに侵入を開始した事実を、日ソ中立条約の有効期限内の不当きわまる背信行為であると難詰することが戦後日本人の一般的傾向であった。確かに、ソ連は一九四五年(昭和二十年)四月五日に日本に対して日ソ中立条約の不延長を通告しただけで、条約はまだ期限切れにはなっていなかった。  だが、中立条約が締結されたのは昭和十六年四月十三日のことであり、それから三カ月たたないうちに、日本は七月二日の御前会議で対ソ武力発動を決定しているのである。それが実現しなかったのは、前記のように実行できない条件が発生したからであって、中立条約の国際信義を守るためではなかった。信義に照らして他を咎める資格を、日本は疾《とつ》くに失っていたのである。  夜明けの寒い班内で、男たちは着古した三装の乙の軍衣袴を渡されて、私服を脱いだ。私服を脱ぎ、私物を手放すことが、「地方」の私生活からの完全な別離であった。このとき軍衣袴に着替えた男たちのほとんどが、二度と私生活に戻ることはなかったのである。  軍衣袴は身丈に合わなかった。軍袴(ズボン)は短くて、足首のずっと上までしかなかった。上衣は袖が短くて、胸が窮屈であった。胸を張ると、かがり糸が擦り切れて弛んでいる釦孔から釦が直ぐにはずれた。情けない恰好であった。男たちは、このとき、はじめて、自分の意志では帰って行くことのできぬ遠いところへ来てしまったと感じた。  逞しい体格の上等兵が、自分と同じぐらいの大きさのある杉田を見て、云った。 「お前幾つだ」 「二十七です」 「甲種合格だろ」 「そうです」 「どうして現役で出なかった」 「……わかりません」  わからないことはない。産業要員として保留されていたのだ。情けないことに、そういう方法によってしか兵役を逃れる勇気も可能性も見出せなかったのである。 「軍隊はな、体に被服を合わせるのではない。被服に体を合わせるんだ」  その男、被服掛の植松上等兵は、気のきいたことを云って満足したらしく、得意そうにニヤリとした。笑うと却って凄味の出る男であった。  杉田は胸の寒くなるような惨めさに耐えていた。惨めなのは彼だけではなかった。惨めさははじまったばかりであった。いまや、男たちは自分の意志を持った人間であることをやめて、熔解されて、鋳型に入れられて、規格どおりの兵隊として鋳型から出て来るほかはないのである。 「みんなよく聞け」  と、鍛え込まれた張りのある声が響いた。 「俺は竹山兵長。今日からお前たちと寝食を共にする。お前たちを一人前の兵隊に仕込むのが俺の役目だ」  血色のいい機敏そうな男が床に脚を開いて立っていた。 「お前たちは今日から関東軍の兵隊である。世界無比の帝国陸軍の、そのなかでも練度の高い強兵をもって鳴る関東軍の兵隊だ。いまお前たちは地方気分が抜けないで、だらーっとしておる。地方でどんなに偉くても、金持でも、そんなことはここでは問題にならん。兵隊としては、お前たちは、まだ滓《かす》ばかりだ。二三日はお客さんだから仕方がないが、俺がビシビシ鍛えて関東軍の強兵にしてみせる。へこたれる奴は容赦しない。いいな」  班内はしんとなった。 「光栄ある関東軍の伝統は、これから機会あるごとに、教官殿、班長殿(下士官)、お前たちの戦友になる古年兵から教育されるが、要は、お前たちが伝統を汚すことのない立派な兵隊になることだ……」  初年兵たちは黙々としていた。戸惑っていた。自信に満ちた表情は見当らなかった。娑婆気のふっきれた顔もなかった。精強をもって鳴る関東軍になぜ自分が召集されたか、腑に落ちないのである。関東軍の栄光を守る使命観など薬にしたくも持ち合わせてはいない。  光栄ある関東軍の伝統と云われると、初年兵たちの頭にまず浮ぶのは、昭和六年九月十八日にはじまった『満洲事変』の軍事的成功である。しかし、初年兵たちばかりでなく、説教している初年兵掛や他の古兵たちも、そしておそらく国民の大多数が、満洲事変は、実は、具体的には、時の関東軍司令部作戦主任参謀であった石原莞爾と高級参謀の板垣征四郎とを中心とする一部幕僚ならびに隊付将校たちの陰謀による、柳条溝鉄道爆破をきっかけとして起されたことを知らなかった。天皇の軍隊は正義の軍隊であると信じていた者が多い。抗日気勢を高めていた「暴戻《ぼうれい》」な張学良軍の軍事的挑発を受けて、関東軍は起たざるを得なかったものと信じていた。事実は、今日では既に明らかである。  当時の関東軍の陰謀家たちは、満鉄線を柳条溝付近で爆破して列車を転覆させれば、近くの北大営から張学良軍が救援に駈けつけて来るであろうと予想し、これを満鉄線に対する攻撃であるとこじつけて、待機中の部隊に北大営を攻撃させることで全面戦争の口火を切る計画を立てたのである。ところが、予定時刻の夜十時二十分ごろに軌条は爆破したが、列車は奇蹟的に転覆せずにその部分を通過したし、北大営から張学良軍は出て来なかった。現場での手順を含められていた河本中尉というのが、手順が狂ったので仕方なく、部下に北大営へ向って射撃開始を命じ、中隊長へ伝令を出した。  その報告は、「北大営の支那兵が鉄道を爆破、交戦中」というのである。  爆破の急報が特務機関で待機していた高級参謀・板垣征四郎大佐へ届いた瞬間から、 「軍は軍の主力をあげて奉天付近に集中し、一挙に在奉天軍の中枢に一撃を加え、彼の死命を制し、至短期間に解決す」  という作戦大綱が板垣によって迅速に実施された。  奉天というのは、現在の瀋陽、かつての東三省政権(張作霖・張学良時代)の首都であり、大連・長春間を走る南満洲鉄道(略して満鉄)のほぼ中間にある商工業都市であった。  板垣大佐と石原中佐は示し合わせて、隷下部隊の初度巡視に奉天・遼陽に来ていた関東軍司令官・本庄繁を、事件当日午後二時、遼陽から司令部所在地旅順へ帰した。石原は司令官に同行し、板垣は奉天へ戻った。板垣は司令官に代って陰謀に基づく一切の作戦指揮をとり、石原は司令部の意志を陰謀成就へ統一する、これが石原・板垣の間の実行用務分担であった。  満洲事変はこうしてはじまった。目的は、無論、満洲の実質的占領である。満洲は日本の「生命線」である、それは二様の意味でそうなのである。国土狭隘・人口稠密な日本は地大物博の満洲を必要とする、赤色ソ連の「東漸」を防遏《ぼうあつ》する意味からも必要とする、というのであった。  満洲の占領は、あらかじめ仕組まれた筋書によって、翌昭和七年三月、清朝廃帝|溥儀《ふぎ》を執政、のちに皇帝とする『満洲国』の設立によって粉飾されたが、その誕生から崩壊まで、これを支配したのは歴代の関東軍司令官であり、実際にはその幕僚であり、それと結託した日本人官僚であった。関東軍はそれを「内面指導」と称した。内面指導とは、一つの側面では「満洲人」に対する懐柔であり、他の側面では、日本の侵略に対して当然起るべくして起った「反満抗日」運動を弾圧し、懐柔に服しない人びとを「討伐」することを意味した。当時謂われた「匪賊」というのは、概ね、反満抗日の闘士のことである。 『満洲事変』は、それ自体が関東軍の性格を雄弁に物語っているし、それはまた日本の運命の分岐点でもあったから、もう少しつけ加えておこう。  国民の大多数が、敗戦まで、満洲事変は支那側から仕掛けられたものと思っていたのは事実だが、真相はそうでないことを知っていた人びと、あるいは疑っていた人びとも、そう少なくはなかったのである。けれども、そういう人びとが公然と関東軍の陰謀を糾弾するには、証拠が足りなかった。せめて言論機関が強力に支持してくれないことには、剣と銃を持った暴力装置に立ち向うことはできなかった。ところが、言論機関の第一線に立っている人びとのなかには、職業軍人そこのけに武力発動を讃える者が少なくなかったのである。朝野を問わず、満洲における権益に関する諸懸案の武力による一挙解決を望む声のみが高かった。事端の外交的解決を図ろうとする幣原外相とその腹心の外交官たちは、軟弱外交として全く孤立していた。  石原莞爾を起案者とする陰謀は、こうした過熱した「国論」の上に企まれたし、それはまた次のような世界情勢の下に謀られたのである。  当時のソ連は、まだ、一九二八年にはじまった五カ年計画の中途にあったから、外国と事を構えるのはなるべく避けたいにちがいなかった。米・英・仏の列強も世界恐慌直後の国内問題が山積していて、外国のことどころではなかった。加えて、極東での利害が相互に対立していたから、日本の行動に積極的に干渉する可能性はきわめて少なかった。この状態は、しかし、一年たてば、それだけ日本にとって不利なものへと転換しかねない。武力行使をするとすれば、時はいまである、という事情である。  満洲事変は関東軍の独断暴走によってはじめられ、中央は事後追認を余儀なくされたという説は、全く誤っている。関東軍の存在は、単に「権益」の防衛にとどまらずして、それを橋頭堡として島国日本が大陸の経略を企図し実行し、先進国に伍するところまで野心を膨脹させる因となったということに特徴的な意味がある。満洲事変を牽引したのは確かに石原・板垣だが、中央の軍・政の要人が事前において連帯しなければ、一中佐・大佐の力量だけで遂行できることではない。九・一八に至るまでの僅々数カ月間の、満洲・内地に跨がる軍人・政客の言動を史料によって追跡するだけでも、そのことは明瞭である。  詳しく拾ってゆけばきりがない。若干の点に触れれば足りると思われる。  もし、石原・板垣ら出先軍のなかの一味だけが大事を惹き起したのであるならば、彼らは陸軍刑法に照らされるべきであったし、照らされ得たかもしれない(かもしれないというのは、事後の軍事行動があっけないほどの成功をもたらし、陰謀者たちは「英雄」となったから、その段階で「英雄」を処分するだけの勇断は、仮に中央首脳部が陰謀を全く知らず、したがって全然連帯していなかったとしても、できなかったかもしれないからである)。  陸軍刑法に擅権《せんけん》の罪というのがある。  刑法第三十五条に、「司令官外国ニ対シ故ナク戦闘ヲ開始シタルトキハ死刑ニ処ス」とある。  第三十七条に、「司令官権外ノ事ニ已ムコトヲ得サル理由ナクシテ|擅 《ほしいまま》ニ軍隊ヲ進退シタルトキハ死刑又ハ無期|若《もしく》ハ七年以上ノ禁錮ニ処ス」とある。  第三十八条に、「命令ヲ待タス故ナク戦闘ヲ為シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ禁錮ニ処ス」とある。  日本の軍隊は天皇の軍隊であることになっていた。天皇の命令なくしては一兵も動かすことはできない建前であった。所謂統帥の大権である。統帥大権ほど、しかし、厳然と存在しているかに見えて、恣意的に行使されたものはなかったといってよい。それは公然の慣習でさえあった。  その慣習に道をひらいたのが満洲事変である(厳密には、満洲事変の三年前、やはり関東軍の参謀によって惹起された陰謀事件・張作霖爆殺が満洲事変の先駆をしたことは後で触れる)。  石原・板垣とその一味は、司令官でもないのに、三十五条・三十八条該当の「故ナク戦闘ヲ開始シタ」のである。彼らは、軍法に照らされたら、「故ナク」ではないと云ったかもしれない。日本と張学良政権との間の事態は切迫しており、外交交渉では解決はつかなかったと主張したかもしれない。外交紛争懸案が山積して相互の民族感情がこじれているときに、※[#「さんずい+兆」、unicode6d2e]南地方へ兵要地誌調査に出かけた中村大尉と井杉予備役曹長の殺害事件が起き(昭和六年六月二十七日)、関東軍がこの事件を武力行使のきっかけにしようとしたのは事実である。中村事件は陰謀を推進するために願ってもないときに起きたようなものであった。中村事件当時の日満間の諸懸案のうち最大のものは、満鉄線を経済的に無力化させようとして奉天政権(張学良)が計画した平行線の建設をめぐる外交折衝の難航であった。中村事件はその暗礁の上に乗り上げたのである。  張学良側は、中村事件後暫くは、日本側の要求する謝罪・責任者処罰・損害賠償・将来の保障の四点に対して外交的遁辞を弄していたが、関東軍がこれを口実として兵を動かす気配を感じとると、穏便解決の意思表示を日本の外交筋に対して行ない、軍事顧問・柴山兼四郎を通じて日本軍部に対しても和平解決の意図を伝えたのである。事変直前の九月十六日には、奉天省長の臧式毅《ぞうしきき》が排日運動取締令を発し、中村事件の責任者である屯墾軍の関玉衡を留置し、翌十七日に軍法会議を組織することを決定したし、同じ十六日、北京でも、日支間の懸案五百余件の整理・政治的解決の意向を日本公使館に伝えている。  それにもかかわらず、関東軍が陰謀を用いて事を起したのは、「故ナク戦闘ヲ開始シタ」(三十五条)ことであり、三十七条該当の「已ムコトヲ得サル理由ナクシテ擅ニ軍隊ヲ進退シタ」のである。  石原・板垣らは、また、「命令ヲ待タス故ナク戦闘ヲ為シタル者」(三十八条)であり、司令官でさえ禁じられている「権外ノ事ニ於テ」(三十七条)をも犯している。  九・一八事件当夜、板垣は奉天にあって、司令官ではないのに軍命令を出した。彼が本庄軍司令官に報告したのは、独立守備隊が北大営を、第二十九連隊が奉天城を、いずれも闇討ち同様に攻撃したのを確認してからである。第二十九連隊長・平田幸弘は、後年、東京裁判で、「板垣参謀は私に命令を下す権限はないと思います」と答えている。  それでも、命令は出され、指揮官は兵を指揮し、陰謀を実行し、戦争を起したのである。  以上のように罪状明白であるのに、何故軍法に照らされなかったか。答は簡単である。中央が共犯だからである。  証拠を算えたてることがここでの目的ではないが、時間の順を追って若干拾ってみることが、関東軍が日本にとって何であったかについて語ることになるであろう。 [#改ページ]     3  まず伏線として昭和二年六月から七月へかけての「東方会議」と、その申し子ともいうべき謎の文書「田中上奏文」を見逃すわけにはゆかない。  東方会議には、田中義一首相兼外相はじめ中国問題関係首脳が会同した。時の関東軍司令官・武藤信義も出席している。この会議は、対支強硬政策をかかげて登場した田中内閣の性格を表現するばかりでなく、その後張作霖爆殺・満洲事変・日中戦争・大東亜戦争へと暴走した日本の運命的なコースの起点となったとみることができる。この会議の前後を貫いた思想は、会議の推進者であった森恪政務次官(政友会)の次の言葉に要約されている。 「満洲の主権は幣原君(若槻内閣の外相)のいうように支那に在るけれども、支那のみに在るのではない。その主権には日本も参与する権利がある。だから満洲の治安維持には日本が当る。満洲は国防の第一線であるから日本が守る」  関東軍はまだ満洲事変を起していないけれども、日本の野心の執行機関としての本質は既に明らかである。  東方会議の翌年六月四日、張作霖の爆殺事件が起きた。「満洲某重大事件」として田中内閣は国民の眼をごまかすのに大童《おおわらわ》になったし、野党も事件を単に政争の具として利用したに過ぎなくて、真相隠蔽に協力したという点では事件の共犯者の汚名を免れないが、この事件は時の関東軍高級参謀・河本大作を首魁とする陰謀であった。  この陰謀は、はじめは、張作霖を殺すのが目的ではなかった。蒋介石の北伐軍に追われて北京方面から満洲へ張作霖軍が敗走して来るときに、禍乱が満洲に及んだ(したがって在満日本人の生命財産の保護が必要になった)という名目で満鉄付属地外へ関東軍の出兵を行なって、張作霖軍を武装解除してしまうのが狙いであった。武装解除して丸腰にしておいて、保障占領し、諸懸案の一挙解決を否応なく迫ろうというのである。  結果的には、しかし、陰謀の準備不足ともいえるし、機が熟していなかったともいえようか。関東軍の満鉄付属地外出動については、奉勅命令の伝宣が必要だが、内外の注目の前で危険に晒《さら》されてもいない在満邦人保護の名目で付属地外出兵を強行することは、この時点ではまだできなかったのである。  河本大作は出兵計画を諦めて、張作霖爆殺に切り替えた。爆殺によって大事を惹起しようとしたのである。だが、奉天政権側の冷静な対応処理のために、単なる爆殺に終ってしまった。  この事件を、後の満洲事変を経過した歴史の流れとして捉えれば、これは予備的実験であったし、陰謀の性格としては満洲事変は既にこの時点で発生していたといえるのである。  田中内閣の事後処理は姑息をきわめた。昭和三年暮に召集され実質的には翌四年一月下旬にはじまった第五十六帝国議会での「満洲某重大事件」騒ぎを、田中内閣は、野党の生ぬるい追及に助けられて乗り切った。  白川陸相によって行なわれた「正式調査」の結果は、事件に日本人が関係した証拠はない、ただ、関東軍が責任を負っている満鉄線警備区域の警備上に手落ちがあったということにして、関係者を行政処分することになった。  田中内閣は国民を欺き天皇を欺き了《おお》せると高を括っていたようである。国民は真相から遠かったし言論不自由の壁に囲まれていたから、これを欺くのは簡単だったが、天皇はそうはゆかなかった。行政処分の経過報告に参内した田中を咎めて、 「首相が前に云ったことと違うではないか!」  と、天皇は不興をあらわにして、奥に入ってしまった。 「田中総理の云うことはちっとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」  天皇は侍従長・鈴木貫太郎にそう云ったという。  天皇の怒りは、国際的陰謀に対するものであるよりも、天皇を瞞着《まんちやく》したことを許さなかったのだ。田中は、天皇の逆鱗にふれて、昭和四年七月二日、内閣を投げ出した。  その前日、張作霖事件関係者の処分が発表された。村岡関東軍司令官(中将)の予備役編入、河本大作前関東軍高級参謀(大佐)の停職、斎藤恒前関東軍参謀長(中将)と水町竹三独立守備隊司令官(少将)の譴責、である。  河本大作を峻烈に陸軍刑法に照らしたならば、その後の関東軍の陰謀的策動を制禦し得たであろう。それができなかったのは、やはり、出先軍の一参謀の独走ではなくて、根柢にある侵略方策において中央首脳部が連帯していたからである。陸軍を去った河本大作には、こののち、暗躍の舞台が与えられることになった。  天皇は、田中内閣頓死を契機に、自分の発言をひかえるようになった。天皇は、君臨すれど統治せず、である。天皇の発言によって内閣が左右されるようでは、政治責任はもっぱら天皇にかかってくることになる。現人神に責任があってはならない、ということである。 「田中上奏文」なる謎の文書については、真物の「上奏文」が実在したという証拠はない。長文のものであるから引用は避けるが、その後日本が歩んだ歴史は、「田中上奏文」中の諸項目の内容に驚くほど合致している。たとえば、満蒙における中国の主権を事実上全く無視した諸政策の実施、紛争の絶えなかった満蒙諸鉄道問題、のちに満洲重工業開発株式会社として満鉄から分離するに至った鉱工業部門の開発等は、この文書にある通りに歴史が進行したのである。  関東軍の役割は、その歴史を牽引することであった。  張作霖爆殺から満洲事変まで三年三カ月。その間、関東軍と日本中央は、ときには歩調を合せ、ときには歩度に齟齬《そご》を来たしながらも、満洲処理を最大の目的としてエネルギーを傾けている。  関東軍では、昭和四年七月、満洲各地へ参謀旅行を行なった。板垣征四郎大佐(同年五月関東軍着任)が計画したもので、「対ソ作戦計画の研究」を目的としていた。この旅行の途次、石原莞爾中佐(昭和三年十月関東軍着任)が、長春で、「現代戦争に対する観察」という題で、彼の「戦争史大観」を幕僚に講義したが、そのあとで石原は、「占領地統治に関する研究」の必要を説いて、佐久間亮三大尉にその研究を委嘱した。その研究の成果は「満蒙ニ於ケル占領地統治ニ関スル研究」として、翌昭和五年十二月に印刷が完了している。  石原は、後日、 「この長春の一夜が満洲事変の第一ページになった」  と感想を洩らしたという。  石原の「戦争史大観」は、要約すれば、次の世界大戦が人類最後の大戦争となること、その戦争は航空機による殲滅戦になることを予見し、それが起る時機は、日本が東洋文明の中心的位置を占め、アメリカが西洋文明の中心的位置を占め、飛行機が無着陸で世界一周できるまでに発達したとき、という三条件を前提としたが、それはその時機が来るまで何も起らないというのではなかった。むしろ、逆に、彼の謂う最終戦に備えるためにこそ日本による満洲の経営が必要であるということが、彼の行動原理なのであった。  時間が若干前後するが、同じ昭和四年の五月、東京九段の富士見軒で、陸士十六期の永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎を中心として陸士十五期の河本大佐から十八期に至る中堅将校有志を集めた双葉会と、二十二期の鈴木貞一を中心とする二十一期から二十五期に至る有志の国策研究会である木曜会とが、合同会合をして一夕会と呼んだ。大・中・少佐クラス約四十名から成るこの一夕会の誕生は、陸軍中枢に従来の派閥にとらわれない新勢力が横断的結合を意図して擡頭したことを意味したし、その勢力は九・一八満洲事変へ向って作動する同志的結合であったと評価してさしつかえない。  この会同は次の三項を申合せた。  一、陸軍人事を刷新して新政策を推進する。  二、満蒙問題の解決に重点を置く。  三、荒木、真崎、林の三将軍を表面に立てて陸軍の陣容を建て直す。  満蒙問題武力解決は、全陸軍を横断する実質的勢力の血液のなかで、もはや既定の方針となった観がある。  時代は未曾有の不況期を迎えていた。失業地獄が現出していた。大恐慌と産業合理化の嵐が吹き荒れていた。物価の暴落、利潤の激減に対処するには、首切り、賃下げ、労働強化が必至であるという企業の論理が罷り通った。昭和五年の実収賃金は、大正十五年を一〇〇として、八〇・九に下落し、翌六年二月には六九・五と惨落した。娘の身売りが農村の悲歌となったのも、「キャベツ五十で敷島(煙草)一つ」と云われたのも、このころのことである。農村窮乏と上層社会の腐敗は、後のクーデター計画や暗殺、ファシズムヘの急傾斜、軍部暴走などの下地を作っていた。  昭和五年九月末に血気旺んな野心的な少壮将校による「桜会」が発足した。参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎中佐を中心として、長勇少佐、重藤千秋大佐(参謀本部支那課長)、陸大の辻政信大尉ら多数が参加した。「国家改造をもって終局の目的とし、これがため、要すれば武力を行使するも辞せず」とするグループである。  同じ昭和五年十月に、台湾に霧社事件が起きた。最も従順だとされていた霧社が不当な賦役を憤って叛乱を起したことは、統治の方式に改めて問題を投げかけたものとみることができる。前記の河本大作は、森恪(東方会議の推進者。田中内閣は森内閣とまで云われた野心家)に霧社事件の調査を頼まれ渡台、帰って小磯国昭軍務局長と打合せて渡満した。その真意は、霧社事件を事後の植民地経営の教訓として、満洲占領後の統治方式を考案することであったと推測される。ここでは、河本の調査の有効性の有無が問題なのではない。植民地主義者の思考のなかで常に満洲が目標となっていることを指摘すれば足りる。  同五年十二月に、関東軍の兵要地誌主任幕僚・佐久間亮三大尉による「満蒙ニ於ケル占領地統治ニ関スル研究」が完了をみたことは既に触れた通りである。  同五年十一月中旬、陸軍省軍務局軍事課長の永田鉄山は鮮満視察の途中、奉天で石原、板垣と満蒙問題武力解決について密議を交した。石原は柳条溝が決行の場所となることを暗示したし、小兵力で大兵力を擁する北大営を攻略するために必要な大口径砲を日本内地から搬入することについて永田と相談した。  永田鉄山は、早くも一九二〇年から「国家総動員に関する意見」を抱いていて、国内事情・国際情勢を勘案しながらその構想の実現を図っていた人物である。永田が中央にいなければ、石原、板垣の陰謀は異った曲折を経たであろうし、同じ永田が昭和十年八月に相沢中佐によって斬殺されなければ、太平洋戦争への道もまた異っていたであろうと思われる。  永田は、また、元憲兵大尉・甘粕正彦が朝鮮軍参謀・神田正種中佐と共謀して、朝鮮に近い間島に暴動を起し、それをきっかけに吉林省からの独立を図ろうとする計画も承知しており、これをもっと大規模に行なうように示唆している。この案は石原の反対によって中止されたが、いずれにしても、満洲事変は既に少数の男たちの頭のなかではじまっているのである。  昭和六年一月はじめ、杉山陸軍次官、小磯軍務局長、二宮参謀次長、建川参本情報部長らは、橋本欣五郎中佐に体制変革の計画案作成を命じ、大将・宇垣一成の担ぎ出しを企図した。この企図は、桜会や大川周明らのクーデター未遂事件(三月事件)となって流産するが、日本は陰謀の釜のなかで煮えているようである。  同六年三月、第五十九議会の貴族院で、外相・幣原喜重郎は、在満同胞が徒らに中国人を蔑視することが日満間の問題をこじらせていると論難したため、満洲青年連盟の面々が激昂、全満日本人自主同盟を結成して、「吾等は政府に頼らない。自主独立満蒙を死守、国権を擁護するため全満同胞の大同団結を行なう」と息巻く。青年連盟の軍を嗾《け》しかけるような言動が露骨になる。関東軍や軍中央にとっては思う壺である。  同六年四月、建川参本第二(情報)部長の指導のもとで、渡欧米課長、重藤支那課長、根本支那班長、橋本ロシア班長らの合作による「昭和六年度情報判断」が公式に策定された。その主要な内容は、満洲に、㈰親日政権を樹立する、㈪独立国を建設する、㈫満蒙を領有する、という三段階の方策である。  同六年五月、橋本欣五郎ら桜会の急進派は、満洲で武力を発動すれば、その弾発力によって国内改造を決行しやすくなると考えたが、関東軍の石原、花谷らと橋本との間で、十月ごろ国内国外同時決行という合意に達した。  同六年六月、満蒙問題解決のための極秘の会議設置を陸相・南次郎が許可した。主題は無論武力行使についてである。委員は永田軍事課長、岡村補任課長、山脇参本編成動員課長、渡欧米課長、重藤支那課長の五名で、委員長は建川参本第二部長である(山脇は後に東条に代る)。この建川が、九・一八当日、トメ男として事件の中心地奉天に行くのである。  同六年六月末、前記の中村大尉殺害事件が起き、この情報が七月下旬に入ってから、関東軍はこの事件を武力行使の絶好の口実とした。九・一八まで、もはや、急歩調である。  幣原外相が軟弱外交として野党、軍部の攻撃に晒されながら平和解決の方途を求めているときに、永田鉄山、岡村寧次、建川美次らは関東軍による九月下旬の武力行使計画を既に知っており、軍の中枢をほぼ握っていた彼らは、関東軍の武力行使が軍中央の全面的な同意と国民からの支持を得られるように条件の調整を必要と考えていた。  六年七月中旬、軍務局徴募課長の今村均大佐は、参本情報部長から作戦部長にまわった建川の求めによって作戦課長となり、以後、政策上のことは永田が、作戦上のことは今村が立案し「満洲問題解決方策に関する大綱」を九月早々の部長会議での検討に供するように要求された。建川や永田は石原の計画を知っているから、九月早々の検討が必要だったわけである。  六年八月上旬、三月事件の真相を知った元老・西園寺公爵は、二宮、小磯、建川の罷免と、宇垣朝鮮総督の辞職を必要と考えたが、もはや元老の政治力が通用する時代ではなくなっていた。不発のクーデターの首魁たちは、なお暫く歴史を運転するのである。  同じ八月初旬、軍司令官・師団長会同が行なわれ、その夜、朝鮮軍参謀・神田正種は橋本とかたらって、持参した機密費で三司令官(関東軍・本庄、台湾軍・真崎、朝鮮軍・林)、杉山、小磯、永田、岡村を料亭に招待、国事変革を論じた。神田と橋本は、その夜から二日二晩、料亭で美妓を侍らせながら、満洲での武力行使の際の朝鮮軍の越境出動を謀議した。司令官など傀儡《かいらい》扱いである。  八月中旬、日本内地の遊説から帰満した青年連盟の代表が、陰謀を秘めて語らない石原参謀に、「腰の刀は竹光か」と嘲ったのに対して、石原は平然と答えた。 「あなた方は、関東軍は微力だといわれた。腰の刀は竹光かと、嘲られた。……その通りだ。だが微力でも竹光でも、学良軍閥打倒のごときは、それで十分だ。……私は作戦主任参謀としてあなた方に向って、これだけのことは云える。いざ事あれば、奉天撃滅は二日とはかからん。事は電撃一瞬のうちに決する」  石原は民間人が激昂するのを愉しんでいられたわけである。民間人が熱すれば熱するほど、彼の陰謀に対する支持層の厚いことの証拠となったし、この年、六月の末、参謀旅行の計画中に板垣大佐と石原中佐とは、九月下旬に柳条溝で戦闘行動を発起する計画を練り上げ、その計画に協力する人選も既に済んでいたのだ。  八月二十日、南陸相は、閣議で、中村大尉事件の処理について、中国側に将来の保障を行なわせ、もしそれが破られる場合には武力行使をすると言明した。これは、解釈の仕方によっては重大な含みが感じられる。将来の保障を行なわせるといったところで、保障のできない事態を作為すれば、保障しようとしても行なわれない。したがって、それを理由に武力は行使されることになる。  中国側(奉天)でも、この時点では、まだ栄臻《えいしん》参謀長以下強硬で、日本の武力行使おそるるに足らずとうそぶいていた。  中村大尉事件は、一個の事件として単独に解決される可能性は、はじめからなかったといってよかろう。日本軍部——関東軍としては、それを武力発動の好機として固執していたし、中国側としては積年の屈辱からの国権回復の途上で起った末端部の出来事でしかなかったのだ。それもはじめのうちは中国の外交当局にも真相確認ができていなかったことである。  八月二十五日になって、奉天公安局は日本側の挑発を警戒して、日本側がどのような態度に出ようと、衝突を避けるように訓令を発した。  同じころ、関東軍の花谷少佐は中村事件にかこつけて、武力行使についての中央の意嚮打診のため上京した。花谷は、二宮参謀次長と建川作戦部長に、日支両軍衝突の際には細かいことまで干渉しないように頼み、両人から「できるだけ貴軍の主張貫徹に努力しよう」という同意を取りつけた。花谷の表現によれば、この段階では「既に矢は弦を放れている」のである。  八月末、金谷参謀総長は、陰謀に加担している橋本欣五郎中佐の口ききで、右翼による世論喚起のために、内田良平に五万円を渡した(昭和六年の五万円は、おそらく現在の五千万円以上に相当するであろう)。金谷の下には、二宮次長、建川作戦部長以下大・中・少佐級の強硬派が枢要の地位を占めて犇《ひしめ》いている。抑えがきかないというよりも任せておけば成ることは成るのである。  こうして九月に入った。  四日ごろ、外務省へ、奉天領事館以外の現地筋からの電報が入って(おそらく関東庁の警察からであろうといわれる)、関東軍の少壮士官が武力発動を計画していると伝えた。  幣原外相は、五日、林・奉天総領事へ注意を促す訓電を入れた。幣原は、当然のことながら、まだ、外交的解決を諦めてはいない。  九月十日、奉天特務機関長・土肥原大佐が中央と連絡のために上京。翌日、幣原外相、谷アジア局長と会談した際、幣原は軍部の自重を要望したが、結果的にはこれは馬の耳に念仏にすぎなかった。  同日、土肥原は、二宮参本次長、杉山次官、永田軍事課長と実力による報復手段についての協議を二時間にわたって行なっているのである。つづいて、土肥原は金谷参謀総長と会談した。統帥の長、金谷は、まだ関東軍から上ろうとする火の手を知らずにいられるものかどうか。  十一日夜、料亭竹葉で三省二部(外務・陸・海・参本・軍令部)の満蒙関係課長から成る会合が行なわれ、出席者二十名に対して、永田鉄山が陸軍の方針を説明、中村事件を機として一切の懸案を解決する、ということに意見の一致をみた。  同じ十一日、奉天側の栄臻参謀長は朝日新聞記者に中村事件が事実であったことを告げた。奉天政権は事態の和平解決への誠意と努力を示しはじめたのである。  同じく九月十一日、天皇は南陸相を呼んで軍の規律に関する注意を与えようとした。不穏な情報が側近を通して耳に入ったのであろうと思われる。南は、しかし、先手に出て、喋りまくって煙にまいた。天皇から決定的なことを云われては、沸き立っている軍を鎮めないわけにはゆかず、そんなことをすれば軍全体の信頼を瞬間に失ってしまうからである。  天皇がまた統帥大権の保持者として直截簡明に断固とした抑え方をしないから、統帥権絶対の名目において統帥権の濫用が行なわれたのだ。  九月十四日、既述のように、張学良顧問の柴山兼四郎少佐が上京して、中村大尉事件に関する張学良からの遺憾の意を、軍首脳部に伝達した。  同じ十四日、関東軍三宅参謀長から建川第一部長あてに、張学良政権の昨今の暴圧侮辱は耐えがたいものがあるから、建川部長と小磯軍務局長に現状視察に来てもらいたい、という電報が入った。栄臻参謀長が強気にうそぶいていたころなら、この電報もうなずけないでもないが、日時のずれに作為を感じさせるものがある。三宅の要請によって建川が行くことになるが、もし要請どおりに建川、小磯の二人が同道したら、九・一八当夜はどういうことになったろうか。  この十四日は、軍首脳部にとっては頭の痛い日であった。柴山顧問を通じて張学良の遺憾の意の表明があったから、中村事件を理由に正面切って喧嘩を売るわけにはゆかない。外務省が陸軍を疑っているのは事実である。南陸相が天皇から呼ばれたことを全然無視はできない。軍中央としては、関東軍を抑える恰好だけはしなければならないようである。  関東軍から実情視察に来てくれと要望された建川と小磯のうち、小磯は、三月事件で少壮士官の人気を落しているのと、予算編成の時期でもあるので渡満を断わり、板垣と親しい建川だけが朝鮮経由で奉天へ行くことに決った。この建川が何をしに行くのかが問題なのである。  この日の段階では、永田・石原の構想が頓挫を来たすかもしれぬ情勢であった。天皇・西園寺・幣原の線にかろうじて保たれているかに見える古い政治良識が、驀走する軍部にブレーキをかけたように見えるのだが——。  九月十五日、幣原外相は林・奉天総領事から機密電報を受け取った。関東軍が軍隊の集結を行ない、弾薬資材を搬出し、軍事行動を起す形勢にある、というのである。  幣原は閣議で南陸相に質したが、南は調べなければ信じられぬと、逃げを打った。  十五日夜、参謀本部第一部長・少将・建川美次は満洲へ向った。南陸相から本庄関東軍司令官にあてて、武力行使をさしひかえるようにとの手紙を托されたというが、私信なら意見はあっても命令の体はなさないし、命令なら陸軍大臣からでは筋違いである。金谷参謀総長は何をしていたのかということになる。  建川は、出発直前に、今村作戦課長に、大臣・総長も関東軍に自重を促すように自分に指示したと語っているが、そのくせ、大川周明とひそかに連絡をとって、本庄司令官に会う前に、板垣・石原と会って意嚮を確かめる方法を大川と相談しているのである。  大川周明は部下の中島信一を飛行機で大連に飛ばせて、建川が板垣か石原に先に会えるように手を打った。  建川は背広姿で悠然と夜行列車に乗り込んだ。奉天着は十八日十三時の予定である。その日の奉天総領事から外相宛ての重要電報など意に介していないもののようである。  上京中であった奉天特務機関長・土肥原は、同じ夜、建川が出発する二十分前に、軍服の正装で列車に乗り込み、西下した。彼は関西で途中下車したため、九・一八事件勃発当時には朝鮮を通過中であった。そのころ、彼の特務機関は、板垣が作戦指揮をとる戦闘司令所になっていた。歯車の噛み合せを満洲と日本とで一齣ずつずらせて、満洲側を早く日本側を遅く運転するように仕組んだかにみえる。  同じ十五日、満洲では、建川来訪をひかえて、奉天特務機関で板垣・石原を中心に陰謀参加者たちが最後の協議をした。中央の意図が明確でないので、決行説の今田と中止説の花谷が対立、議論百出して決着しなかった。板垣、石原は決行の肚だから、敢て議論をリードせず、参加士官たちの決意を試していたらしい。午前二時ごろ、鉛筆を立ててクジをやり、中止と出たというから、ふざけている。  十六日、陸相官邸で柴山・張学良顧問を囲んで南、杉山、小磯が協議ののち、軍事参議官会議を臨時招集した。参議官には国事の決定権は何もないが、席上、白川、菱刈両参議官(いずれも元関東軍司令官)が最も強硬で、「中村事件を機に実力に訴えて一気に諸懸案を解決すべし」と主張したが、ここでも、張学良の平和的解決の意思表示と南陸相に対する天皇の意嚮の影響があって、即時武力行使はさしひかえることに意見が傾いた。参議官以外の現職出席者は、南陸相、杉山次官、金谷参謀総長、二宮次長である。  武力行使さしひかえと決っても、関東軍に対して正式の命令も指示も出されていない。建川派遣の「任務」が追認されただけである。任務といっても、現地軍を拘束し得るだけのものがあったという史実は見当らないのである。軍隊の命脈既に麻の如く乱れている。  同十六日、朝、奉天では、瀋陽館宿泊の石原が電話で三宅憲兵隊長を呼んで、守備隊に決行の肚があれば決行すると告げ、つづいて参加士官たちを次々に呼んだ。石原の計画では十七日決行であったが、準備が間に合わなくて、十八日夜と決った。一日延びた理由の主なものは、二十四糎榴弾砲の駐退機の故障であった。この巨砲こそは前年十一月軍事課長・永田鉄山が視察渡満したとき石原・板垣らと合議した結果、七月に東京赤羽工廠から秘密裡に奉天独立守備隊第二大隊営内に送られたものである。兵力劣勢な守備隊としては北大営を短時間に攻略するには、強大な火力を必要としたのだ。  石原と板垣の決行の意志は終始変らなかったが、中央部が永田鉄山の思惑どおりになるかどうかは、気になっていたにちがいない。来奉する建川の公式任務は、この日の二人にまだ正確にはわかっていない。統帥系統の緊急命令なら、二人は、建川によって決行を阻止されるとは考えなかったであろう。建川は間に合わなくさせて、責任を軽くしてやればよいのである。そのためにも十七日決行が必要であったが、前記の理由で一日延びた。そこで建川を宙に浮かせる必要が生じた。  十七日、巡視のため板垣、石原を従えて遼陽に来ていた本庄司令官へ、旅順(司令部)の三宅参謀長から電話が入った。建川が奉天に来るから板垣か石原を奉天に残すようにという公式連絡である。  この日、前記の大川周明の部下・中島も遼陽に来て、板垣と連絡をつけた。建川が東京出発前に打った手は、確実に功を奏した。建川は、翌十八日十三時奉天着の予定であったが、十一時二十九分本渓湖で途中下車し、板垣が本渓湖へ迎えに行っているのである。  十八日、午後二時、本庄司令官は石原を帯同して旅順へ向った。旅順官邸への帰着は午後十時ごろ。あと二、三十分で重大事が起ろうとしている。  その日、朝、板垣征四郎は単身で奉天へ引き返し、柳条溝爆破準備完了を確認の上、本渓湖へ建川参本部長を迎えに行った。  その建川と板垣は、十八日夜、七時五分に奉天に着いた。建川と板垣は十分に話し合う時間を持ったわけである。花谷が二人を出迎えて料亭「菊文」へそのまま案内した。  板垣は酒席には加わらず、陰謀の司令部となっている特務機関へ急いだ。  花谷が建川と酒をくみ交して雑談した。花谷が受けた印象では、建川には「制《と》める」気がないことだけはわかったという。  建川には、はじめから制める気はなかったであろう。どう贔屓《ひいき》目にみても、板垣と会ってからは制める気はなくなっていたにちがいない。彼も板垣・石原同様に、事件の成功を信じて疑わなかったにちがいない。  突如、二十四糎榴弾砲が轟いた。東京からの使者・建川少将は料亭にいた。関東軍司令官・本庄繁は遠く旅順にいた。  満洲事変がはじまったのである。  森島守人総領事代理(林総領事は友人の通夜に出かけていた)は、特務機関からの急報で駈けつけ、外交交渉による解決の説得を試みたが、板垣から統帥権に干渉するなと叱咤された。  料亭「菊文」から戻っていた花谷は、抜刀して、 「干渉する者は殺すぞ」  と森島を威嚇した。  軍事行動がはじまる前なら、一少佐が総領事代理を相手にこうは振舞えない。はじまってからでは、一少尉でも、総領事代理の見識をもってしても動かすことはできない。  事は既に終ったのだ。同時に、長い破局への道がはじまったのである。 『満洲事変』は軍事的にはあっけなかった。張学良軍は関東軍に較べて、兵員の数こそはるかに多かったが、装備も訓練もいちじるしく劣っていた。関東軍は疾風枯葉を捲く勢いであった。国民の眼には、関東軍はいかにも強く映った。実際には、相対的に劣弱な火力に対する軍事的な成功であったにすぎないにもかかわらず、関東軍自身が精強無比の軍隊であると信じた。関東軍に「栄光」の時があったとすれば、このときだけであった。あとは、不充分な国力から割り出された不充分な対ソ戦備につきまとう絶え間のない不安を、「精強無比」の自己欺瞞と宣伝とによって蔽い隠し、精強度を自己顕示するためであるかのような数々の事件を作為する歴史がつづくのである。  板垣と石原は、軍法に問われるどころか、昭和十年四月、満洲国皇帝の日本訪問を記念しての論功行賞で、殊勲甲に輝いた。これは、後日のための最悪の先例となったといってよい。作為的に事を構えて武力行使に走っても、なんらかの戦果をあげれば、擅権であろうとかまうことはない、軍人としての名誉を顕賞されるという事実が軍人の野心を煽らずにはおかなかった。  先例をひらいた石原は、五年後に、後輩によって苦汁を呑まされることになる。綏遠《すいえん》事件に関してである。  昭和十一年、関東軍は内蒙古の徳王を中心とする雑軍を編成して、中国の綏遠省へ進出を企てた。時の関東軍司令官は植田謙吉。この綏遠作戦は、参謀長・板垣征四郎、第二課長・武藤章、参謀・田中隆吉中佐の線で行なわれ、田中隆吉が作戦指導に任じた。  綏遠事件を歴史の上で位置づければ、昭和八年、小磯国昭が関東軍参謀長であったときに手をつけはじめた内蒙工作に端を発し、時間の経過とともにこれに携わる人物も替り、中国の抗日感情も満洲事変以来次第に昂揚しているときに、これに火をつける役割を果して、翌昭和十二年日中戦争を惹き起すまでの経過での、一つの節をなしている。  関東軍では、昭和十一年初頭から、内蒙を経由して遠く西北方へ謀略の手を伸ばす計画を持っていた。内蒙工作を基礎として、寧夏省のアラシャン、オチナに特務機関を進出させ、ここを拠点としてさらに西方の新疆《しんきよう》省、北方の外蒙古工作に当らせ、遙かにドイツとの連繋を図る航空路線を開拓しようというのである。その主たる目的は、他国の広大な土地をもってソ連に対する防壁とするという点にある。構想は雄大であったが、実現能力が矮小に過ぎた。  実現能力が矮小である理由は、国力不相応の野心から発しているからでもあるが、実行面で当事者の個人的な野心に委ねられていて、百年の大計として基礎づけられていないことにある。さらにいえば、百年の大計たり得ないからこそ、姑息な謀略を弄するということになろうか。  この西方工作は、その前年、北支の分治工作の謀略について、現地の天津軍(天津駐屯日本軍)と関東軍との間に功名争いや縄張り争いがあったため、それ以後北支謀略は天津軍に譲ることにした代償として、軍中央部が関東軍の謀略好きな参謀将校の野心を適当に調節するためのはけ口として、暗黙の諒解を与えたものである。中央としては、出先機関が火遊びをしたくても、経費の支出を抑えさえすれば大したことはできないと、高を括っていた。だが、出先は金蔓を握っていたのである。内蒙工作の場合は、冀東《きとう》特殊貿易(日中間の紛争に便乗した密貿易)で望外な収入をあげた冀東政府からの潤沢な工作資金の調達がそれであった。綏遠工作に任じた田中隆吉中佐は、彼の工作が失敗の醜態をさらすまでに六百万円(現在の貨幣に換算すれば五、六十億円になろうか)を流用した。  田中中佐の指導する内蒙古の謀略部隊は、十一月中旬、傅作義の綏遠軍に紅格爾図《ホンゴルト》を攻撃されて、ひとたまりもなく潰走した。  中国軍の勝利に中国人の気勢は大いに上った。相手が内蒙古の雑軍とはいえ、その後ろには関東軍がいて、支援を与えている。それを潰走させたのだ。満洲事変・熱河作戦・|※[#「さんずい+欒」、unicode7064]東《らんとう》作戦と——いずれも日本側の呼称だが——敗北しつづけた中国軍がはじめて日本軍の野望を砕いたという誇らしい喜びがある。  綏遠の紛争が伝わると、北平(北京)の全大学では綏遠援助運動を起し、男女学生の絶食、煖房停止、義捐金募集が行なわれ、「金のあるものは金を、力のあるものは力を」と書いた伝単が街頭に撒かれた。鬱積していた抗日意識が奔騰しはじめたのである。  日本の外務当局は次のように声明した。 「……今次綏東方面における内蒙古軍と綏遠軍との衝突は内蒙古側と綏遠側との紛争であって帝国政府の関するところでない。したがって内蒙古軍の行動に対しては政府は固より軍において何ら援助を与えていないこともちろんである」  政府筋の声明のそらぞらしいことは、いまも昔も変りはない。政治を国民が握っていないことの証拠のようなものである。  ここで石原莞爾の出番である。彼は、このとき、大佐になって参謀本部作戦課長の職に就いていた。彼の見識においては、対ソ防衛力もまだいちじるしく不備な段階で、彼が窮極の敵とみなしているソ連以外の中国と事を構えるのは愚策の最たるものであった。不見識な関東軍参謀が惹起した綏遠紛争は、中国の抗日感情を激発して、いつ破局へ突入するかもしれぬ危険を孕んでいると判断した石原は、十一月二十日飛行機で新京(長春)へ飛び、翌二十一日、板垣参謀長以下七名の関東軍参謀と会談した。石原の意図は内蒙工作を中止させることにあった。  席上、第二課長の武藤章がこう云った。 「唯今のお示しは、両長官(陸軍大臣と参謀総長)の意志なので、左様におっしゃるので、必ずしも石原課長御自身の御気持ではないと心得てよろしいでしょうか」 「貴官は何を申す」  石原は中央の権威を保とうとした。 「既に幾回も、我輩の名を以て、内蒙工作の不可を電報しているではないか。両長官は、軍をしてきびしく中央の統制に服さしめるよう、小官を派遣したものです」  武藤はのちに軍務局長となり、当時権勢並ぶ者のなかった東条でさえ意のままに使えなかった男である。すかさず、石原に逆襲した。 「これは驚きました。私たちは、石原さんが満洲事変の時やられたものを、模範としてやっているものです。あなたからお叱りを受けようとは、思っておらなかったことです」  他の参謀たちが声を合せて笑った。  石原は返す言葉に窮した。陰謀の先輩が後輩を説教することはできない。統帥権を紊《みだ》した者が統帥を説くのは滑稽である。  統帥は既に乱れている。統帥権は誰の手にあるか。何もしない天皇にそれがあるという拵えごとがそもそも無理なのだが、天皇に在ることになっていたはずのものが、天皇の掌中になかったことだけは確かである。統帥権は、恣意的に軍事を行なわんとした血気盛んな軍人の手に、その都度、転々とするもののようであった。それが軍の綱紀を紊した因だとすれば、石原や板垣などはその元兇というべきであった。  石原は、当然のことながら、関東軍を抑えられなかった。石原が武藤にやりこめられてから二日後に、蒙古の政治的中枢である百霊廟に綏遠軍が突入した。  百霊廟占領は、紅格爾図の戦勝にもまして中国人を熱狂させた。蒙古軍を支援している関東軍が、なんらなすところなく百霊廟を失ったように見えたから、勝ち誇るのは当然であった。  関東軍としては地上部隊を使用しているわけではないから、戦闘に敗けたという実感は無論なかったし、打撃を受けたのは蒙古の雑軍だから痛痒は感じないが、当事者としては、いかにも粗末な謀略だったとして事を終らせたくない軍人の見栄がある。  百霊廟失陥後の関東軍の関心は、傅作義の綏遠軍が蒋介石の中央軍の支援と督励を受けて東へ反転し、チャハル省内へ攻め入って来るか来ないかに向けられた。つまり、土肥原・秦徳純協定による非戦区の境界線を守るか守らないかである。謀略失敗の手前、関東軍としては中国軍の方から出て来てほしかったのだ。もし出て来たら、次の年に起った日中戦争はその時点ではじまっていたかもしれなかった。  田中隆吉参謀は、「戦はバクチだ、丁と張ったら丁で押すんだ」と、面子にこだわって、百霊廟奪還を企てた。  結果は惨澹たることになった。謀略部隊は綏遠軍に撃破され、算を乱して敗走した。敗走する人馬を寒気と凍傷と雪が襲った。  雪原を彷徨う敗軍を、関東軍の飛行機が空から誘導して、かろうじてシャラムリンヘ撤退させた。シャラムリンには百霊廟とアパカから引上げて来た特務機関員がいた。そこへ敗残部隊が退却して来て、シャラムリンは混乱に陥り、不穏な兆しが見えた。  任地を撤収した特務機関員は後退を希望したが、田中参謀は許さなかった。  惨劇は十二月八日夜半ごろに起ったらしい。小浜大佐以下二十九名が殺され、通信手が一人だけ徳化へ生還した。  田中の謀略は失敗に失敗を重ね、その上、惨劇が加わった。叛乱を起した敗残部隊は中国軍に編入された。謀略を仕掛けた者が、謀略にしてやられる結果になった。  関東軍は、失敗つづきでなんら得るところのない綏遠工作を、シャラムリンの悲劇で幕にしたのでは面目まる潰れというほかはない。なんらかの口実を設けて武力を発動して、戦果をあげ、面目を維持したかった。  関東軍では、長城線外への出兵の必要が生ずることを予想(むしろ希望)して、その場合に中央が反対しないように諒解を取りつけるために、今村均参謀副長を東京へ送った。  だが、梅津陸軍次官は関東軍の出兵意図を封じた。先の石原大佐に対する関東軍幕僚の非礼を咎め、関東軍が中央の統制に服さないことを責めたが、真意は、謀略成功の可能性を認められなかったのであろう。  恰好がつかなくなったのは、軍としては板垣参謀長と武藤第二課長、工作主務者としては田中参謀である。勝手に二階に上って、梯子をはずされたようなものである。  ちょうどこのとき、突然、中国の西安で、張学良と楊虎城が蒋介石に対して兵諫を起し、蒋介石を捕えて監禁するという大事件が発生した。西安事件である。  綏遠紛争は、実は、張学良が兵諫を決意するについての、決して小さくない因子であった。共産軍掃討にだけ熱心で、抗日意欲がないかに見える蒋介石に対して、張学良は、内戦をやめて日本に当るべきことを主張し、容れられなかったのである。綏遠紛争に関していえば、関東軍の手先である内蒙古謀略部隊に対して綏遠軍が勇敢に戦っているときに、蒋介石の軍事指導が張学良には納得のゆくものでなかった。綏遠へ向って動員された中央軍三個師団は、どこにいたか。この軍団は、日本軍に向って進むにはあまりに遠く、紅軍を攻撃するにはきわめて好都合な地域に集結していた。関東軍の飛行機は連日綏東地区を爆撃したのに、南京からは一機も綏遠に送られなかった。飛行機がないのではない。国防献金で造られた新鋭爆撃機八十機が西安飛行場には並んでいたのである。  歴史の因果関係の流れとしてみれば、こうなるといってもよかろう。関東軍の謀略に発した綏遠紛争を一因子として西安事件が起き、西安事件は、国共合作への歩み寄り、一致抗日の体制準備の転機となり、翌一九三七年の「七・七」を迎えることになる、と。  傷だらけの綏遠謀略は、逆に、西安事件によって救われたようなものであった。  西安事件の勃発は、綏遠謀略の関係者に相反した二つの好機を提供した。  一は、世界の耳目が大事件に集中している間に矛を納めて問題を収束することである。  二は、中国が混乱しているどさくさ紛れに強引に実力行使をすることである。  シャラムリンの悲劇で、松井補佐官の表現を借りれば、「阿片のきれた隠者のような顔色だった」田中参謀は、俄かに活気を取り戻した。西安の兵変を汚名挽回の好機として勇み立ったのである。松井大尉は反対の意味での好機として利用すべきだと考えていた。  田中と松井は対決したが、松井の理性の方が優位を占めた。想像するに、田中は度重なる失敗で関東軍司令部内の信頼を失っていたであろうし、陸軍中央部が関東軍の出兵意図を封じた経緯があるので、工作の続行に関東軍としても成算が立たなかったのであろう。  関東軍が、しかし、蒙疆一帯への進出を果すには、このときから一年とはかからなかった。時の関東軍参謀長・東条英機中将の自慢の作戦で、彼の唯一の実戦がそれである。  日中戦争(「支那事変」)との関東軍のかかわりの部分で触れることにする。 [#改ページ]     4  初年兵たちの或る者は、関東軍の総司令官が大将・梅津美治郎であり、自分たちの属する方面軍の司令官が大将・山下奉文であると教えられたとき、不気味な未来を予感した。  総司令官の梅津美治郎に関してはほとんど知るところはないが、「マレーの虎」と謳われた山下奉文の雷名は、彼が敗将パーシバルに「イエスかノーか」と即答を迫った事とともに、誰知らぬ者がない。そのような猛将が東部ソ満国境を睨んで配置されているということは、兵隊の身としては、安全の保障というよりは危険の予約のように思えた。  関東軍は沿海州のソ連軍に対して攻撃を仕掛けるつもりで、マレー作戦の戦功将軍・山下奉文を持って来たのではないか。そう考えるのが、判断材料に乏しい兵隊の素朴な思考であった。  ソ連と戦争になれば、まず生きてはいられない。兵隊にはそういう切実な感想がある。四年前のノモンハンでの惨澹たる敗北は、軍がいかに緘口令を布いても、洩れていた。その噂の伝える限りでは、ソ連軍の火力や機甲部隊は圧倒的に優勢であった。同じことが太平洋の島々についてもいえそうである。この年のはじめ、南太平洋ではガダルカナルから日本軍が「転進」しなければならなかった。「転進」などと報道部が体裁のいい作文をしてみたところで、それは戦に負けて撤退を余儀なくされたということにほかならない。四月には、連合艦隊司令長官・山本五十六がソロモン群島上空で戦死した。つづいて、この年五月には、北のアッツ島で、山崎大佐以下が「玉砕」した。日本の陸海軍は救援にも行けなかった。真珠湾攻撃やシンガポール攻略のころの景気のよさは、もう、遠い話になってしまっている。ミッドウェーの惨敗(昭和十七年六月)こそ国民は知らないが、戦局は既に傾きかけていることは、よほどの楽観論者でない限り、感じている。  反対に、ソ連は、ドイツの圧倒的な電撃戦を食いとめ、押し返している。この年に入ってスターリングラードでドイツの大軍を降伏させ(一月)、スモレンスクを奪回し(九月)、キエフをも奪回した(十一月)。その戦力は底知れぬものがある。いまここでソ連と戦火を交えたら、もう、国境にいる兵隊は生きていられるなどとは思わない方がいい。  このごろの関東軍の陣容は、梅津総司令官の下に、第一方面軍司令官として山下奉文が牡丹江にあって、虎頭、綏芬河・東寧・図們を連ねる東部ソ満国境に備え、阿南惟幾(敗戦時の陸軍大臣。自決)が第二方面軍司令官としてチチハルにあって黒河・※[#「王+愛」、unicode74a6]琿・孫呉の黒竜江岸に備え、兵力二十師団を擁していた。関東軍史上最強の布陣と評価してもよかったろう。ただし、これは、対ソ攻勢をとるためのものではなかった。  昭和十六年十二月、「大東亜戦争」発起以来、二十年八月のソ連参戦まで、関東軍はそれ以前の対ソ攻勢的戦略から転じて、静謐《せいひつ》確保を否応なく基本方針とせざるを得なくなっていた。大戦突入以来、多正面作戦を回避する必要が深刻になるばかりであったからである。  静謐を保持するのにも、しかし、積極と消極がある。強大な戦力を維持して鳴りをひそめ隠然とした圧力を及ぼすのもそうなら、小さくなってひたすら相手を刺激しないようにつとめ、局部的な挑発を受けてももっぱら我慢するというのもそうである。関東軍の静謐保持は、戦力抽出がはじまる(昭和十九年初頭以降)までは前者であり、それ以後は後者であったといえるであろう。  杉田が入隊したころは、その端境期であった。軍はまだ弱体化していなかったから、訓練は猛烈であった。兵隊は軍の大方針が静謐確保であることなど知らされなかった。したがって、この方面の主将が山下奉文であることから、いつの日にかマレー作戦張りの沿海州作戦が行なわれるものと、内心たじろいだのも当然であった。  興凱湖の付近は湿地帯が多い。野地坊主とは誰が名づけたか、草の密生した土地が大小無数の円形をなして、水のなかに散在している。野地坊主は堅く固まっているが、水の部分はそう深くもないのに、試しに棒でも突き入れてみると、底がないかのようにはまってゆく。浮動性重湿地帯と呼ばれていた。  冬は、凛冽な寒気がそこを一面の氷原と凍土に変える。夜、寝鎮まった兵舎に、ときおり、遠くで大砲を撃ったような音がひびいてくる。凍った湿原が裂ける音である。  男たちは、藁蒲団に封筒型に巻きつけた毛布にくるまって、眠っている。自分たちの生活を遙か後方に残して、国境まで来て、疲れ果てて泥のように眠っている。消燈ラッパから起床ラッパまで、眠りは天国である。兵隊には、とりわけ初年兵には、眠り以外の快楽はない。日曜祭日はあっても、外出するところがない。面会人も来ない。ここは、兵隊以外の生き物はノロぐらいのものである。日曜祭日には、酒や甘味品が下給されるが、初年兵たちは古年兵たちの練達したアラ探しの眼の前で、小さくなって味わわなければならない。  初年兵の内務班生活については、書き立てればきりがない。すべての部隊の内務班に共通していることは、初年兵に寸暇も与えないような躾《しつけ》の不文律があるということである。一期検閲を終っていない初年兵は、まだ兵隊でさえない。当然人間以下である。軍馬以上に扱ってもらえる初年兵などというものは実在しないのである。初年兵は葉書一枚にしか値しない。軍馬はその数千倍の価格がつくであろうからである。古兵たちは、概ね、暇をもてあましている。その古兵たちの幾十とない眼が、常にどこかで光っている。初年兵の態度、動作、言葉、何から何まで監視されている。監視されないのは糞をたれるときだけであるといってよい。監視者の気にくわなければ、ビンタである。恐怖によって規律を形成する。それが内務班である。初年兵には、まだ「陛下の赤子」の資格はない。一人前の兵隊となってはじめて「醜《しこ》の御楯」としてのものの用に立つのである。  古兵は藁蒲団の上にあぐらをかいて花札をひいている。傍らで初年兵は「一、軍人は忠節を尽すを本分とすべし」と唱えている。無論、いつもそうであるというのではないし、すべての古兵がそうであるというのでもない。それでも、やはり、内務班とはそういうところである。兵隊は、年次が古くなると、自分が初年兵のときに味わった苦しみ、理不尽を、新しい初年兵にそのまま「申送」る。それに耐えられないような兵隊が、敵と戦って敵を殺せるかというかのようである。  将校も下士官も、概ね、見て見ぬふりをする。軍の主とするところは戦闘である。戦闘において信頼の置ける戦力は古兵である。したがって、平素古兵を咎め立てして怨みを買うようなことがあれば、自分が指揮の責任を負わねばならぬ戦闘で古兵の働きを期待できなくなるからである。下士官は古兵の成り上りであるから、自分の面子が潰されない限り、かつての同輩の所業に寛大であることを賢明と心得ている。  初年兵には、一挙手一投足すべてに規格がある。個性や独自性の表現は許されない。もし表現したら、「文句だ」とか「生意気だ」とかいう理由で間違いなく制裁される。その制裁を正当化する条文は、軍隊を隅から隅まで律しているすべての「令・典・範」(俗に典範令というが、順序からいえば令典範である)のどこにも一行もないにもかかわらずである。  国境部隊には外出するところもないから、兵隊のエネルギーは鬱屈していた。鬱屈して発酵した若い男たちのエネルギーが醸し出すすべての矛盾を、最終的に受けとめる底辺が初年兵である。愉しい日があろうはずがない。  杉田は、水仕事で両手十本の指がどれも一関節の長さに幾条も縦に裂けた。あかぎれなどという程度ではなかった。床板に朝晩「ソクコウ」をかけるのが、この部隊の習慣であった。「ソクコウ」と云われてもわからないが、束藁である。藁を束ねて水に浸し、それで床板を磨くのである。体は頑丈でも、事務しかやったことのない男の手の皮は薄かった。おまけに、編上靴《へんじようか》の底を舐めたように綺麗にするには、水を使ってはいけないことになっていても、やはり水と手を使わなければ目的を達しなかった。舐めたようになっていさえすれば、水を使ったことは明らかでも、見廻りの週番上等兵や初年兵掛は文句を云わないのである。  ある日、日夕点呼後に、班長の橋爪伍長が杉田の手を見て、「お前は水仕事をしないでよし」と、みんなの前で云った。  杉田は古兵たちの白っぽい視線を意識した。その視線は、杉田がもし橋爪伍長の好意に甘えたら、手が痛いぐらいでは済まないことをさせてやろうと狙っているようであった。  班内で有力な古兵に取り入りもせずに、しかも誰からも個人的にはビンタを受けないというのは至難の業である。全身の神経を針鼠のように立てて、何でも、より早く、より多く、より正確にやり抜いて一瞬の油断もしないか、誰の眼からもどうにも手のつけられない馬鹿と思われるか、どちらかしかない。後者は前者よりもさらにむずかしいかもしれない。  杉田は、神経を張りつめて、いつ切れるかわからない方を選んだ。  三十年近くたってみて、軍隊の二年間で何を覚えただろうかと思ってみる。否応なく身についた軍事的技術は別としてである。  全く滑稽なことだが、「地方」にいては決して覚えなかっただろうと思われることが一つだけあった。瓶を紐で切ることである。  古兵の一人が杉田にサイダーの空瓶と長い紐を渡して、切って来いと云いつけた。だしぬけのことで、面くらっている杉田に、古兵は目的も方法も云わずに行ってしまった。杉田は瓶の底の部分を蝋燭立にでもするのであろうかと思った。紐で瓶が切れるわけがない。要するに切ればいいのである。切るには、熱を加えて急速に冷やせばいい道理である。  杉田は紐にランプの灯油をしみこませて、それで瓶を一巻きして、火をつけ、熱して、防火用水のなかに瓶を入れた。瓶は確かに切れたが、切口が上出来とはいえなかった。灯油で加熱された幅がありすぎて、割れ目が整然としていないのである。  古兵はそれを見て、不満そうだったが、文句は云わなかった。瓶を切るのは、これではいけないらしい。原理は同じだが、文字通り紐で切るのである。紐を巻きつけて、二人がかりで交互に紐を引き合って瓶を摩擦し、水につける。慣れないうちは、この方法でも、巻きつけた位置が横にずれてうまくゆかないが、慣れると刃物で切ったように切れる。しまいには、紐の一端を柱か壁に固定して、今度は逆に瓶の方を動かして、一人でも切れるようになる。  切った瓶の口の方は風鈴に化けて、兵舎のあちこちで季節はずれの澄んだ音を立てたが、底の方が蝋燭立になったのは見たことがなかった。それは、たいてい、古兵の私物の煙罐に使用された。規則違反だから、所持品検査のときには捨てられる運命にある。初年兵たちは、しかし、古兵たちが所持品検査で咎められたのを見たことがなかった。古兵は、流石《さすが》に、要領をもって本分とすべきことを心得ていたのである。  野外訓練は猛烈だったが、内務班の嫁いびりに似たものがないから、苦痛も疲労も肉体の次元で事が足りた。「顎が出る」とか「ひでえ疲れ」とかいうが、そしてそれは肉体的な事実だが、内務班での精神的な苦痛・屈辱に較べればものの数でない。  歩兵の戦闘教練の内容は学校教練と大して違いはなかった。軽機関銃をへの字の頂点に置く傘型散開による分隊戦闘が、兵隊に関する限り基本的なもので、戦闘単位が小隊・中隊・大隊・連隊と大きくなっても、兵隊個人の役割にほとんど変りはない。火線に在るか予備線に在るかによって、兵隊の運命に違いがあるくらいのものである。  長以下十三名の分隊に軽機一挺は、帝国陸軍歩兵部隊としては火力の大増強を図ったものだろうが、小銃手は、一装填僅かに五発の、しかも連発ではない九九式短小銃をもって、国境の向うから来ると想定している自動小銃をもった敵とどう渡り合うのか。「必勝の信念」は効能がなくなるほど反復して吹きこまれたが、必勝の戦闘法は歩兵操典にも射撃教範にも書かれてなかった。  兵隊が自動小銃を持てなかったのは、その兵隊が守ることを強制されている国の生産力が乏しいからである。乏しさを補うために、一発必中と白兵主義が強調された。  歩兵操典にはこうある。 「歩兵ハ軍ノ主兵ニシテ其本領ハ常ニ戦場ニ於テ主要ナル任務ヲ負担シ地形時期ノ如何ヲ問ハス戦闘ヲ実行シ最終ノ勝ヲ決スルニ在リ而シテ敵ニ近接後ノ戦闘及夜戦ニ於テ其特色ハ愈々顕著トナリ其戦闘ハ益々惨烈ヲ加フルモノトス故ニ歩兵ハ剛胆ニシテ耐忍ニ富ミ沈着ニシテ勇敢克ク射撃及突撃ヲ以テ敵ヲ破摧シ縦《たと》ヒ他兵種ノ協同ヲ欠クコトアルモ百方手段ヲ尽シテ自ラ戦闘ヲ準備シ且之ヲ遂行シ……」  初年兵たちはこの文句を鵜呑みにしたが、退命は彼らを全く「他兵種ノ協同ヲ欠ク」状態で戦闘に投入したのである。  杉田は、突撃訓練を重ねれば重ねるほど、白兵の威力を信じなくなった。敵の火力に対して「自己の銃剣に信頼」することなどできないのである。実戦は突撃演習とも剣術の間稽古ともちがうのだ。敵が銃剣で応戦してくれるとは限らない。毎分何百発もの弾丸を発射する火器を持った敵が正面にいるのである。敵に肉薄する各個躍進の要領にしたところで、自軍の火力を基礎にして計算されている。自動火器を前にして「突撃に進め」がかかったら、疾走間に斃されることは間違いない。「手榴弾ノ最終弾ニ膚接シテ敵陣ニ突入スル動作」などが通用する相手ではなさそうである、この国境の向うにいる奴は。  白兵の神話は信じられないが、「一発必中」の方はまだよかった。狙って、射って、中《あて》ている間は、生きているのである。  銃は正直である。銃はそれぞれに個癖があるから、それを会得して正確に射てば、正確な答が返って来る。信頼できるのは銃だけであるかもしれなかった。少なくとも、その兵隊以上でも以下でもない答を常に出すからである。 「射撃姿勢ハ兵ノ体格ニヨク適合シ堅確ニシテ凝ルコトナク……」とあるのも、杉田の気に入った。そこには、少なくとも、紋切型の内務教育とは全く反対のものがあった。  はじめて橋爪班長が起床前に初年兵を実包演習に連れ出したとき、杉田は、円形の標的に対して、射程三百、射弾五発で、高い点を出した。杉田は実包射撃ははじめてではなかった。満洲事変のころに中学生で、配属将校に引率されて実包演習に数回行った。東京の学校に進学してからも、近衛連隊の射撃場で実弾射撃訓練を受け、五発で四十七点を射って、介添の下士官から「うまいね。よほど射ったことがあるな」と云われた。そのときは照門がM字型の三八式だったが、今度は照門が小さな輪になった九九式で、照門の中心点に照星頂を正しく見出すことがむずかしくて、学生のときより打点が少し落ちたが、悪い成績だとは思わなかった。  橋爪班長は杉田の弾痕を調べて、 「点が高けりゃいいってものじゃないぞ」  と云った。 「兵隊の射撃はな、競技会用じゃない。十点の部分は文句はないが、九点のを見ろ。弾痕が離れている。十点の上を射っても九点、下を射っても九点、同じ九点だが、この二発は零点に近い。弾が五発とも円内に入らなくてもいい。標的の隅っこでもいい。五発全部まとまって中っている零点の方が、バラバラの九点五発の四十五点よりずっといい。わかるか」  杉田は実戦向きの射撃がわかったような気がした。端の方でもまとまって入っているのは、偏差を修正すれば正確な命中弾になるわけである。  帰路、橋爪伍長が杉田の横に来て云った。 「お前、明日から狙撃手訓練をする。特別扱いはせんぞ。実包訓練は起床前だ。いいな」  兵隊に諾否はない。杉田がやる気になったのは、射撃が嫌いではなかったのと、学生時代の思想歴で人事掛(内務掛)准尉の手もとにある身上調書には赤い付箋がついているから、特殊技能は不利な条件を多少でも軽減する材料になるであろうと打算したのである。  狙撃手の任務は、敵の指揮官と有力な火点(たとえば機関銃)を狙撃することである。  訓練が要求する射撃精度はきびしかった。初歩的には、射程三百の伏的(伏せた人間の頭と両肩を形どった的)に、射弾五発全弾命中は勿論のこと、そのうち少なくとも三発は握り拳大の面積のなかに集中していなければならない。それができるようになると、今度は限秒射撃である。はじめは限秒四秒で、三百メートル彼方のどこに出るかわからない的を射つ。次は限秒二秒になる。それが達せられると、防毒面を装面して三十メートルを疾走、それから限秒射撃に入る。 「射てなければ朝飯は食わさんぞ」  杉田は班長や古参狙撃手の叱咤を何度聞いたかしれない。  早く帰営しなければ、数分の遅れを、一日じゅう、消燈まで取り戻すことができない。それは古兵の厭がらせとなってはね返って来る。おまけに、実包射撃後の銃腔の洗滌が同僚より余分な仕事としてある。硝煙を残したままにしておいたら、「捧げ銃《つつ》」三十分は間違いない。  大の男が少女のようにおろおろして、あせればあせるほど呼吸が騒ぐ。  銃は機械である。人間も機械にならなければならない。一瞬の間に目標の中央下際と照星頂を結ぶ線を照門の中心点に正しく見出して、冷やかな撃鉄を引く。静かに、無心に、しかも速く。  昔は撃鉄を引く要領を「暗夜に霜の降りる如く」といったそうである。この要領では、しかし、おそらく間に合うまい。火線にあって何秒間も暴露している敵はいないのだ。発見する。次の瞬間に照準線が合って、撃鉄が落ちている。仕損じたら、その次の瞬間には、その狙撃手自身が敵の自動火器の猛射にさらされることになるのは必至である。  杉田は——杉田に限らない、特定の訓練を受けた者はすべて——機械的な正確さと機械的な時間を肉体化していた。  雪と氷が溶けはじめて、冷たくぬかる地面に「伏せ」の号令がかかったとき、ふと、鼻先にうぶ毛の生えた紫色の迎春花が土から顔を出していたりする。胸を絞るような悲しい疼きが走る。兵隊しかいない殺伐荒涼とした地帯では、大して見映えのしない花でも、そこにはない一切のものを意味し得た。女を、その声を、姿を、匂いを、愛を、安らぎを。殺しの演練ではなく生きる営みのすべてを。それにつづいて、男は身を灼くような呪いに捉われる。何故彼はこんな地の涯にいなければならぬのか。何故彼は彼が愛する者のところへ帰って行くことができぬのか。何故彼は、見たこともない、憎くもない「敵」を殺すために、一発必中の腕を磨くのか。それから次の号令がかかるころには、男は幾百回となく繰返した諦めのなかに自分を閉じこめる。召集を拒否する勇気のなかったのは誰か。お前ではないか。軍隊の矛盾に耐えるために精兵となる矛盾を重ねているのは誰か。お前ではないか。ブツブツいうことはない。卑怯なお前が悪いのだ。  初年兵のうち、学校教練の課目に合格して、幹部候補生試験を受ける資格を持っている者は、ほとんど志願した。杉田はしなかった。  志願した者ほとんどすべての本音は、同じ苦労するなら、幹候教育でしごかれるのを我慢して、早く将校になって兵隊の屈辱から脱した方がいい、ということであろう。  杉田は人事掛准尉に呼ばれて、幹候を志願しない理由を質された。 「自信がありません」 「何の自信がだ」 「将校として不適格であります」 「お前は術科も学科もいい。お前が自信がなくて、誰が持てる」 「そうではありません。私は兵隊として行動できるだけであります。将校は命令しなければなりません。兵隊を死地に投じなければなりません。私はその場合、遅疑逡巡すると思います。私は自分をよく知っております。これが不適格な理由であります」 「完全な将校なんてものはおらんよ」  准尉がニタリと笑った。この准尉は満洲事変以来の古狸である。兵隊のことも隅から隅まで知っておれば、将校の弱点も知り尽している。 「何のかのと云いおって、お前は将校になったら除隊できんのが厭なんだろう。云っとくがな、この時局だ、召集兵でも召集解除はないぞ。地方に残して来た仕事や未来の計画もあろうが、そんなものは戦争が勝利をもって終らん限りゼロにひとしいと思え。お前の思想前歴のためにも云っておく。隊長殿以下班長に至るまで、お前の前歴をとやかく云ったことがあるか。お前は優秀な兵隊だ。優秀な将校になる素質も持っておると思えばこそ、隊長殿以下、お前に嘱目しておる。悪いことは云わん。志願しろ」  杉田は妥協する気はなかったが、准尉にむげに反対するのは喧嘩を売るようなものである。 「考えさせてください」 「よし、考えろ」  数日後、また呼ばれた。 「考えたか」 「やはり、志願致しません」 「馬鹿者が」  准尉が低い声を押し出すようにして唸った。 「俺は何百何千という兵隊を見てきた。だから、お前の云うことがわからんでもない。だが、隊長殿や教官殿はどうかな。お前が将校を意識的に忌避しておると解するかもしれん。依然として反軍思想に毒されておると思われるかもしれん。その結果がどうなるか、わかっているのか」 「わかりません」  どうでもなりやがれ。どうせこの戦争は敗けるんだ。 「兵隊は命令のままであります。幹候は志願でありますから、命令ではありません。志願致したくありません」 「よし。隊長殿に一応報告しておく。期日までにまだ間があるから、考え直したら俺のところに来い」  杉田は運命の選択をした。このとき志願した者は散り散りになって敗戦を各地で迎えたはずである。生死の百分比は遂にわからない。 [#改ページ]     5  関東軍からの兵力抽出は昭和十九年の二月から大量規模ではじまっていたが、兵隊は実際に動員がかかるまで自分の運命の変化を知らずにいた。完全軍装の動員演習が何回となく深夜に行なわれたのも、考え合せれば抽出に備えてのことであったろうが、兵隊たちはソ満国境の何処かにノモンハン事件のような大事件を想定してのことと考えていた。  兵隊以外の人間の生活のない地帯では外出も面会もないから、兵隊は兵営外の情報にまるでうといのである。新聞も読めない。ラジオも聞けない。明けても暮れても練兵と内務である。教育の方向が、また、静謐確保の大方針を想像させる片鱗もなかった。関東軍には対ソ戦を仕かける野心も戦力もなくなったと兵隊にもわかるようになるのは、二十年に入ってからである。  一期検閲が近づいたころから、初年兵の一部は古年次兵に混じって衛兵勤務につけられはじめた。古兵の話では、検閲前の初年兵で衛兵に上番するのは、中隊幹部が優秀と認めた者だけであるということであった。杉田にとっては、しかし、それは懲罰にひとしかった。  衛兵といっても、内務営兵だけではない。営外に出て数キロにわたる動哨をすることが多かった。初年兵は、古兵から、衛兵に立つときには営倉に片足を突っこんだ気でやれと聞かされていた。衛兵の失敗は許されないのである。軍隊内務令には「……之ニ当ル者ハ聯隊ノ軍紀風紀ノ精粋ヲ以テ自ラ任シ厳粛ニ服務スルヲ要ス」とある。兵隊ずれしてしまえば、歩哨の一般守則と随時与えられる特別守則を弁えていさえすれば、あとは二十四時間勤務——原則的には、立哨・仮眠(休憩)・控え各一時間ずつの三交替制——の疲労に耐えるだけなのだが、初年兵のうちは、勤務のなかで最もきびしい勤務として嚇《おどか》されているから、気疲れがするのである。  ときどき意地の悪い巡察が来て、守則を逆手にとったり、歩哨の心理的盲点を衝いたりして、失敗を誘い出す。よくある話で「鼠が火を咥えて弾薬庫にとびこんだ。どうするか」と歩哨がきかれるのは、単なる作り話で、そんな馬鹿げたことをきく巡察はいないだろうが、それでも軍隊の一面を巧妙に表現しているとはいえる。この場合、「猫に水を含ませて追いかけさせます」と答えればいいのだそうである。漫才師でも軍隊に入ったらこうはやれまい。話の質は異っても、似たようなことは事実ある。巡察将校が歩哨に、お前の銃は手入不良だ、ちょっと見せてみろ、といって歩哨から銃を取る。歩哨は如何なる場合にも銃を手放してはならないことになっているが、将校からそう云われれば仕方がないから手放す。すると、お前は歩哨の守則をおろそかにした、と責められるのである。これなどは軽い方である。勤務に疲れて立哨中にうっかり眠りでもしたら事である。国境は敵前または軍中に準ずるから、軽い懲罰では済まない。営倉ぐらいでは勘弁してもらえないのである。  杉田は、何故か、衛兵の連続上番をさせられた。普通は二十四時間で下番するのだが、勤務兵が少ない場合には連続上番ということがある。杉田は、三昼夜連続上番、一日下番、また連続上番を再々やらされた。下番の一日には容赦のない練兵と内務がある。  日夕点呼後に、 「明日の衛兵上番者を達する」  という週番下士官の声を聞くと、杉田は灰色に塗り潰された気持で観念した。  週番下士官から、個人的には、お前はしっかりしているからとか、古年兵に事故があるから代ってやってくれ、お前ならできるとか云われて上番するのだが、故意の勤務割としか思えなかった。隊長の意嚮か准尉の悪意かは、判定する術もなかった。  橋爪班長が、あるとき、杉田を呼んで、掌に載せた一発の実包を見せた。 「俺はいつもこれを持っている。やるだけのことはやるのだ。失敗したら、人には裁かれない。わかるか」  任務には耐えろ。やれるだけのことはやれ。失敗したら黙って死ね。そういう意味であったろう。実包は、員数合せがうるさくて、初年兵の分際では手に入れることは困難だが、橋爪伍長はいつのころからか一発の実包を身につけていたらしかった。  被服掛の植松上等兵は、あるとき、新しい襦袢袴下一揃を杉田の前に放り投げて、 「それを着て行け」  と云った。 「顎を出すでねえぞ。黙ってやれ。中隊一の上等兵候補の意地を准尉に見せてやれ」  歩兵には基本的に三つの条件がある。行軍と射撃と銃剣術である。それに内務と学科を加えて及第点に達していれば、罰する口実がない。杉田は、だから、不当に苛酷な勤務につけられるのだと解してもよさそうであった。  疲労が重なって、背なかに鈍痛が蟠踞するようになった。目に見えて痩せてきた。勤務中に悪魔の抱擁のような眠気の囚になった。  敵前だぞ。禁錮五年だぞ。  杉田は陸軍刑法の不吉な影に脅かされながら、睡魔と悪戦苦闘した。これでは、戦場に出される方が楽かもしれなかった。  一期検閲が済んだころ、大地は、一望、濃緑の原野と化していた。活力に満ちた春と夏がいっしょに駈足でやって来て、一年分の生命の増殖を営んでいた。  検閲は、戦闘教練は型どおりのものだったが、完全軍装の五十キロ行軍はこたえた。落伍者も出たし、所定の十時間以内に歩き了せた者も疲れ果てていた。歩兵は歩く兵隊にちがいないけれども、こんな強行軍のあとで戦闘に加入したら、とても満足な戦闘行動などとれそうにもなかった。  検閲行軍から帰営したときだけは、古兵が飯上げまでして面倒をみてくれるが、落伍した者は悲惨であった。古兵が樽に水を入れて待っていて、よろめきながら帰って来た落伍者に水を浴びせかける。罵倒する。アルミ食器に盛ってある飯を食おうものなら、兵隊一人前のことができもしないで、飯だけは一人前に食えるのかとやられる。屈辱的な罰を食わされる。ビンタによらない私刑である。殴られて気絶した方がましだと思えるくらいである。気息奄々としながら女郎の真似などさせられて、それでも耐えなければならないのが初年兵である。  検閲後、一選抜の進級が行なわれた。杉田も入っていた。橋爪班長は、身上調書では要注意のこの齢上の兵隊が、気に入っているようであった。互いに肚を打ち割って話し合うようなこともなかったから、杉田の狙撃手としての射撃技術、手榴弾七十四メートルの投擲能力が、その兵隊を部下に持つ班長の持駒として意味があったにすぎないかもしれない。軍隊での人的関係は、しかし、本来そのようにしか形成されないのかもしれない。戦闘死生の間に兵隊同士相互にどれだけ役立ち得るかが重要なのであるから。杉田は、のちに関東軍最後のときに、彼に徹底した訓練を施した橋爪伍長を懐かしく想い出したものである。  植松上等兵も杉田の進級に気をよくしていた。彼は、准尉が彼を前に兵長に進級させなかったことを怨んでいるようであった。彼の考え方では、強い兵隊は弱い兵隊より早く進級すべきものであった。強さでは、彼は、大隊屈指といってもよかった。その彼が、たとえば同年兵の竹山が兵長に進級したとき、兵長になれなかったのである。杉田は植松の目から見れば、強い兵隊に属していたらしい。その兵隊が准尉に睨まれていながら、一選抜で一等兵に進級したのは、植松の兵隊観を満足させたらしいのである。  だが、そうでないのも無論いた。三年兵の一等兵からの風当りが強かった。どこの部隊でも似たようなものだろうが、三年兵の一等兵は、大別して、きわめておとなしい分別に富んだ兵隊と、直ぐにヘソを曲げる始末におえない兵隊とに分れるらしかった。後者は、一選抜進級の初年兵をつかまえて、上等兵候補だからといってでかいツラをするな、と眼を白く光らせた。軍隊は星の数ではない。バック(食罐)を何本食ったかによる、というのである。確かにそうであった。後日、杉田は、別の部隊で上等兵に進級して、二年兵の星三つが三年兵の星二つからどんな目にあわされても、我慢しなければならないことを経験したのである。  杉田は身心の疲労が限度に近づいていることを意識していた。弱音を吐かずに耐えて、あとは倒れるだけである。何も倒れてのちやむなどと思っているわけではないが、勝てない相手とわかっていても軍隊に屈服するのが厭なら、とどのつまりは病気で倒れるほかはなさそうであった。  十数回目の衛兵連続上番から下番したとき、杉田は意地にも起きていられなくなった。衛生兵は、はじめは単純なネッパツ(熱発)だと思ったらしいが、体温が四十度を越えると、あわてて杉田を入室させた。入室とは医務室で寝かされることである。軍医は急性肺炎と診断して、杉田を分院へ送った。  杉田は、高熱のなかのどこか一点さめた部分で、軍医の「担送」の声を聞いたとき、これで「捕虜」の身分からいっとき救われると考えていた。急性肺炎なら一週間目あたりが峠で、その辺で死ぬものなら死ぬ、助かるものは助かるとされていた時代である。ペニシリンのような特効薬はなかった。杉田は生死は考えなかった。どうでもよかった。真珠湾の日に悲観的な言辞を弄して上役から咎められ、沈黙してしまった男、厭でたまらぬ軍隊にとられたくせに、最大限の努力をして「優秀な兵隊」になることで自分を護ろうとした男の矛盾は、おそらく、どこかで破綻を来たさずにはおかないであろう。フル回転したエンジンの油が切れたにちがいない。あるいは、もう、スクラップになるしか途はないのかもしれない。  准尉か隊長か知らぬが、彼を消耗し尽すところまで追いこもうと考えた者がいたとしたら——いたにちがいがないのだが——その男が目的を達して満足しているであろうことだけが、残念であった。  杉田は分院へ送られる途中で譫妄《せんもう》症状に陥りはじめた。  意識を恢復したとき、五日を経過していた。白衣の看護婦がいるのが不思議でならなかった。女は、絶えて久しく見たことがなかった。 「もう大丈夫ですよ」  看護婦が云った。声の甘さがほとんど触覚にふれるようであった。 「ここはどこですか」 「東安陸軍病院の分院です」  看護婦がつづけた。 「何かほしいものがありますか」 「……もしありましたら、香水を少し」  考えずに、口がひとりで云ったことである。云ってから、馨しい匂いは、この際、生命のすべてについて何よりも豊かな物語を聞かせてくれるような気がした。  数日経って、彼は、看護婦が制めるのもきかずに、ひょろひょろと建物の外に出た。  茫漠とした原野に、野生のかきつばたや百合が咲き乱れていた。何本か手折って空瓶にさし、廊下の窓に置いてまわっていると、衛生兵が、 「お前はまだ独歩患者じゃないぞ」  と、かなり激しい語気で云った。 「勝手な真似をすると原隊復帰だぞ」  そうは、しかし、ならなかったのである。  一両日後に、橋爪伍長が植松上等兵と数名の初年兵を連れて来た。見舞にはちがいなかったが、これは別れであった。  部隊は、近日中に、何処か知らぬが出動するというのである。 「どこですか」  思わず愚問を発した。 「それは着いてみるまでわからんよ」  橋爪伍長が云った。 「お前はよく頑張ったよ。手塩にかけたお前を連れて行けないのが残念だが、仕方がないな」 「あとから来い」  植松上等兵が盛り上った肩を揺すって、白目がちの眼をパチパチさせた。 「な」  こうして、杉田は取り残された。  関東軍の兵力抽出が杉田の身辺に及んだのは、これがはじめてであった。  この部隊——昭和十六年に北海道旭川で編成され、以来、東部ソ満国境の精鋭部隊として練度の高さを誇っていた部隊——は、このとき沖縄へ転用され、十九年八月五日、那覇に上陸した。平良川付近に陣地を構築したが、十二月に東風平《こちんだ》村へ移動し、そこで二十年四月の米軍上陸を迎え、五月四日、沖縄軍の第二次攻撃に際して軍の右翼から突撃を敢行、潰滅的な損害を受けた。五月末、首里戦線から戦いつつ後退、興座付近の陣地でほぼ全員が戦死した。  もし入院ということがなかったら、杉田も当然運命を共にしなければならなかったであろう。  杉田が最初の原隊の消息を知ったのは、戦後も久しい年月が経ってからである。杉田は、しかし、これで死の顎《あぎと》から脱し得たわけではない。 [#改ページ]     6  付近に駐屯する部隊がなくなったからであろう。分院は東安へ撤収した。杉田はようやく独歩になったばかりであった。  体力の恢復は早かったから、本院へ移れば直ぐに何処かの部隊への転属命令が出ると思われたが、事務が輻輳していたとみえる、独歩の杉田は消毒釜の使役に当てられて、のんきな日を送った。  この間に彼は、予備役召集の衛生兵長から多量の古新聞をまわしてもらって、消毒室で読み耽った。  報道管制下にある新聞は正確な報道をしなかったから、新聞から得た外界の知識と事実の推移にはかなりのズレがあるが、それでも戦局が日に日に傾いていることは、誇大な大本営発表の隙間から見えていた。  関東軍の兵力抽出転用を必要とした戦局は、次のように急迫していたのである。  この年(昭和十九年)二月早々に、米軍はマーシャル群島のクェゼリン、ルオット両島に上陸、五日後に両島守備隊六千八百の日本軍が玉砕した。  二月末、米軍はアドミラルティ諸島のロスネグロス島に上陸した。これは、日本が防備を固めていたラバウルを米軍の背後に孤立させる作戦で、戦争終結までラバウルは遠く孤立したままであった。この二月までに、ラバウルを含む海域での日本軍の損害は、戦死十三万、艦艇七十隻、船舶百十五隻、飛行機八千を算えた。  三月末日、米機動部隊は日本の連合艦隊の根拠地パラオに来襲した。連合艦隊司令長官・古賀峯一大将は空襲を避けるためにダバオヘ後退する途中、飛行機事故で殉職した。  四月下旬、米・豪連合軍がニューギニア北部アイタペ、ホーランジャに上陸。日本軍は飢餓と敵軍に挟撃されて戦況絶望的となる。  五月下旬、米軍ニューギニア西方のビアク島に上陸。  六月十五日、米軍は、日本が絶対国防圈としていたマリアナ群島のサイパンに上陸した。東条首相・陸相・参謀総長はサイパンは絶対に陥ちないと豪語していたが、守備隊三万は住民一万を道連れにして玉砕した。七月七日のことである。  六月十九日、マリアナ沖海戦で日本海軍は残存空母・航空機の大半を失った。  七月四日、先に三月八日に開始されたインパール作戦は惨澹たる失敗に終った。参加兵力十万、死者三万、戦傷病四万五千。  七月十日、東条は参謀総長の兼任を辞め、七月十八日、関東軍総司令官・梅津美治郎が参謀総長に就任。関東軍総司令官には山田乙三が当てられた。  同七月十八日、サイパン失陥に集中的に表現される戦局非勢の動かしがたい事実の前では、さしもの権勢欲の旺盛な東条も、重臣連合の圧力に屈して内閣総辞職せざるを得なかった。後継内閣は小磯国昭、米内光政の協力内閣である(七月二十二日)。  七月二十一日、米軍グアム島に上陸。守備隊一万八千、八月十日玉砕。  七月二十四日、米軍テニヤンに上陸。守備隊八千、八月三日玉砕。  この間、ヨーローッパでは、ドイツが敗退をつづけていた。  一月二十日、ソ連軍は三年にわたるドイツ軍の包囲を破ってレニングラードを解放した。  四月十日、ドイツ軍はオデッサからの撤退を余儀なくされた。  六月四日、米英軍がローマに入城した。  六月六日、連合軍、史上空前の規模によるノルマンジー上陸作戦。ドイツの決定的敗北の転機となる。  七月二十日、ヒトラー暗殺計画失敗。  八月二十五日、連合軍パリ入城。  かつて地球の東西で怒濤の進撃をほしいままにしたドイツと日本は、いまは随所で連合軍の痛打を浴びて満身創痍となっていた。  サイパンが陥ちたとき、病室では珍しく戦況をめぐっての私語があちこちで交された。入院患者の関心は、たいてい、内地送還・除隊に集中していて、そうなる可能性のない者、つまり早晩原隊復帰または転属になる者は、内地送還についての取沙汰を羨しく聞いているのである。戦況がどうであれ、ここは戦線からは遠かった。兵隊は命令によって作動する戦闘機械にすぎないから、自分が戦線に立たされたときには誰に替ってもらうこともできない代りに、自分が後方にあるときは戦線の者に同情したりはしないのが普通である。前線に玉砕が相次いでも、あるいはそうであるからこそますます、内地送還・除隊に憧れるのだ。  サイパンのときは、さすがに、少し異常であった。危機が日本に近づいたという認識が、稀薄ながら誰にもあったようである。  杉田が使役を終って病室へ戻ると、隣の寝台の召集一等兵が話しかけてきた。 「連合艦隊はどこに行っとるかね」 「……さあね」 「本土に引きつけて決戦して叩くために、大事にしまってあるんだろうな」  杉田は、相手が自分より幾つか齢上の、同じ召集一等兵で、内地の何処かで三等郵便局をやっていたということで、その分別に幾らか気を許していた。 「連合艦隊はもう有名無実になっているんじゃないだろうか。兵力分散して、あちこちの海戦で消耗してるだろうから。建艦能力はとても追いつかんはずだしね。ガダルカナルだけでも、かなりの消耗じゃないかね。もし健在なら、サイパンを放っとくはずはないだろう」  相手は急に不愉快そうな顔色になった。 「学問のある人はどうしてそういう云い方をするんかね。日本が敗けりゃいいみたいな云い方だ。あんただけじゃないがね、学問した人は、どうしてだが、自分の国を誹《そし》りたがる」  杉田は、胸のなかで、血が音を立てはじめた。  三年前、真珠湾のとき、杉田は、勝った勝ったの戦勝気分で沸き返っている職場で、楽観論に水をさした。日米間の基礎的戦略物資の生産力比較を冷やかな数字によって示したのである。鉄鋼・石油をはじめとする諸元の単純算術平均値の彼我の比較は、昭和十五年度において、七二・四対一であった。戦力の比較は、無論、単純算術平均値によってそのまま表現されはしないけれども、物的条件の懸隔があまりに大きすぎることだけは明らかであった。  同僚たちは鼻白んだ。杉田は上司に呼ばれて説諭された。その云うところは、こうである。 「戦時下の知識人の役割は、悲観的流言を撒いて戦意を沮喪させることではないだろう。むしろ知識を楽観的に用いて戦意を昂揚させることではないのか」  杉田は、その上司と二人だけの場なら、論争したにちがいなかった。彼は職場の数十人の白い視線に包囲されて、沈黙した。沈黙してはならないときと知りながら、沈黙した。小さな勇気の積重ねを怠ってきたせいである。  杉田は、そのときのことを思い出していた。 「学歴如何は問題ではないよ」  杉田は云い返した。 「あんたは心配しながら、楽観したがっている。俺はそうしないだけだ。あんたがきいたから、俺は答えた。連合艦隊は一隻も欠けずに瀬戸内海かどこかにいると俺が答えたら、あんたは満足したかね。玉砕がつづいているときに、それは予定の作戦だと云えば、満足するのかね」  杉田は戦闘的な気分になっていた。病室には上級者もいたが、誰がくってかかってきても、応戦する気になっていた。問題は、サイパンではなかった。杉田は、いつかは、何処かの部隊へ転属するであろう。ソ満国境には、いつかは、事端が生ずるであろう。そのときには、いまこう云っている杉田が、演練された眼をもって他国の人間の生命に銃の照準線を合せ、非情の引鉄を引くにちがいない、そのことが問題なのである。「愛国者」たちよりもより多く「敵」を殺すにちがいない、そのことが問題なのである。  病室では誰もくってかかろうとはしなかった。白い視線で包囲するようなこともなかった。サイパンは遠い海の彼方のことにすぎなかったのかもしれない。悶着を起して内地送還が駄目になったり、原隊復帰が早くなったりしないように、白衣の男たちは考慮したのかもしれない。  杉田は、しかし、何処にも行くところも、いるところもなくなったような気がした。戦況が日ましに悪化して、杉田の云ったことが部分的にでも実証されることになると——それはほとんど間違いないところだが——みんなの白眼視が露骨になることも、まず間違いない。「愛国心」というものは不思議にそうした軌跡を描くものである。  数日後、独歩患者たちは奇妙な指示に接した。鼠を捕獲せよ、なるべく殺すな、というのである。  床板の瓶こすり——瓶の底で床をこすってテカテカに光らせる作業——に飽き飽きしていた独歩患者たちには、作業の変化は望ましかったが、鼠の捕獲は嬉しくなかった。困難でもあるし、気味の悪い仕事である。衛生上の見地から鼠を撲滅するのなら、殺鼠剤を使えばいいのである。なるべく殺すなというからには、鼠の利用が考えられているにちがいなかった。鼠の利用といえば、医学的な実験であろう。患者のなかには、食料不足の折りから、動物性蛋白質源として利用するのだろうと、真顔で冗談を云うのもいた。  実は、この背後には、関東軍の陰湿な戦略が伏在していたのである。勿論、杉田はこのときにそれを推測し得たわけではない。  関東軍が秘かに細菌戦の準備・実験を行なっていた事実は、一九四九年十二月ハバロフスクで行なわれた元日本軍人十二名に関する公判の記録によって既に発《あば》かれている。それが、しかし、関東軍の他の所業ほどに知られていないのは、戦事中極秘に付されていたのは勿論のこと、戦後もタブー視される傾向が強かったのと、細菌戦の意図の極悪であったにもかかわらず、その実験成果が、たとえばナチスのガス室のような大量殺人に及ぶほどの水準に達しないうちに敗戦を迎えたからである。  細菌戦の準備と実験の中心人物は石井四郎軍医中将であった。  石井は、「細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉《かど》デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判」での梶塚隆二軍医中将(一九三九年十二月から一九四五年八月まで関東軍司令部軍医部長)の証言によれば、  一九二〇年ごろ、京都帝大医学部卒業後、入営して幹部候補生志願。半年後に軍医中尉に任官。隊付軍医を経て東京第一陸軍病院勤務。  一九二四年から二六年まで京都帝大大学院で病理学、細菌学を研究。  一九二八年、京都陸軍病院から海外出張。  一九三〇年末、帰国、東京陸軍軍医学校教官。このころから、軍医学校内の同僚や参謀本部の有力者たちに細菌戦の必要を説いていた。  梶塚の証言では年次が合わないので取捨に迷うが、一九三二年または三四年のいずれかに、少将・永田鉄山が石井を強力に支持しはじめた(梶塚証言には一九三三年から永田軍務局長が支持したとあるが、永田の軍務局長就任は一九三四年三月であり、同じ永田は一九三二年四月、少将として参本第二部長となっている。前項の参本の有力者には該当するのである)。石井は、永田の支持をよほど多としていたとみえる。一九三六年(昭和十一年)にハルビン南方二十キロの平房に出来た細菌部隊の石井の事務室には、永田鉄山の石膏半身像が置かれてあったという。  一九三三年ごろ、石井は既にハルビンに近い背陰河に小規模な細菌研究所を持ち、ここは「東郷」部隊と名づけられていた。  一九三六年、東郷部隊を基礎として細菌部隊の拡大編成が行なわれ、石井は部隊長に任命された。石井は、このとき中佐である。この部隊は関東軍防疫給水部または石井部隊と呼ばれた。部隊の固有番号七三一が付与されたのは一九四一年(昭和十六年)である。  平房に人間を対象とする細菌戦の大規模な研究実験所が造られたのと前後して、新京(長春)南方十キロの孟家屯に、家畜を対象とする細菌戦の研究実験所が設けられ、関東軍軍馬防疫廠と称した。部隊番号は第一〇〇部隊である。  これらは、主としてソ連と中国を目標として細菌戦を準備したものであったが、もし、細菌の培養技術が著しく進み、その有効使用の確実な手段が充分に開発されていたとしたら、他の戦線及びその背後地でも大規模に細菌戦を展開することを躊躇しなかったにちがいない。  石井の細菌戦準備の基礎にある兵術思想は、日本は資源が乏しくて兵器製造も思うに任せない、戦争による大消耗にも耐え得ない、したがって資材を多量に必要としない新兵器を開発しなければならない、細菌兵器こそはこの条件を満たして、しかも強大な効果を期待し得るものである、ということである。  七三一部隊では、ペスト・コレラ・チフス・パラチフス・赤痢菌など多種類の細菌の培養と有効使用の方法が研究され、生体実験には「丸太」と称して囚人とか反満抗日パルチザンとか若干の反日的白系ロシア人が使われた。丸太として送り込まれた者は、遂に一人として生きてそこから出て来ることはなかった。その数は二千人に及んでいる。  研究に大量の鼠(主として白鼠)が必要だったのは、ペスト菌の感染した蚤の大群を繁殖させるためである。石井によれば、細菌そのものを投下するよりも、細菌感染した蚤を投下する方が効果的なのであった。七三一部隊関係の川島軍医少将の証言には、こういうくだりがある。昭和十六年夏、東京から帰隊した石井四郎は、部隊幹部に、部隊は三乃至四カ月間に蚤の繁殖量を六十キログラムまで増大したが、今後は同じ期間内の繁殖量を二百キログラムまで引き上げねばならぬと強調した。理由は、独ソ戦が勃発し、それに対応して対ソ戦の準備を予定する『関特演』が関東軍において実施に移されたから、必要な場合ソ連に対して使用する細菌兵器の用意を整えなければならない、ということであった。  関東軍は、その二年前、昭和十四年に、小規模ながら実戦の状況下ではじめて細菌兵器を使用している。ノモンハン事件のときである。日本軍がソ・蒙軍に圧倒されてハルハ河から退却するとき、将校以下約二十名の石井部隊謀略班が急性胃腸病菌でハルハ河を汚染した(七三一部隊教育部長・西俊英軍医中佐の証言)。  同じ昭和十四年、南支広東には「波」第八六〇四部隊が、南京には「栄」第一六四四部隊が編成されて、勤務人員約一千五百名で防疫給水のほか細菌兵器の量産研究に従事することになった。  細菌戦の中枢七三一部隊の平房には大軍事部落が完成し、厳重な立入禁止地帯となり、専用の飛行隊が出来た。  昭和十五年、七三一部隊の派遣隊は中国上海市の南方寧波付近でペスト蚤を投下、ペストを流行させた。この際、ペスト蚤投下の模様からペスト蔓延地区を中国軍衛生兵が消毒している様子まで撮影して、石井部隊の功績として上級機関からの来訪者に屡々上映して観せた。  石井はこの年、漢口付近でもペスト菌・腸チフス菌・コレラ菌を使用した。  この年十二月、関作命第三九八号をもって、防疫給水支部を牡丹江・林口・孫呉・海拉爾《ハイラル》に編成した。各支部の人員は三百名内外である。  昭和十六牟、『関特演』に呼応して細菌戦が準備されたことは既述のとおりである。この年は第一〇〇部隊(軍馬防疫廠)による細菌謀略が推進されたり、七三一部隊によるペスト蚤陶器製爆弾の投下実験が行なわれたりして、研究実験が急がれた。この夏、中国の洞庭湖近辺の常徳市周辺で、またペスト蚤を投下して、ペストを発生させている。  昭和十七年、六月、南京「栄」部隊へ七三一部隊からパラチフス菌・炭疸菌百三十キログラムが送られた。  同八月、|浙※[#「章+(ふゆがしら/貢)」、unicode8d1b]《せつかん》作戦に際して、五山・金華・浦江の付近ヘペスト菌・コレラ菌・パラチフス菌を撒布した。その方法は、貯水池・河川・井戸・住居等を汚染したばかりでなく、三千名の俘虜に対して腸チフス菌やパラチフス菌を注入した饅頭を給食したあとこれらの俘虜を会員解放するというあくどいものであった。チフス及びパラチフスを蔓延させるためである。  同じころ、第一〇〇部隊は、夏季演習として、デルブル河流域で鼻疽菌・炭疽菌による動物の感染実験を行なった。  昭和十八年、野外の条件下においてペスト菌や炭疽菌の人体感染実験に「丸太」と称する犠牲者を反復使用した。  この年の第一〇〇部隊の細菌製造能力は、炭疽菌二百キログラム、鼻疽菌百キログラム、赤穂病菌二十乃至三十キログラム。梅津関東軍司令官は第一〇〇部隊に対して、日ソ戦がはじまった場合、日本軍は大興安嶺の陣地まで後退するから、第一〇〇部隊は興安北省の家畜全部(馬を除く)を伝染病に感染させるように要望していた。馬は迅速に移動し得るから、その際には興安嶺以東に移動させるのである(関東軍司令部獣医部長・高橋隆篤中将の証言)。  昭和十九年、一月、教育総監部から、細菌兵器の謀略目的のための使用を内容として含んでいる『謀略隊戦闘教範』が発行された。教育総監は半年後に関東軍司令官となった山田乙三である。したがって、山田乙三は、前任者の梅津同様に、関東軍の細菌戦準備をあらかじめ承知していたのである。  この年も野外でのペスト菌の人体実験を続行。方法は柱に縛りつけた被実験者のそばで、ペスト菌に汚染された液体入りの試験管を破裂させるというような、比較的単純露骨なものであった。呼吸器を通じての感染実験は成功しなかった。  十月、前々年から石井に代って七三一部隊長となっていた北野少将は、軍司令官・山田乙三にペスト蚤細菌兵器の研究結果を報告、記録映画を映写した。同席者は、関東軍参謀長・笠原中将、参謀副長・松村知勝少将、宮田参謀中佐であった。宮田参謀というのは竹田宮のことである。  宮田参謀は、松村参謀副長の証言によれば、関東軍司令部の作戦部と七三一部隊の間の連絡係に任じていて、七三一部隊への通行許可証の交付を委されていたのも彼であった。宮田中佐は昭和十八年八月から二十年七月まで参謀として関東軍司令部に在り、同じ時期に作戦班長として在任した草地貞吾大佐の著書『その日、関東軍は』によれば、 「竹田宮は個人的にもソ連のおたずね者だった。(中略)対ソ作戦準備に関し、誰よりも重大な仕事と責任を負託されていた」  とある。  草地元大佐は細菌謀略または細菌戦準備に関して一言半句も触れていない。宮田中佐の任務の内容を匂わせているだけである。読む方に予備知識がなければ、草地元大佐の著書によれば関東軍には細菌戦準備など全くなかったかのようである。だが、一九四五年(昭和二十年)八月、ソ連が関東軍に対して軍事行動を開始したとき、細菌戦実施が間に合わないと知って山田軍司令官は総ての細菌実験施設と培養設備を絶滅することを決定した。その命令を作成したのは当の草地大佐なのである。  皇族の一員が、ある時期、細菌戦を作戦の一環として扱う立場にあったということは、それが実戦に適用されなかったとしても、決して小さなことではない。その期間にも人体による細菌実験は頻繁に行なわれ、被実験者は確実に死に至らしめられることを、宮田参謀は知っている立場にいたのである。  松村参謀副長の証言に次のようなくだりがある。 「関東軍司令部作戦部ニ提出サレタ資料及ビ宮田中佐ノ報告ニ基ケバ、一九四五年現在ノ状態デ、第七三一部隊ハ、細菌兵器トシテ使用スルニ十分ナ各種伝染病菌ヲ多量製造シ得ルノデシタ。当時迄ニ、最モ有効ナ細菌兵器使用方法トシテノ特殊爆弾ノ研究業務ガ強力ニ進メラレテイマシタ」  つづいて、 「(前略)私(松村)ハ、笠原(関東軍総参謀長)ニ対シテ、ソヴエト同盟ニ対スル戦争ノ場合、細菌兵器ハ、ヴォロシロフ、ハバロフスク、ブラゴヴェシチェンスク、チタノ諸都市付近一帯、即チ、ソヴエト同盟ノ後方地域ニ於テ使用サレルベキデアルトイウ事ニツイテ報告シマシタ。  之等諸地域ノ汚染ハ、細菌爆弾ノ投下ト、飛行機カラノ細菌ノ撒布ニヨッテ行ワレル筈デシタ。此ノ目的ノ為ニ、関東軍飛行隊ノ飛行機ガ使用サレル筈デシタ」  とある。  多量の細菌が使用されなかったのは、ソ連軍の軍事行動が速すぎたためである。もっと時間があれば、石井四郎に発した細菌戦準備は、彼と彼の研究に期待を寄せた人びとの邪悪な野心を満たしたかもしれなかった。  以上が関東軍の細菌戦準備に関するきわめて簡単なスケッチである。詳細に事実を拾い蒐めれば、厖大な紙幅を要する。紙幅の大小にかかわらずいえることは、関東軍というのは、どんなことでもした軍団であるという意味で日本軍国主義を一身に表現しているということである。  鼠の話に戻ろう。前記の松村証言のなかには、「一九四五年ニハ関東軍ノ殆ド全地上部隊ガ鼠類ノ捕捉及ビ其ノ第七三一部隊ヘノ送致ニ当ッテイマシタ」というくだりがある。  東安の陸軍病院では十九年の夏から鼠取りが行なわれた。七三一部隊に細菌培養業務をコンベア式に行なう新式設備が出来たのも十九年であることを思えば、鼠取りも東安病院だけではなかったであろう。  ろくな道具もなしに鼠など捕まるものではない。白衣を着た男たちが病院内をニャオニャオとふざけながらうろうろするさまは滑稽であった。  鼠取りの成果もわからぬうちに、杉田の身の上に変化が生じた。転属である。 [#改ページ]     7  転属先は虎頭であった。虎頭はウスリー江をはさんで対岸のソ連領イマンと対峙している。虎頭には、正面八キロ、縦深約六キロにわたる地域に十数箇の永久陣地が構築されていて、全国境要塞中屈指の堅塁であった。杉田が配属されたのは、しかし、堅塁のなかではなくて、ウスリー江岸に近く分駐している中隊であった。ウスリー江は、その部分ではおそらく幅が三百メートルに満たなかったであろう。  もう秋の気配が忍び寄っていた。夏は、これから一日一日早駈けで退却である。  この中隊の杉田の最初の印象は、ひどく閑散としていた。指定された内務班に入って行くと、飯台に乙幹の伍長が一人腰かけているだけで、ほかに誰もいなかった。この乙幹が、なんと、歌っているのである。 「さらばラバウルよ  また来るまでは……」  先任下士官ではないらしいから、申告の必要はなさそうであった。 「杉田一等兵入ります」  と型どおりのことをやると、その乙幹は、 「お前か、入院下番は」  と云って、杉田の返事も待たずに、また、 「さらばラバウルよ」  とやりだした。  入院下番というのは、無論、退院のことである。勤務に上番下番があるところから、軍隊ではすべてのことを勤務になぞらえて、入院下番とか営倉下番とかいうのである。しかし入院上番というのは聞いたことがない。  その乙幹の話では、中隊はウスリー江岸に沿って行なう動哨や巡察に兵力が足りなくて忙しいということであった。 「向う岸はイマンだ。相互に重砲の射程内だから、はじまったら事件だぞよ」  はじまったら、何処でも同じである。白兵主義の歩兵は消耗品でしかない。 「お前、狙撃手だって」 「そうであります」 「そいつは、いかさんわい。お前、動哨でみっちり使われるぞ。中隊長はやりたくてしようがない奴だからな、狙撃手、あれを射てとくるかもしれんぞよ。お前の一発でこの正面は大事件になるかもしれん」  杉田は佇立していた。こき使われるのは覚悟していた。入院下番の転属者が好遇されるはずがない。だが、狙撃手としてこき使われるのだけは避けたかった。  兵隊たちはまだ、静謐確保を知らないのである。だが、杉田の経験に関する限り、兵隊たちが戦闘を好んだことはない。戦闘を好むのは、後方の司令部にいる作戦参謀である。彼にとって戦闘は、作戦を立てて将棋の駒を動かすのにひとしい。敗けても、作戦参謀が死ぬようなことはめったにない。勝てば勲章ものである。その次が、高級指揮官から下級指揮官の順である。戦闘がなければ勲章はもらえない。勲章は出世への招待券である。兵隊となると、そうはいかない。武勲をたてておだてられたところでたかが知れている。吉報が来る前に弾丸が飛んでくる。死ぬのは戦闘を好む順番とは大体逆なのである。  杉田は手はじめに当番勤務につけられた。事務室当番だったり将校当番だったりしたが、長いことではなかった。ある日、実包射撃が行なわれて、杉田も射たされた。この部隊に来てはじめて渡された銃で個癖がわからないので、正照準で射つしかなかったが、杉田は久しぶりに実弾射撃の反動を肩で快く味わった。成績も、はじめての銃にしてはまずまずというところであった。  それから間もなく衛兵勤務がまわってきた。例によって内務衛兵と対敵警戒専用の動哨である。  巡察将校に応対する要領もいつの間にか身についていた。この兵隊は勤務も内務も確実に行なったが、口をきいたら損だと思っているかのようであった。  同年兵で親切なのがいて、 「お前もう少し愛想よくしろよ」  と注意した。 「生意気だと思われたら、一選抜が駄目になるぞ。入院下番の転属要員が一選抜になるなんて、めったにないことだぜ」  杉田はうなずいたが、同意したのではなかった。愛想よくするゆとりなどは彼にはなかった。軍隊は彼にとっては、いよいよ重くなっていた。肉体的につらいのではなくて、精巧に出来たロボットのように動くことをいつまでもつづけなければならないことが、やりきれないのである。ロシア語ができたら、とっくに越境逃亡していたかもしれない。いや、その勇気はなかったであろう。後方に残した家族に「国賊」の身内という汚名を着せて、世間の白眼視に晒す決断はできなかったにちがいない。彼が機械のように正確に動いていさえすれば、済むことなのである。  実際には、しかし、それでは済まない事態が刻々に迫りつつあった。  九月中旬、雲南の拉孟・騰越の日本軍守備隊が蒋介石軍に包囲されて玉砕したことを、杉田は中隊事務室の新聞で知った。何か、瞬間、息を呑む想いがあった。孤島での玉砕とは感じ方がかなり異っていた。遠いとはいえ、拉孟・騰越は地つづきの南の端なのである。そこで三千の部隊が潰えたということは、北の端の守りについている兵隊にとっても危急の信号のようであった。  同じころ、米軍はパラオ諸島のペリリューに上陸していた。  十月十二日、大本営は台湾沖航空戦の大戦果を発表した。週番下士官が日夕点呼後にそれを班内に伝えると、どよめきが起った。事実は、台湾沖海戦には何の戦果もなかったのである。  十月下旬、米軍はフィリピンのレイテ島に上陸し、これを海から挾撃すべく企てた日本海軍の突入作戦は失敗に終った。  杉田は、鎮まり返っているソ満国境で、上等兵に進級した。入隊後まる十一カ月経過していた。  秋が深かった。  冬が近かった。  杉田は夜間の営内動哨で厩《うまや》から馬糧の大豆を失敬して来て、衛舎で煎《い》り豆をみんなに食わせる程度に兵隊ずれしていた。  冬になった。杉田には二度目の冬である。寒気は痛烈であった。空気が鋭角的に削ぎ立った氷の粒子に分解して、突き刺さってくるようであった。温度計の目盛とは別に体感温度というのがあって、風速一メートルについて約三度の温度低下を計算し、それによってその日の服装の指示が出ていた。  杉田が経験した最低体感温度はマイナス七十八度であった。温度計でマイナス三十度以下のときの防寒被服は、内地ではちょっと想像がつくまい。私物の肌着、私物の毛のシャツ上下、官給襦袢袴下(ネル)、軍衣袴(ラシャ)、外套(毛)、防寒外套(シューバー)、防寒半袴(革製裏毛)、防寒脚絆、綿製軍足、防寒軍足(毛)、防寒靴、頭巾、防寒帽(毛)、鼻当て、毛手套、防寒大手套。これだけのものを身につける。立哨のときなど、控えの間に汗ばむほどストーブにあたって外に出ても、暖気は二分とはもたない。一時間の立哨または動哨中に手足に凍傷を来たさないように苦心する。凍傷は不心得とされているのである。防寒被服を与えてあるから、凍傷になればなった者が悪いのだ。  体感温度マイナス七十八度の夜は、杉田はあいにく動哨で、古兵と二人で並んで歩いたが、風に向ってはどうしても歩けなかった。頭巾と防寒帽と鼻当てでかくした顔の僅かな隙間が、斬り裂かれるように痛いのである。二人は申合せて後ろ向きになって歩いた。巡察にでもみつかれば大事だが、こんな夜に巡察が出て来る気づかいはないからである。  折返し地点で風を背に受けるようになったとき、連れの古兵が云った。 「お前、ソ連とやると思うか」 「どうですか。南が忙しいから、やれないと思いますが」 「そうだな。師団の転出を盛んにやっとるらしい。しかし、虎頭地区は全然動いておらんよ、まだ。ソ連は来る気じゃろうか。向地視察班は鵜の目鷹の目で見張っとるが」 「……来るとすれば、この正面、綏芬河の正面、東寧の正面ですね。どのくらいの弾薬・糧秣があるんでしょうか」 「そりゃ、うんとある。そのはずだ」  古兵は、信じているというよりも、信じたいような口ぶりであった。 「ノモンハンでお手並みは拝見したからね、関特演で目いっぱい増強したはずだ」  向うも増強したでしょう。杉田はそう云いたかったが、やめにした。  ノモンハンのようなことが起ったら、それまでである。ノモンハンから二年と三カ月で日本は大戦に突入した。日本の貧弱な生産力で僅かの期間に戦力の機械化など出来たはずがない。その証拠が、歩兵の相も変らぬ白兵主義であり、精神偏重の教育である。  関東軍は強いのだ。上から下までそう信じこもうとしている。強そうに見えたのは、しかし、満洲事変での張学良軍に対してと、昭和十二年八月の東条兵団によるチャハル作戦のときだけではなかったか。ノモンハンでは、いくら強がりをいっても、惨敗したのだ。 『日支事変』がはじまってから約一カ月、昭和十二年八月のはじめごろ、日本の中央統帥部は、強力な中国軍がチャハル省に進出して、河北にある日本軍(支那駐屯軍)の側背を脅かす形勢にあると判断して、関東軍司令官・植田謙吉に対して、兵力を内蒙古方面へ推進することによって支那駐屯軍と協同作戦を展開することを命じた。  関東軍では早くから内蒙古方面の作戦を企図していた。前年の田中隆吉の謀略による綏遠作戦のぶざまな失敗を挽回したいのと、『日支事変』という活躍の舞台を与えられた支那駐屯軍に対する羨望がある。関東軍に割り振られた縄張り(前述)は、蒙疆方面である。  折りよく、八月九日、チャハル作戦が下命された。関東軍では約三個旅団を抽出して、この作戦に当てた。指揮には、関東軍参謀長・東条英機中将が任じた。東条兵団は八月二十七日に張家口を占領、ほとんど無抵抗のうちに西進をつづけ、大同を九月十三日、平地泉を九月二十四日、綏遠を十月十四日、包頭に十月十七日に達して作戦を終った。快進撃で関東軍はいかにも強そうに見えたし、東条としては唯一の実戦で、彼は戦はこのようにするものだと自慢したが、実際には強力な敵がいなかっただけのことである。  静謐確保の大方針が打ち出されるまでの関東軍は、ちょっとした刺激でも起爆するニトログリセリンにたとえることもできよう。群小の事件を算え立てればきりがない。ここでは、昭和十二年のカンチャーズ事件、十三年の張鼓峰事件、十四年のノモンハン事件に触れれば、先に述べた十六年の『関特演』による戦力拡充を経過しながら同年末の『大東亜戦争』開始のために静謐確保を余儀なくされ、果ては兵力供給軍団となって最後の遺滅を迎えるまでの関東軍の物語に大きな遺漏はないであろう。  カンチャーズ(乾岔子)事件は、昭和十二年六月から七月にかけて、ソ満国境として流れている黒竜江上の島をめぐって生じた国境紛争事件である。関東軍から東条参謀長の名で中央へ送った報告電の内容を要約すると、六月十九日ボルショイ島(乾岔子)にソ連兵が上陸して採金作業中の満人苦力四十名に退去を要求し、一部を拉致した。ついで二十日、カンチャーズ北方で満軍の一部がソ連軍砲艦と交戦した、というのである。  参謀本部は、同島が満洲領であるという認定の下に、旧態保持を関東軍に指示した。  関東軍は第一師団の有力部隊をカンチャーズ正面に配置し、実力によって「失地」を回復しようとした。ソ連側も砲艦など十数隻を集中、さらに兵力を現地に増援する形勢となったが、モスクワでの重光大使とリトヴィノフ外務人民委員との間の外交交渉で、リトヴィノフが譲歩し、原状回復、兵力撤退を言明した。  ソ連の譲歩は、当時ソ連ではスターリンの粛清の嵐が吹き荒んでいた事情と切り離しては考えられない。ところが、関東軍はリトヴィノフの言明直後に、六月三十日、ソ連艦艇を砲撃して、撃沈した。関東軍としては、外交交渉などで片づけられたくはなかったのである。危機を作為して対ソ攻勢に出たいのが本音であった。  撃沈事件でソ連の態度は硬化したが、七月二日、ソ連は兵力撤収に同意し、五日完了をみて、事件は落着した。しかし、カンチャーズ事件につづいて、東部ソ満国境での越境事件が報道された。七月五日半截河、九日剣山、十八日五家子などである。カンチャーズ事件で重ねて譲歩をしたソ連の内部事情を考えると、これらの越境事件には関東軍の作為が感じられてならない。関東軍には、カンチャーズで相手がへこんだから、譲歩しきれないところまで相手を追いこもうとする意図があったとみることが、相次ぐ越境事件を最もよく説明するようである。幸い、この時点では北支紛争を抱えている中央は対ソ一撃に反対であったから、事は大きくならずに済んだ。  張鼓峰事件は戦闘としては、関東軍の舞台ではないが、ソ満国境一連の国境紛争事件としては見逃すことができない。  張鼓峰付近では、満洲領間島省がソ連領沿海州と朝鮮咸鏡北道の東北端の間に長い舌をさし入れた形になっている。その地勢は、狭い地域に低い丘陵が入り組んでいて、国境線が不明瞭であった。一八八六年に当時の清国とロシアの間で締結された琿春界約では、事件の焦点となった張鼓峰と沙草峰の稜線上を国境線が通るようにしてあったらしいが、国境標識も失われたままに問題にもならずに年月が経過した。その後、一九〇九年の中国側の地図では、琿春界約国境線の東側にある長池を越えて国境が東へ移り、一九一五年の東三省(張作霖政権)陸軍の地図では、その国境がまた長池を西へ跨いで、琿春界約の線に近くまで戻っている。いずれにしても、事を構える気がなければ、双方とも広大な領土の端末部の接壌など大したことではなかったのである。  その不確定な国境線から西は、満領間島省の一部だが、先にも述べたとおり、沿海州と朝鮮との間に細長く入り込んでいる地域なので、日本側からは軍事的には朝鮮軍(司令官・小磯国昭)の管轄であった。  張鼓峰の稜線にソ連兵が現われはじめたのは、昭和十三年七月上旬のことである。  新聞には、 「満領侵入 軍事要地占拠    ソ連兵盛んに陣地構築」  と出た。七月十二日朝ソ連兵多数が、琿春南方約四十キロの国境線を突破して、長池(ハーサン湖)、西側張鼓峰を不法占領、張鼓峰は雄基、図們線をはじめ要塞地帯の羅津湾を一望のもとに収め、またポシェット付近のソ連海軍根拠地を展望し得る満鮮の軍事的要地である、と書いていた。  元来、国境紛争には、いずれが先に国境を侵犯したかという、判決しにくい問題が残る。紛争二者が、自分の方から侵犯したとは決して云わないからである。国境とおぼしい張鼓峰に最初に姿を現わしたのは日ソいずれであったか、厳密な審判は下しがたい。  ただ、時機として、日本は、大陸で日中戦争全期を通じて最大の兵力を投入した漢口作戦の準備中であったから、朝鮮軍司令官・小磯国昭がソ連軍小兵力「越境」の報告を受けても、慎重を期して武力には訴えない方針をとろうとしたことは事実である。そのことは、しかし、日本軍の小兵力が、小磯の大勢判断とは逆に、支那戦線に刺激されて、張鼓峰地区でソ連軍を挑発するようなことはしなかったという証明にはならない。  ここで、関東軍が余計なことをするのである。関東軍は、七月はじめ、無線傍受によって、リュシコフ亡命事件後交替したポシェット地区国境警備隊長が張鼓峰らしい高地を占領する意図があることを知ったというのであるが、どうも作りごとめいている。ともかく、関東軍は辻政信、大越兼二両参謀に現地視察を命じ、それによって、大本営と朝鮮軍に実力行使の強硬意見を具申した。管轄は朝鮮軍なのであるから、野心満々とした辻政信などを視察に出す必要は関東軍にはないはずである。無線傍受といい、これといい、疑えば疑えなくはない。  リュシコフ亡命事件というのは、昭和十三年六月十三日午前五時半ごろ、ソ連の極東ゲ・ぺ・ウ長官リュシコフ三等大将が、折りから苛烈をきわめていたスターリンによる粛清を怖れて、国境視察の名目でポシェット地区から満領琿春東方の国境を越えて亡命して来た事件である。日本側ではリュシコフの亡命手記を新聞号外として発表し、参謀本部は同大将を賓客待遇をもって内地に迎えた。  この事件は、張鼓峰事件と、めぐりめぐった回路でつながっているようである。  朝鮮軍は、張鼓峰事件後、ソ連が兵を張鼓峰に進出させた理由を、次のように判断している。  一、「血の粛清」によるソ連国内の混乱を、対日危機の造成によって転換させようとした。  二、極東軍司令官・ブリュッヘル元帥が粛清の危機を国境紛争のなかに解消しようとした。  三、リュシコフ亡命のために解任された国境警備隊長の後任者が、功績をあげるために境界不明の張鼓峰に事件を作為し、それがブリュッヘルの意図と合致した。  四、漢口作戦準備中の日本を牽制して中国の抗日を支援しようとした。  一、二、三はあり得たかもしれない。四は、粛清の恐慌を来たしているソ連としては、出来すぎの感がある。  大本営は、関東軍の強硬意見にもかかわらず、初期には冷静であった。外交交渉によってソ連兵の撤退を求める方針で、万一の場合に備えて問題地点の正面に朝鮮軍の第十九師団を集中する命令を下すにとどめていた。  第十九師団(長・尾高中将)は、日ソ開戦の場合には直ちに沿海州をウラジヴォストックに向って進撃する任務を付与されていた師団である。同じ朝鮮軍の第二十師団は早くから支那戦線に出ているのに、第十九師団はソ連を睨んで満を持していなければならない。尾高師団長には日ごろこれが不満であった。  第十九師団は創立以来、師団としては一回も出動の経験を持たない。将来は対ソ作戦においても最も困難が予想される東部攻勢を完遂するためにも、師団に出動の機会を与えて光輝ある伝統を作らせてほしい、と、かねてから懇請していたという。  尾高の軍人としての謂わば欲求不満が、事件の禍因の一つである。  もう一つの、より大きな禍因は、僅々数日の間に大本営を支配した思考の変化である。  参謀本部作戦課長・稲田正純の考え方が、この際、事件の推進力になっている。稲田はこう考えたのである。ソ連の脅威が背後にあるから、対支処理を徹底して行なえない。何処かでソ連は決して手を出さないという確証を示して、軍首脳部に確信をもった戦争指導をやらせたい。それには張鼓峰は手ごろな実験のチャンスである。彼我の接壌関係は微妙で、地形的には制限された地域であるから、兵力はせいぜい三師団か四師団しか使えない。殊に機甲部隊の運用には不都合な地勢だから、全面戦争へ拡大するような決定的な戦闘が行なわれるはずがない。まかりまちがっても、丘の一つぐらいくれてやったところで大したことではない。要するに一度叩いて、相手の出方を見ることである。威力偵察には恰好の限定戦場であって、最悪の場合には一個師団フイになるかもしれないが、豆満江の自然障碍で事態を必ず収束できる。ソ連軍に日本軍の実力を知らせるには適当な機会である。  稲田のこの考え方には、好戦的な軍人に共通の、敵を下算する気持が働いている。特に、前年のカンチャーズ事件でソ連が簡単に譲歩したから、図に乗っていることは否めない。  稲田は、支那戦線でも、前任者が推進してきた戦面縮小方針を覆して、戦面を拡大することによって事変の停滞を払拭しようという積極方針を展開した。徐州作戦・漢口作戦・広東作戦にそれがあらわれている。  ソ連に対しても同様の方針を、ただし、これは小出しにやってみようというのである。やってみて、大事になればなったように手を打とう、おそらくなるまいから、やって、北に対する不安を取り除こう。  相手をひっぱたいて、相手が手を出さなかったら、安心して後ろを向くという論理はおかしいのである。  だが、陸軍の省・部は稲田に説得された。海軍は、はじめ、反対した。理由は、予定されている漢口・広東作戦に小艦艇の大部分を使用しなければならないから、万一ソ連と開戦になった場合、朝鮮海峡や津軽海峡の交通確保に自信が持てなくなることであった。  稲田はこの反対をも押し切った。ソ連は決して起たないと思うが、その確信を持つためにこそ是非やらねばならない、という論法である。威力偵察向きのチャンスをソ連が提供してくれたようなものだというのだ。  漢口作戦のころは、戦争による消耗と日本の生産力がどうにかバランスがとれていた限度の時期である。別の云い方をすれば、戦争経済が順調にいっていたピークであったともいえる。稲田のような論法が通用したのは、そういう物的条件に支えられてのことであったろう。  対ソ一撃断行である。ただし、戦局の拡大を避けるために、兵力は一個師団にとどめる。戦車・飛行機は使用しない。国境線外に追撃しない。この方針は、七月十五日に小磯と交替した新朝鮮軍司令官・中村孝太郎大将に伝達された。  第十九師団長・尾高中将の念願が叶う時が近づいていた。  好戦派は、しかし、思いがけない難問に逢着した。天皇の意思である。  張鼓峰での実力行使とそれに必要な動員に関しては天皇の裁可が必要なので、板垣陸相と閑院宮参謀総長が参内すると、天皇は宇佐美侍従武官長を通じて、武力行使を許せということなら、許す意思はない、そういう用向きならば来るに及ばない、と、先手に意思表示をした。これだけを見ると、天皇は平和主義者であったように見えるが、そうではない。時間の経過とともに明らかになることだが、天皇の反対意思の表明は、統帥大権の掌握者であるべき天皇の存在が、しばしば陸軍によってないがしろにされていることに対する憤りにすぎない。  板垣たちは押して拝謁を願ったので、拝謁は許されたが、席上、天皇が尋ねた。 「関係大臣との連絡はどうか」  板垣陸相は、 「外務大臣も海軍大臣も賛成致しました」  と答えた。これが、実は、嘘だったのである。  天皇は、既に、海相も外相も兵力配置には同意しているが、実力行使には反対であることを知っていたから、板垣の嘘は聞き流せなかった。色をなして、こうきめつけたという。 「元来陸軍のやり方はけしからん。満洲事変の柳条溝といい、今回の事件の最初の蘆溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてはあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。……今後は朕の命令なくして一兵だも動かすことはならん」  このくだりは、西園寺公の秘書・原田熊雄のメモからの引用だが、天皇の言葉は「雲の上」から限られたルートによってしか伝わって来ないから、そのまま信用するほかはないが、たとえば満洲事変が出先の独断でないことは先に縷々述べたところである。天皇はその空気を知っていながら、統帥権を自らゆるがせにしたのである。「朕の軍隊としてあるまじきような」ことというなら、張鼓峰事件の約半年前に何が南京で行なわれたかについても、当然輔弼の臣を咎めなければならない。知らなかったでは統帥者は失格である。  板垣と閑院官は恐れ入って、退下すると、辞意を洩らした。  彼らが騙したのは明らかであるから、辞めるべきであったし、辞めさせるべきでもあった。ところが、近衛総理からとりなしがあったり、侍従武官長が「陛下からもっと柔かいお言葉を戴きたい」と斡旋する動きがあったり、木戸幸一が「ああ角が立ったことを陛下がやられては困る」と云ったり、参謀本部が「陸軍に大元帥陛下の御信任がないというのなら」というような経緯があって、陸相も総長も「統いてやるように」天皇から慰留される結末となった。  もし原田メモの伝えるところが正確であるなら、陸軍は大元帥に信任がないなら、どうだというのか。陸軍は、俗語でいえば、居直ってケツをまくろうとしたにひとしい。すべてを天皇に帰一することを国民に強制してきた総本山ともいうべき軍部がである。  天皇には手続の上の非を咎める感覚はあるが、輔弼の臣の政治姿勢を匡《ただ》す勇断も実行力もなかった。  ともかく、稲田作戦課長の構想は頓挫した。対ソ一撃をやりたいことに変りはないが、省・部の長が天皇に叱られてからでは、やりにくい。  現地では尾高師団が虎視耽々としている状況であったから、参謀本部は七月二十八日、大陸命をもって集中兵力の撤退を下命した。  師団は一部を残して撤退をはじめた。尾高師団長は、しかし、師団司令部が羅南へ引揚げたのちも、当初の配置に居残った。何事かが起るのを待ち望んでいるかのようであった。  尾高の願望は遂に叶えられた。  七月二十九日午前九時半ごろ、ソ連兵約十名が張鼓峰北方約二キロの沙草峰高地に進出して陣地を構築しはじめた。これを日本軍が「明らかに越境」とみた根拠は明らかでない。越境であったかもしれず、なかったかもしれない。明らかなのは、双方の意地の張り合いである。  尾高は、直ちに国境守備隊に攻撃を命じた。守備隊は午後三時ごろソ連軍を撃退して引揚げた。すると、今度は戦車を伴ったソ連兵数十名が再び進出してきた。  尾高にとっては、まさに望むところである。彼は、沙草峰事件は張鼓峰事件とは別個に処置すべきものとして、軍の諒解を求めた。  朝鮮軍も別個に処理することには同意したが、不拡大方針を尾高に指示した。不拡大とは、つまり、国境線外への追撃を禁じたのである。だが、この地域での国境は、前述のとおり、明確でない。  尾高師団長は第七十五連隊長・佐藤幸徳大佐に第一線の指揮を委ね、独断で夜襲を決行、三十一日払暁までに沙草峰から張鼓峰に至る丘陵一帯を占領してしまった。沙草峰を張鼓峰と別個に処理するなどというのは、張鼓峰事件には一度制止がかかった手前の詭弁にすぎない。佐藤は、沙草峰を掃蕩するには地形上張鼓峰を討たねばならないという口実の下に、実は主力を張鼓峰に向けたのである。尾高師団は、事前に報告すれば軍から制止されることを嫌って、夜襲終了まで報告をしなかった。——(この佐藤幸徳が、のちにインパール作戦では第三十一師団長として、牟田口軍司令官の無謀な作戦指揮を怒って、陸軍史上空前の抗命退却を敢てするのである)。  尾高師団の独断専行を中央は天皇の前で取繕うのに苦慮し、多田参謀次長がおそるおそる葉山へ伺候したが、稲田によれば、天皇は多田次長に対して大変機嫌よく、事態を追認しただけでなく、嘉賞さえしている。「案ずるより生むは易い。次長はにこにこして帰って来る」と稲田は誌している。  にこにこしたのは稲田当人であろう。天皇の怒りで息をとめられた稲田構想は、これで蘇生したのである。  はじめの天皇のきびしさが持続されれば、以後の軍人の行動にはなにがしかの自粛が伴ったかもしれない。事実はそうはならなかった。天皇も軍国の天皇である。「朕の軍隊」が宿敵の兵隊を撃退したと聞いては、「朕の命令なくしては一兵だも動かすことはならん」とは云わなかった。  稲田作戦課長は、「陛下の御感想さえ悪くなければ、万事これでオーケーである。第一線師団長の思い詰めた独断は、正に上司の意図に合致し、その行き詰りを打開してくれたことになったのである」と、してやったりと云わんばかりである。  だが、参謀将校の火遊びに似た局地紛争で戦わされた兵隊は、決して「万事これでオーケー」ではなかった。  日本軍の夜襲を受けて後退したソ連軍は、鮮満国境内を爆撃し、八月二日夜から戦車・重砲の支援の下に逆襲に転じてきた。  第十九師団は大本営の方針によって専守防禦を余儀なくされた。中央は、その間に外交交渉によって解決しようとしたのである。  八月三日、第十九師団は増加兵力をもってソ連軍の背後を衝く作戦に出ようとしたが、これは明らかにソ連領土に侵入することになるので、大本営は禁止した。  その結果、現地の戦闘部隊は稜線上に固着したまま、進退できず、ソ連軍の砲爆撃にさらされていた。  中央では自主的撤兵論が起った。陸軍省は東条次官以下撤兵を主張したが、参本作戦課は戦闘部隊の大出血をもかえりみず、強硬意見を改めようとしなかった。不名誉な撤退は国軍の伝統を汚すし、ソ連から侮りを受けるというのである。  不名誉な撤退といったところで不名誉を意識しなければならぬのは、相手の実力を下算して火遊びを企てた首謀者と、功名心に逸った現地軍指揮官ぐらいのものである。彼らが面子にこだわっている間に、兵隊は死ななければならない。「陛下の赤子」が無意味に死ぬのである。天皇は、しかし、何故か、こういうときには何も云わない。  モスクワでの重光・リトヴィノフの交渉は進捗しなかった。  八月六日から、ソ連軍は二個師団の大兵力を投入して猛攻を開始した。  退却したくても退却を許されない日本軍第一線部隊の死傷率は、第七十五連隊(長・佐藤幸徳)が五一%、第七十六連隊(長・大城戸三治)が三一%に達した。師団予備兵力の第七十四連隊(長・長勇)を火線に増加しても、師団の潰滅は時間の問題とみられた。火力がまるでちがうのである。  大本営は、急いで、関東軍主力を東部ソ満国境東寧・綏芬河方面に集結させ、大連付近に控置してあった直轄部隊第百四師団を琿春付近に移動させ、ソ連を牽制威嚇する処置をとったが、中ソ二正面作戦を敢行する決意も準備もありはしなかった。日本の戦力再生産は漢口作戦で手いっぱいだったのである。  第十九師団潰滅の危機はまさに訪れようとしていた。稲田作戦課長が手軽く考えていた一個師団をフイにすることは、現実の問題として迫っていた。  そのとき、モスクワで停戦協定が成立したのである。  日本側は「外交的勝利」と自賛した。軍は寡兵をもって大敵に対抗し了せたから敗戦ではないと強がった。  ソ連側が停戦協定を急速に成立させたのは、粛清に伴う不安定な国内事情もあるし、ドイツを中心として複雑の度を加えつつあったヨーロッパ政局への顧慮の必要もあったが、要するにソ連は目的を達したのだ。日本からの脅威を国内的刺激剤としたとしても、優勢を確立し実証すれば、狭隘な地域でいつまでも局地戦を継続する必要はなかった。稲田のいう「威力偵察」がこの紛争にあてはまるのなら、その目的を達したのは日本ではなくて、ソ連であった。  日本はソ連の実力の一端に触れながら、認めようとしなかった。これは一局地の限定戦況であって、日本ははじめからある程度以上にはやらないことにして、謂わば小手先で戦ったにすぎないにもかかわらず、ソ連軍は大兵を投入しながら日本軍を潰滅させることも退却させることもできなかったではないか、という皮相な考え方が、ソ連の持つ怖るべき物的戦力と戦意の評価を誤らせることになった。その誤りは、一年後のノモンハンで、したたかな報いを受けることになる。  現地での停戦交渉は八月十一日から行なわれ、日本軍の代表の長勇大佐が現場で大の字になって寝たりするはったりを、日本の新聞は武勇談であるかのように伝えたが、ともかく、日ソ両軍は山頂からそれぞれ八十メートルずつ離れて布陣することで協議が成立した。大本営は、しかし、「一撮みの国境の丘阜、それに何の未練があるのでもない。何時までも近々と対峙して紛争の種を残すべきでない」として、全軍を豆満江南岸に撤退させた。これだけの分別が働くのなら、何故、一撮みの丘阜のために死闘を演じ、一個師団フイにしようとしたのか。  部隊によっては半数を超える損害に耐えながら稜線を死守した日本軍は、その線をソ連に譲り渡して撤退した。中央の作戦家たちは実験的作戦を行なったつもりであったかもしれないが、負け惜しみを云って結果が生かされないのでは、実験にもならない。日本軍の実験は、いつも、希望的観測に基づいて行なわれ、希望的観測に適合しなかった条件は無視してしまうきらいがあった。一撮みの丘阜を死守するために戦って死んだ兵隊たちは、自分たちが実験にもならない実験に供されているとは知らずに、戦って死んだのである。 [#改ページ]     8  ノモンハン事件は、張鼓峰事件とは方角も正反対、満洲の西北国境、地形も正反対、広漠たるホロンバイル平原を戦場とした。  ハイラル駐屯の第二十三師団長・小松原道太郎が、昭和十四年五月上旬、外蒙古兵七、八十名のハルハ河「越境」に対して、東支隊を派遣したのは、関東軍幕僚たち、就中《なかんずく》、辻政信少佐の好戦的意図が盛られた軍の方針に則った処置であった。  関東軍では、昭和十四年四月、辻政信起案にかかる『満ソ国境紛争処理要綱』を定めた。その基本姿勢が「軍は侵さず、侵さしめざるを満洲防衛の根本基調とす」となっているのは建前として当然だが、 「国境線の明瞭なる地域に於ては、我より進んで彼を侵さざる如く自戒すると共に、彼の越境を認めたるときは、周到なる計画準備の下に十分なる兵力を用ひ之を急襲殲滅す。右目的を達成するため|一時的にソ領に進入し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|又はソ兵を満領内に誘致滞留せしむる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことを得」と、張鼓峰事件当時の制約を超越したり、 「|国境線明確ならざる地域に於ては《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|防衛司令官に於て自主的に国境線を認定《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》して、之を第一線部隊に明示し(中略)、苟《いやしく》も行動の要ある場合に於ては、至厳なる警戒と周到な部署とを以てし、|万一衝突せば兵力の多寡国境の如何に拘らず必勝《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を期す」と攻勢意図を露骨にしているのである。——(傍点引用者)  紛争地、ノモンハン付近では、国境は明確でなかった。昭和十年日満側は一方的にハルハ河を国境線とし、ソ蒙側ではハルハ河東方を国境として主張したまま、両者間の国境確定の交渉は中絶していたのである。  凄絶をきわめたノモンハン事件の発端となった小「越境」事件は、先の自主的認定が禍したものと想像される。  五月十三日、第二十三師団長からの緊急電報が入ったときの関東軍司令部の雰囲気を、辻政信はこう書いている。 「幕僚中誰一人ノモンハンの地名を知っているものはない。眼を皿のようにし、拡大鏡を以てハイラル南方外蒙との境界付近で、漸くノモンハンの地名を探し出した」  地図確認のために拡大鏡を使ったことは事実だろうが、知らなかったなどと、とぼけた話は通らない。知らなかったとすれば、このときの関東軍幕僚はよほど迂闊な怠け者ばかりで、軍事的にも素人同然であったということになる。何故なら、辻の上級者で、のちに東京裁判に宣誓口供書を提出した服部卓四郎(事件当時中佐)は辻と同じことを述べているが、同じ日、同じ法廷に提出された矢野光二元大佐の宣誓口供書には、昭和十三年十月、満蒙境界調査のため、ハンダガヤ(ノモンハン事件で激戦地となる)よりハルハ河に沿いノモンハン分駐所を経てホルステンゴル合流点に至り云々、とある。事件前年には、既に、ノモンハン分駐所があったわけである。仮にこれが矢野の思いちがいであったとしてもいい。まだある。西部満蒙国境での小紛争は、この年、二月、三月、四月とたびたび日本内地の新聞にも報道されており、殊に五月四日には、ノモンハン事件で激戦を交えたバルシャガル高地付近で小規模ながら武力衝突が起きている。その間、幕僚たちは、紛争頻発する満蒙国境付近の地図を、一人も一度も見なかったことになる。  勘ぐれば、ノモンハンに分駐所があったりして、事件の初動が日本側に起因していては、関東軍司令部中強硬派の双璧であった辻や服部には都合が悪かったのかもしれない。  勘ぐりはともかくとして、国境画定に関して合意に達していない地域のことであるから、小紛争が相互に因果関係を生ずるのは、うなずける。昭和十四年一月ごろから日満側はこの地域に小偵察を行動させていたから、ソ蒙側も同様のことをしていたはずである。小紛争はこの間に間歇的に発生した。四月に先に述べた『満ソ国境紛争処理要綱』の示達があってから、ほぼ一カ月後、小松原師団長による東支隊の派遣となった。  関東軍司令部は、飛行部隊と自動車隊を第二十三師団長の指揮下に入れた。  五月十五日、東支隊は外蒙兵をハルハ河西岸に撃退した。飛行隊は退却中の外蒙兵を爆撃して、少なくとも三、四十名を粉砕した。  東支隊は、満軍にノモンハン付近の防衛を任せて、十六日夜ハイラルに帰還した。  事はこれで片づいた、と司令部は考えていた。大事件になろうとは考えていなかった。  外蒙軍は、しかし、東支隊が引き上げると直ぐに、今度はソ連軍の支援を得て再びハルハ河東岸に進出し、ハルハ河と支流ホルステン河の合流点付近に架橋、兵力の増強を図りはじめた。  ソ蒙側は彼らの主張する国境線をハルハ河東岸に確保しようとしたのである。日本側としてはハルハ河そのものを国境と認定しているから、ソ蒙軍の東岸進出は「越境」ということになる。だが、不思議なことに、昭和九年以前の関東庁発行の地図では、ハルハ河東方が国境線になっている。さらに、関東庁地図が昭和十年に国境線を自主的に改訂した後になっても、昭和十二年に関東軍参謀部が発行した地図では、依然としてハルハ河東方が国境線になっているのである。地図だけからみれば、日本側がソ蒙側の主張線を認めていた時期があり、ある時点から認めなくなった、それは関東軍の対ソ戦略の進行に伴ってのことであろうという推論が成り立つようである。  ハルハ河東岸に進出したソ蒙軍に対して、小松原第二十三師団長は、第六十四連隊長・山県武光大佐を長とする歩兵一大隊、連隊砲一中隊(山砲四門)と先の東捜索隊を含む山県支隊を編成して、ノモンハン西方|甘珠爾《カンジユル》廟付近に急派した。甘珠爾廟集結は五月二十三日であった。  山県支隊の攻撃開始は五月二十八日朝。その部署は次のとおりである。  東捜索隊は敵の橋梁方面に突進して退路を断つ。  歩兵大隊はノモンハン方面から正面攻撃。  連隊砲中隊は歩兵大隊に協力する。  満軍はホルステン河南岸に迂回して敵の退路を遮断する如く行動する。  師団長も支隊長もこれで敵を撃破できると考えていた。敵の戦力を過小評価していたというべきか、味方の武威を過大評価していたというべきか。張鼓峰の経験は戦訓として生かされていなかった。大体、日本の用兵家は、小兵力をもって敵の大兵力を撃破または拮抗し得ることを戦術の妙とする、心得ちがいが多かったといえる。織田信長の桶狭間が讃美される所以である。大兵力を迅速に集中して敵の小兵力を破るのが戦理であるにもかかわらず、鶏を割くに何ぞ牛刀を用いんや、といって嗤うのだ。この兵術思想が、しばしば、兵力の逐次投入という最も拙劣な、結果的には最も不経済な戦争指導に陥ることになる。  東捜索隊は軽装甲で突進した。突進は予定どおりだったが、ハルハ・ホルステン合流点北方の砂丘で敵の戦車群に遭遇し、蹂躙され、東中佐以下全滅した。  歩兵大隊は、ハルハ河西岸からのソ蒙軍の砲撃によって前進を阻止され、損害続出した。連隊砲一個中隊ぐらいの火力では全然歯が立たない相手であった。  ホルステン河南岸に迂回した満軍はさらに悲惨であった。装備が貧弱だから、簡単に破砕された。  山県支隊は戦場から離脱して、甘珠爾廟へ後退した。  おそくともこの時点で、関東軍司令部は、彼我の戦力を較量すべきであった。近代戦は個人的武勇の比較ではない。鉄量の交換であり、破壊力の集中とその量の比較であり、機動力の組織技術の比較である。負け惜しみやはったりが通用することではない。  関東軍参謀・辻政信は、これを一勝一敗と強弁した。先に外蒙軍の小部隊をハルハ河西岸へ撃退したのが一勝で、東中佐以下騎兵連隊主力が全滅したのが一敗だというのである。神経のほどが疑われるが、こういう人物が勇敢で有能な参謀として評価が高かったということは、一つの側面からいえば、どれだけ多くの兵隊を死なせた戦闘を指導したかが、参謀としての名声の条件をなしていたようである。  山県支隊の退却で、戦闘は小休止に入った。  六月十九日朝、第二十三師団長から関東軍司令部に電報が飛んだ。  ノモンハン方面の敵は逐次増強している。有力な戦車を伴う敵は現地警備の満軍を駆逐した。敵機はハロンアルシャンを爆撃、また、甘珠爾廟をも爆撃して、集積してあったガソリン五百罐が炎上した。師団は防衛の責任上、決定的に敵を膺懲したい、という報告である。  関東軍司令部では幕僚会議をひらいて、席上、服部卓四郎、辻政信両参謀の強硬論が大勢を制した。徹底的にソ蒙軍を撃破して日本の決意を示すことこそが、全面戦況への拡大を防止する所以である、という強硬派の常套論法である。強く出れば相手の戦意が挫かれる、と決めてかかっている。それなら、相手がなお一段と強く反撥してきたら、こちらはどうするのか。そこに、厳密な情勢分析と冷静な彼我戦力の較量がなければならないのだが、ほとんどの場合、身のほどを知らぬ強気な発言が大勢を支配する。慎重論は怯懦とみられて萎縮してしまうのである。  関東軍は反撃作戦を計画した。国境他正面の防衛に必要な兵力を除いて、ほとんど最大限の兵力も集中する。第二十三師団の全力。安岡中将指揮の安岡支隊——その兵力は公主嶺第三・第四戦車連隊、砲兵一連隊、第七師団の歩兵一連隊。第二飛行集団。興安騎兵旅団(満軍)等である。その装備は、対戦車砲百十二門、戦車七十輛、飛行機百八十機、装甲車七十五輛、自動車四百輛であった。これだけあればソ蒙軍を粉砕できると計算していた。前線までの補給線の距離は、日本軍が二百六十キロ、ソ連軍は六百キロであるから、補給能力が同等であるなら、当然日本軍が有利でなければならない。事実はそうではなかった。開東軍幕僚たちは明らかに敵を下算していた。戦争に臨む彼我の構想規模はまるでちがっていたのである。  飛行集団には六月十九日夜半、地上部隊には六月二十日午後二時、準備命令が下った。  東京では、ゴビの砂漠の東端の国境紛争ぐらいで大兵力を使用することに陸軍省は反対であった。参謀本部は関東軍の決意に同調して、陸軍省と対立した。時の陸軍大臣・板垣征四郎は、 「一師団位、そう一々喧しく云わないで、関東軍にやらせたらいいじゃないか」  と決裁した。  関東軍の方では、重大なことを東京に事前連絡しなかった。地上作戦開始に先立って、外蒙内部の空軍基地タムスク、マタット、サンベースを爆撃して、戦闘を有利に展開しようという計画である。事前に連絡すれば反対されるから、戦果を上げて事後承認を求めよう、戦果さえ上れば文句はないであろうという、陸軍伝統の姑息な謀略的発想に出ている。  関東軍のこの計画は、たまたま上京した第四課の片倉参謀から軍事課長・岩畔《いわくろ》大佐に洩れて、参謀本部に伝わった。参謀本部は、次長名で、爆撃中止の勧告と連絡のために有末|次《やどる》中佐を派遣するという電報を関東軍に打った。この辺は参謀本部が軍人らしくもなく優柔不断なのである。不拡大方針なら、有末中佐派遣とは別に、参謀総長名で電命を下せばいい。そうしなかったのは、参謀本部にもひそかに戦果を期待する向きがなくはなかったといえなくもない。  関東軍としては、中央からの使者が来てからでは、爆撃はできなくなる。急ぐ必要があった。ちょうど、満洲事変の柳条溝陰謀当日の建川第一部長渡満の場合と、似た状況であった。  タムスク越境爆撃は有末中佐が到着する六月二十七日の朝、百三十機の大編隊で決行された。この進攻作戦を持って連絡に上京した関東軍の島貫参謀は、爆撃前日に着京していながら、翌二十七日の爆撃実施後に参謀本部に提出したのである。中央は指導に決断を欠き、出先は武功に逸って小細工を弄する。軍の体質は満洲事変以来宿痾に冒されている。  爆撃後、その「大戦果」を関東軍から寺田参謀が東京に電話で報告すると、寺田と陸士同期の作戦課長・稲田大佐は、電話口で、 「馬鹿ッ、戦果が何だ」  と怒号したという。稲田は出先軍の中央無視を怒ったにすぎない。謂わば、作戦課長たる自分が無視されたことを憤ったのだ。一年前、一個師団フイにするかもしれなくても日本軍の実力を見せつけてやろうと主戦派の立場をとった稲田作戦課長が、今度は出先を統制しようとしても、出先の反感を買うだけである。  関東軍強硬派を代表する辻政信少佐は、「敵か味方か参謀本部」として、稲田のこの電話が関東軍と中央とを決定的に対立させる導火線になったとして、関東軍の中央無視を正当化している。この人物は、のちに、『大東亜戦争』で幾つかの重要な転機をなす戦闘を参謀として指導し、敗戦の深淵へ日本を導く上で小さからぬ役割を果しながら、自分は生き残るのである。  出先軍の暴走に対して、中央の態度が生ぬるかった。事件に関して上奏に参内した中島鉄蔵参謀次長は、天皇から関東軍の所業について叱責を受けたが、作戦進行中であるからという理由で司令官以下の問責をひきのばした。もしこのとき、大幅な人事更迭を断行して中央の不拡大意図を徹底せしめていたら、七月初頭以降九月初旬に至るまでのノモンハン戦の悲惨は、最小限度にとどめ得たであろう。そうしなかったのは、中央も、関東軍の新規の作戦がソ蒙軍に決定的な打撃を与えるであろうと、ひそかに期待していたにちがいないのである。  ノモンハン付近は、満洲の西北、興安北省が外蒙古と境を接するあたりの砂漠の大波状地帯である。大小の砂丘が無数に起伏している。ところどころに低い潅木群が点在する。戦場は砂丘地帯と草原と若干の湖沼地帯にひろがっていた。  紛争の因となったハルハ河は興安嶺に水源を発してボイル湖に注いでいる。ノモンハン付近で河幅は約五、六十メートル、流速約一メートル、水深二メートル以内、両岸は一帯の草原となっている。河岸は、外蒙側で高く、満洲側で低い。この地形の高低は、砲戦を交える上で、明らかに日満側に不利であった。  人馬に必要な給水源は、このハルハ河と支流のホルステン河だけである。湖は塩分を含み、沼は黒い泥水で、飲料に適さない。したがって、戦闘で河川から遠く離れたら、渇水に苦しまなければならない。  気温は、七八月は昼間は炎熱、夜間は冷気が身にしみるようである。虻・蚊・ブヨの大群が襲ってくる。  そういう戦場で、日本軍は七月一日攻撃を開始した。小松原師団は将軍廟付近に、その左翼に機甲部隊の安岡支隊、そこからさらに左翼に満軍興安師が位置していた。  タムスク爆撃によって制空権は一時的に日本側にあった。地上部隊も優勢と信じていた日本軍は、ハルハ河に軽便架橋して西岸外蒙領内へ侵入し、ハルハ・ホルステン合流点付近(東岸)にあるソ蒙軍陣地へ突進する安岡支隊の圧力と呼応して、ソ蒙軍を捕捉殲滅しようという作戦を立てた。迂回・包囲・殲滅は日本軍が好んで用いる戦法だが、しばしば目的を達せずに終っている。理由は、目的の大に較べて兵力が寡少すぎることである。  七月二日夜ハルハ河を外蒙側へ渡った小松原師団主力は、二個連隊を併列して南方へ進撃したが、突如、ソ蒙軍の大戦車群に遭遇した。戦車群は二三十輛ごとに横隊に展開して殺到して来る。あるいは縦隊で側方からも突入して来る。  師団は渡河した対戦車砲三十六門(速射砲十六、野砲十二、山砲八)で応戦した。砲火を潜って浸透して来る戦車群には火焔瓶による肉薄戦闘を挑んで防戦につとめたが、攻撃が反復されるたびに死傷激増し、敗色が濃くなった。  補給もつづかなくなった。貧弱な軽便架橋一本で東岸とつながっているだけなのである。その辺一帯は熾烈な砲火にさらされている。遂には補給が全く切れた。弾薬もなくなった。水もない。兵は死闘を反復したが、戦車群の一斉攻撃を撃退する成算は、もはや立たなくなった。全滅は時間の問題であった。  七月三日夜、師団は須見連隊(第七師団)を殿軍《しんがり》として、ハルハ河東岸へ退却した。敵中に残された須見連隊はソ蒙軍の猛攻によく耐えて、翌日、かろうじて撤退を完了した。  渡河攻撃は惨澹たる失敗に終った。敵の戦術と破壊力に対する認識不足の結果であった。  渡河主力部隊の迂回に合せて、ハルハ・ホルステン合流地点に決定的な打撃を与えるはずであった安岡支隊は、敵の戦車群と激突した。連隊長戦死、戦車四十輛を破壊されて、これも後退を余儀なくされた。一戦で戦力が半減してしまったのである。日本の戦車部隊は創設もおそく、地上戦闘の主戦力を構成するという認識にも欠けていた。戦車の戦闘性能も劣っていた。八九式戦車の装甲板一七ミリはソ連軍の戦車砲で簡単に撃破されたが、八九式戦車の五七ミリ短身砲ではソ連戦車の装甲を貫徹できなかった。日本軍は工業化のおくれた中国の蒋介石軍と戦って強いと自惚れていたにすぎないのである。  この時点での空軍力はほぼ互角であったが、制空権も徐々にソ連側に移りはじめた。理由は、この場合、量にあるのではなく、日本軍の飛行機が防禦装備が粗末であったこと、それなら攻撃力で優勢かといえば火力でも劣っていたこと、空中戦の技術がこの時期には単機格闘戦に重点を置きすぎていたことなどである。  ハルハ河を撤退した二十三師団は、今度は主力を安岡支隊の戦線に増加して、七月五日から反攻を再開したが、ソ蒙軍の重砲・戦車砲の砲撃を受けて前進を阻まれ、壕を掘ってもっぱら守勢に立たされた。  ソ連軍はこのときに満領内深く侵入して戦力の著しく低下した日本軍を蹂躙してしまうつもりなら、できないことではなかった。彼らはそうしなかった。これは国境紛争であって、全面戦争ではない。深く入ることが目的ではなかった。まず十分な準備をして、決定的な打撃力を蓄えることであった。  関東軍は戦力半減した安岡支隊を解編して、残存戦車を原駐地へ帰還させてしまった。傷ついた虎の子部隊を温存しようというのである。兵隊は葉書一枚で幾らでも集められる。戦車を造るには資材と金と時間が要る。大事な戦車を敵の砲火の餌食にするのは惜しまれた。兵隊の感覚からすれば、そうとしか受けとれない措置であった。  戦車の代りに、内地から野戦重砲兵第三旅団と独立野戦重砲兵第七連隊を呼び寄せた。  歩兵たちは地獄の底にいるのも同然であった。砲兵の増援が来るまで、掘っては崩れる砂の壕を掘って、苦戦に耐えていた。熱暑に焙られ、水に渇え、沼の泥水を呑んで赤貝のような糞を垂れた。朝となく夕となく間断なく射ち込まれる砲弾を浴び、何処を通っているのかもわからない国境のために、傷つき、死んでいった。  新鋭重砲部隊が到着すると、日本軍は七月二十三日反撃を開始した。重砲八十六門で一日一万五千発を敵陣に射ち込んだ、と記録されている。日本軍としては空前の弾量であった。敵は、しかし、忽ちそれに倍する弾量をもって応酬し、日本軍の放列を沈黙させた。  戦闘の組織技術でも、火力の集中度でも、補給力でも、日本は到底対抗し得なかったのである。これは明白な事実であった。明白な事実の証明はホロンバイルの平原に無数に散乱していた。  それにもかかわらず、辻政信ら関東軍幕僚たちは七月戦闘は「引分け」だと負け惜しみを云って、日本側から譲歩してでも戦闘を終結に導こうと考えはじめた大本営と対立した。  七月二十日、丘たちが絶望的な戦闘を続行しているとき、中央から呼ばれて上京した関東軍参謀長・磯谷廉介は、中央の終結意図に強硬に反対した。ソ蒙軍に徹底的に打撃を与えることによってのみ紛争の拡大を防止し得るという関東軍従来の主張を変えようとしなかった。紛争は拡大しつつある。徹底的打撃は日本軍の上にこそ加えられている。関東軍首脳部は面子にこだわって、事実を認めようとしないのである。  軍中央は、ようやく、事態解決には関東軍首脳部の更迭を必要とすると考えはじめたが、またもや優柔不断であった。関東軍幕僚はいきり立っているから、冷却期間が必要であると無用の考慮をしたり、折りから国内で詮議に詮議を重ねている三国同盟(日・独・伊)問題などに関心を奪われている間に、手おくれになった。  ノモンハンでは、ソ連軍が徹底した八月大攻勢を準備していた。既に満身創痍の観のある小松原第二十三師団は、これによって損耗率七三%という潰滅的打撃を蒙るのである。  ソ蒙軍司令部は戦場周辺所在の日本軍壊滅をめざして、八月二十日までに全面攻撃を開始する準備をした、と、軍司令官ジューコフは書いている。  どれだけの準備をしたか、概略を記せば、勝敗の帰趨は、数理の外にはないことが明らかになるはずである。  戦線にはあらたにソ連から歩兵二個師団、戦車旅団(日本軍は劣勢な戦車隊を公主嶺に引上げてしまっている)、砲兵二個連隊、工兵その他の特科隊若干を投入し、爆撃隊・戦闘機隊をも強化した。この攻撃作戦のために補給した物資は次のとおりである。  砲弾——一万八千トン  空軍弾薬——六千五百トン  各種燃料、潤滑油——一万五千トン  各種食糧——四千トン  燃料——七千五百トン  その他資材——四千トン  以上の物資を補給線往復千二百キロ乃至千三百キロにわたって五日間で輸送するのに、トラック三千五百台、油槽トラック千四百台を必要とした。  日本軍の補給線往復距離は五百二十キロにすぎないが、車輛準備四百輛(仮に一輛の損失もなかったとしても)で、対等に戦うだけの物資を輸送できるわけがないであろう。  日本軍は、八月十日、荻洲立兵中将を司令官とする第六軍を新設したが、戦力に著しい増強は行なわれなかった。荻洲は、損害甚大な第二十三師団に第七師団の森田旅団を配属して、八月二十四日、反撃作戦を敢行させたが、このときには既に圧倒的に優勢な戦力を組織していたソ連軍に包囲され、随所で分断され、撃破されてしまった。  八月二十日からソ連軍がどのような猛攻を開始したか、フイ高地にあった捜索隊第一中隊の戦闘詳報はこう物語っている。  (八月二十日)  九時稍々前俄然敵ノ重野砲等一斉ニ砲撃ス……百雷一時ニ落ツルカ如ク黒煙濛々トシテ咫尺《しせき》ヲ弁セス……震動ノ為掩体ノ土砂崩壊シ、又命中弾ノ為漸時埋没状態トナリ、葡匐前進スルモ尚暴露スル所多キニ至レリ……十二時頃敵ノ砲撃一時中絶シ将兵安堵ノ色ヲ為セル刹那歩兵陣地方面ヨリ俄然突風ノ巻キ起リタル如キ一大軋音起ルト同時ニ戦車四—五十輛一挙ニ陣内ニ突入シ来リ……(以下略)  (八月二十一日)  ……砲弾ノ落下ハ概ネ一分間百二十発ヲ算シ、又陣地一平方米ニ一発ノ割合ニシテ、……壕内ノ散兵ハ浮上ラン許リナリ……散兵壕ハ跡形モナク崩壊シ平地同様トナリ所在ノ散兵ハ飛散ス……(以下略)  毎秒一平方米につき二発の弾丸が通過すれば、そこに人間が生きていることはできないとされている。フイ高地はそれに近かったといえる。フイ高地から十二キロほど離れたバルシャガル高地から、フイ高地の凄まじい被弾の状況を望見した友軍は、あふれる涙をこらえ得なかったということである。  ソ蒙軍総司令官のジューコフは淡々と次のように誌している。  わが軍の装甲車、機械化諸部隊は敵の側面部隊を撃破して、八月二十六日の日没までに日本の全第六軍の包囲を完了した。そしてこの日から敵部隊を分割し、包囲した敵の掃討を開始した、と。  三島部隊連隊長代理・梅田少佐の戦場遺書がある。それは戦線一地点の戦況を伝えたものだが、戦場全体の断末魔をよく表わしている。 「アラユル手段ヲ尽シ最後マテ奮闘シヨク皇軍砲兵ノ面目ヲ発揮セルモノト信シ愉快ニ堪エス  アト未タ二時間位ノ余裕アルヤモシレヌ全弾ヲ撃尽セハ敵線ニ突入シ最後ノ忠節ヲ完ウセントス三島聯隊長ニ呉々モヨロシク部下全員勇敢ニシテ余ストコロナク奮闘セルヲ伝ヘヨ  染谷部隊ハ昨日全滅ス伊勢部隊ハ本日十時頃全滅鷹司部隊モ我レト同シ運命ニアリ (以下略)  八月二十七日 一五、〇〇」  昭和十四年九月十六日、モスクワで、モロトフと東郷大使との間にノモンハン事件に関する停戦協定が成立した。  戦場では日本軍が最後の絶望的な総攻撃を用意しているときであった。  停戦成立で、日本軍は一部の部隊をハンダガヤ付近に残置して、原駐地へ帰還することになった。広漠とした砂漠と草原に界標もない国境を、しかも明らかに己れの祖国ではない他国の寸土を争って死んだ男たちは、虚構の大義に殉じたのだから、たまらない。関東軍赴任を出世の段階と心得ている好戦的な幕僚の野心が、兵士たちを忠節の名において駆り立てて、鉄に肉を激突させたのだ。  数日後、ホロンバイルの草原に寒波が訪れ、兵たちは草原を蔽った霜の上に軍靴の跡を長く黒く印して後退した。  数十台のトラックが薪を満載して、撤退する部隊とは反対に戦場の方へ走った。死体を焼くのである。  兵たちは、誰も、戦闘が最悪の事態に陥っていたころ、八月二十三日に、独ソ不可侵条約が結ばれたことを知らなかった。  その条約が突如として締結されたために、それまで数カ月にわたって、日独伊三国同盟案をもっぱらソ連を仮想敵とする防共協定強化の方向へ進めるか、ドイツが主張するように英仏をも「枢軸」三国の仮想敵に含めるかについて、会議を重ね苦慮していた平沼内閣が、八月二十八日、ヨーロッパの情勢は「複雑怪奇」であるとして、情勢の急変に対応できずに総辞職したことも、当のソ連軍を相手に死闘していた兵たちは知らなかった。  ソ連は、ミュンヘン会談からチェコスロヴァキア解体に至る間の英仏の対独宥和政策・利己的平和政策に不信を抱き、自らもまた別個の利己的平和政策をとった。ドイツと不可侵条約を結び、小国ポーランドを犠牲としてドイツの血の祭壇に捧げ、自らも犠牲の分け前を取得することによって暫定的な安全界域をひろげ、一時の平和を設定したのである。  一九三九年(昭和十四年)九月一日、ドイツはポーランドに侵入を開始した。英仏がそれまでとってきた対独宥和政策は限界に達し、九月三日、対独宣戦布告が行なわれた。第二次大戦がはじまったのである。  ソ連は、不可侵条約を結んだドイツに対して半信半疑ではなかったろうか。少なくとも、自らもポーランドに兵を進めて、不可侵条約の警戒的保持が必要であった。極東ホロンバイルの草原でいつまでも日本軍と砲火を交えていることは、得策ではなかった。  こうして、ノモンハン事件の停戦協定は急速に成立したのである。  第一線の絶望的な状況下で奮戦して死んだり負傷したりした兵隊や指揮官は、ばかをみた。明らかな負け戦だが、後方にいる者ほど、そして上級機関として当然責任の重いはずの者ほど、事後の処分が軽かった。  山県支隊の山県大佐は、七五五高地で軍旗を焼いて割腹自決した。ところが、死体が発見された場所が死守を命ぜられた場所より少し退っていたために、関東軍首脳部は戦死後の進級を計らおうとしなかった。陸軍省からの指示でかろうじて少将進級が行なわれた。  酒井大佐(歩兵第七十二連隊長)は負傷して後退、チチハル陸軍病院で部隊全滅の責を負ってピストル自殺した。  捜索隊第二十三連隊長・井置中佐は、フイ高地を放棄して将軍廟へ後退した理由で、小松原師団長から自決を強要された。井置は、脱出の時点で、フイ高地にもはや作戦上なんら意味がなくなっていたことを主張して、師団長と激論した。フイ高地の状況は、先に述べたとおり、友軍があふれる涙をもってその末期を見守ったほどのものである。師団長は、しかし、軍医部長を通じて、井置中佐の足の負傷は糖尿病のために治癒しないと云わせた。どのみち助からないのであるから、潔く死ねということである。中佐は拳銃で自決した。  第八国境守備隊の長谷部大佐は、連隊旗を失い、部隊は潰滅状態で後退した。荻洲軍司令官と小松原師団長は、それを理由に自決を迫った。長谷部は抗しきれずに自決した。  増援砲兵連隊長の鷹司大佐は、部隊が全滅し、大砲を放棄した廉で、一年後停職、男爵礼遇を停止された。  連隊長級で部隊とともに全滅、あるいは自決し果てた者は多い。  第七師団第二十六連隊長の須見大佐と第二十八連隊第一大隊長梶川少佐だけが、戦い抜いて無傷で生き残ったが、須見大佐は小松原師団長の無謀な作戦を二回拒否した理由で予備役に編入され、梶川少佐は病死した。軍は、敗色歴然とした戦闘をともかく戦い通して生き残った前線指揮官を、自決に追いやったり、予備役へ遠ざけたりして、その苦悩に満ちた体験を後日のために活かそうとはしなかったのである。活かし得ていたら、つまり、活かすだけの器量があれば、それから僅か二年と三カ月後に大戦に突入する愚を重ねはしなかったにちがいない。  最も惨めなのは、負傷して捕虜となり、戻された将兵である。彼らは吉林に近い新站陸軍病院に収容された。これは監禁であった。憲兵の厳重な監視下で私語一つ許されず、加療もろくにされなかった。捕虜将校には軍法会議が出張して来た。終ると、拳銃が与えられた。自決の強制である。兵隊捕虜は新站からソ満国境の陣地構築に送られて、ほとんどが消息を絶った。  満軍興安師からは戦闘中多数逃亡兵が出たため、配属されていた日系軍官は逃亡の責を負わされ自決を迫られた。日本軍が面子にかけて発起した戦闘で、しかも桁ちがいの戦力の前で、満軍が日本軍に殉じなければならぬ理由はなかった。逃亡は、装備も悪く、給養も悪い彼らとしては、当然であった。その責を負わされた日系軍官は、みずから選んだ道とはいうものの、悲惨である。  連隊長級に自決を強要した荻洲・小松原両中将は、現役にとどまれるものと思ったらしく、停戦祝宴などを計画していたが、間もなく、荻洲は予備役に編入され、小松原は待命となって、のち陸軍軍医学校で病死した。この二人は、多数の部下を死なせて、しかも作戦を成功させ得なかった責を負って自決する気持などは微塵もなかった。自決を美徳というのではない。自決を強要する資格などまるでない者が部下に自決を強要したことをいうのである。大義の虚像で練り固めた『帝国陸軍』は、ノモンハン事件でその醜悪な恥部をさらしたといえる。  ノモンハン事件には断固として戦うべき必要性が全くない。「越境」が、仮に、彼から作為されたとしても、外交で処理され得る規模であり、問題であった。関東軍の過剰な功名心と対ソ恐怖を裏返しにした浮薄な蔑視が禍因であり、大本営当局者の投機的思考も、当然、責任を連帯しなければならない。  関東軍では、軍司令官・大将植田謙吉、参謀長・中将磯谷廉介、参謀副長・少将矢野音三郎が、参謀本部付となり、ついで予備役に編入された。参謀・大佐寺田雅雄は参本付から戦車学校教官に、参謀・中佐服部卓四郎は歩兵学校教官に、事件拡大の張本人ともいうべき参謀・少佐辻政信は第十一軍司令部付(漢口)になった。当然首になって然るべき人物が首にならずに、間もなく要職に返り咲き、大戦に突入してからノモンハン事件の愚を手柄顔に繰り返すのである。たとえば辻少佐を、たとえば戦場に遺書を残して散った梅田少佐の立場に立たせたらどうであったか、と考えるのは徒事ではない。後方司令部から戦場に出張して、戦線をとび歩いて「勇敢」の評判をとり、あれこれと督戦して、決定的瞬間には後方に引揚げてしまっている(彼はノモンハンでもそうであったし、ガダルカナルのような南海の島においてさえそうであった)人物と、劣勢明白な兵力をもって潰滅までとどまる人物とは、職分の相違とはいっても、その必要とする勇気と義務感には雲泥の差がある。それにもかかわらず、梅田少佐のことはほとんど誰も知らず、辻政信は国会議員になるほどの知名度を得た。その根拠は「有能な参謀」としてである。不思議なことに、有能な参謀は、概して戦闘惨烈の極所を担当しない。惨烈の極所から身をかわす可能性を持った者が、他人に惨烈の極所を与える如く作戦するのである。張鼓峰、ノモンハンはそのはじまりであった。  参謀本部では、次長・中将中島鉄蔵、第一部長・中将橋本群が参本付から予備役に編入された。作戦課長・稲田正純は中央を追われて阿城(満洲)重砲兵連隊長へ転出した。  ノモンハン事件での損害は極秘に付されたが、後年靖国神社で慰霊祭を行なわれたノモンハン事件戦没者数は、一万八千余柱であった。 [#改ページ]     9  それから五年四カ月。いくら緘口令を布いても、時間には勝てない。ノモンハン戦の様子は薄々ながら知れわたった。杉田も、職場で、ノモンハン帰りから断片的な話は聞いた。戦車にかじりついて振り飛ばされた話。砲撃をくらって文字通り睾丸が縮み上った話。最後まで敵兵を一人も見ずに、戦車と爆煙ばかり見ているうちに停戦になった話。いろいろ聞いた。  今度は杉田の番である。怖るべき破壊力を持った軍隊がこの凍結した河の向うにいる。非常事態が発生したら、真っ先にその破壊力と接触するのは杉田たちである。  凍結した河には、ときどき異状が認められた。日没時の動哨では雪をかぶった平坦な河面に何も見えなかったのが、払暁の動哨時間に見ると、点々と足跡が対岸の雑木林までつづいている。足跡は一人分だが、往復している。向うから来て帰ったものか、こちらから行って戻ったものかは、わからない。新雪なら河岸の足跡を辿ることもできるかもしれないが、たいていは夜間の北風で粉雪が舞って消えてしまうのだ。低い河面だけは、それが綺麗に残っている。  幾つもの分哨の報告には、ほとんど毎夜、青玉赤玉の信号弾が時計の文字盤による方位で記録された。信号弾と氷上の足跡の関係はつかめなかった。  兵たちは、自分たちが属する第五軍の司令官がいつの間にか山下奉文から清水規矩に替っていることを、知らない者が多かった。司令官どころか、連隊長の顔も知らなかった。雷名高かった山下奉文はフィリピンヘ行ったのだ。米軍は既にルソン島に上陸して、マニラをめざしていた。  ウスリー江岸は白一色に閉じこめられて、鎮まり返っていた。  杉田は、まだ、静謐確保の指示が国境部隊に達せられていることを知らなかった。立哨・動哨にかかわらず、静謐確保に関する特別守則は与えられていなかった。幸いにして静謐であることを、兵たちはひそかに感謝していた。  ある日、ばかばかしいことでこの静謐が破られそうになった。まるで作り話のような出来事が突発したのである。  その日、杉田は中隊の衛門に立哨していた。衛兵司令は谷川という伍長であった。爆薬取扱いの教育を受けた無口な下士官で、ふだんはおとなしいが、ときたま狂人のように荒れることがあった。そんなときは、きまって、古い兵隊がめちゃめちゃに殴られた。杉田は奇怪に思ったが、この部隊に元からいる同年兵の話から、谷川班長がその出身を世間の偏見によって差別されていることを知った。  谷川伍長は杉田にそれとない好意を示した。杉田が、要注意で、入院下番の転属者で、そのくせ一選抜上等兵で、狙撃手の特技を持っている奇妙な兵隊で、必要なときに必要なことしか云わない無愛想な人間であったせいかもしれなかった。谷川は一度だけこう云った。 「おい、お前、誰にどつかれても、きぱーっとしとれよ。お前は中隊一の名射手だ」  きぱーっとしとれ、というのは、きりっとしていろ、堂々としていろ、というほどの意味であったろう。  杉田の方から谷川に馴れ親しむようなことはしなかったが、衛兵や動哨勤務ではときどきいっしょになった。衛兵上番のときだけ、杉田は谷川の銃と帯革、前弾入れ、後弾入れをピカピカに手入れしてやった。  その日、杉田が衛門に立哨していると、中隊長が衛門外の雪の道を転がるように走って来て、 「衛兵、衛兵、非常だ!」  と、息を切らせて叫んだ。  杉田は、反射的に衛舎へ向って「非常」を伝えた。  中隊長は極度に興奮していた。杉田は隊長の帯刀が鞘だけになっているのが不審であったが、それこそ「非常」の切実感を告げているようでもあった。  隊長が衛兵司令に出動を命じた。ウスリー江岸を巡回中、一発の至近弾をもって狙撃された、発射音、飛弾音から察するに、敵の狙撃手が満領側に潜伏していて狙撃したにちがいない、敵は対岸へ退避するかもしれぬから、追撃せよ、というのである。  常時武装していて即時戦闘できるのは衛兵だけである。谷川伍長は歩哨掛以下七名に駈足を命じて河へ走った。完全な防寒被服を着用して雪のなかを走ることは、全く思うに任せない。砂の袋を着たように重かった。  杉田は胸をひしがれていた。こんなときに、突如として、最後の瞬間が来る。厭でも射ち合わなければならない。ソ連兵のマンドリン(自動小銃の俗称)が火を吹く。杉田は一発も射たないうちにウスリーの氷の上に倒れるであろう。  じりじりと最期が来るより、こうして突然に来た方がよかったかもしれない。  とにかく、もう、今日ですべてが終るのだ。  河岸に来た。河の上には、例の足跡が点々と往復している。対岸の疎林には人影は見えないが、白外被をまとって伏せているのかもしれない。  谷川は、突然、 「早駈前へ」  を号令した。杉田が熟慮を促す暇はなかった。  男たちは河の上を疾走した。対岸の疎林まで三百とはない。小銃の有効射程内である。狙撃手なら必中限界内にある。射たれる! そう思っても、走るほかはない。遮蔽物は何一つない完全に暴露した河の上である。  対岸の林にとびこんだ男たちは噴霧器のように白い息を吐き散らしていた。こうして、武装した八名の兵隊が「越境」したのである。凍った河でつながっているせいか、越境は至極あっけなかった。それだけに、ただでは済むまいと思った。何秒か、何十秒かののちには、寒冷な静寂が銃火で破られるであろう。あるいは、忽然と異国の男たちが、樹々の間、雪の下から現われて、日本兵を包囲するであろう。  杉田は、谷川に命ぜられて、伏せて射撃姿勢をとっていた。何事も起らなかった。越境滞留は二分か、長くてせいぜい三分ぐらいであったろう。杉田は、もう半日も国境侵犯をしているような気がしていた。 「よし、引き上げだ」  谷川が云った。 「早駈」  日本兵が氷上を疾走撤退するのを、ソ連側監視哨の眼鏡が捉えなかったはずはない。  満領側に戻ったとき、谷川が杉田に云った。 「びっくらこいたぜ、なア。無事にお帰りあそばしたってわけだ。中タ(中隊長)の奴、何がどうしたってんだ」 「隊長の錯覚でしょう、何かの、きっと」  杉田は、隊長が帯刀の鞘だけを曳きずって、あわてふためいて雪のなかを走って来た恰好を思い出していた。  帰営して、隊長に異状のなかったことを報告したとき、谷川伍長は状況判断をつけ加えた。 「隊長殿の錯覚ではないんでありますか」  隊長は機嫌を悪くした。 「射たれたんだ」  そう云ってから、杉田を見た。 「上等兵、お前はどう思うか」 「隊長殿の射たれた地点と射弾の方角がわかりませんから、判断はできませんが、潜入して来るほどの狙撃手なら、射ち損じは考えられません」  隊長はますます機嫌が悪くなった。 「もういい。帰れ。御苦労」  中隊は武装を解いた。  翌日、事態が判明して、もの笑いになった。  中隊から三キロほど離れて分駐している小隊の小隊長が、前日、中隊との中間地点でノロ射ちをやって、その一発がたまたま付近を通行中であった中隊長に飛弾音の聞える程度の「至近弾」となったらしい。中隊長は、不運なことに、これに驚いて雪のなかを匍匐している間に、抜刀した刀身を何処かで落してしまった。捜索の結果、これは中隊へ向う道の途中の雪のなかに埋もれていた。隊長としては全く不面目な出来事であった。おそらく、彼は国境第一線の一定正面を預って、絶えず緊張しきっていて、被害妄想にかかったのであろう。  兵隊たちは陰で隊長を嘲りながら、不平を鳴らした。谷川伍長以下の武装兵が越境したのは事実だから、それが因で衝突が起きたかもしれない。起きれば、確実に兵隊の何名かは死んだにちがいないのである。  こんな中タじゃ、命が幾つあっても足らんぞよ、と、兵たちはぶつぶつ云った。  暫くたって、笑い話もおさまったころ、杉田は厠で谷川伍長と行き会った。谷川は連れ小便をしながら云った。 「近いうちに転属らしいぞ。下士官は俺で、上等兵はお前だ、あとは一等兵と初年兵ばかりだ」  杉田は厠の外で谷川にきいた。 「このあいだの隊長の一件のせいですかね。あのとき、班長殿が対岸まで追跡したが見失ってしまったと報告し、私が射程外に取り逃したと云えば、隊長は笑いものにならずに済みました」 「そうだな」  谷川伍長は雪が来そうな空を斜めに睨んだ。 「しかし、向う岸まで行かせたのはあいつだ。お前も俺もやられたかもしれんのだ。お前なら、そう報告したか」 「いいえ」  杉田は答えた。 「いいじゃないか。人生到るところ青山ありだ」  谷川が云った。 「中隊は爆薬の熟練下士官と狙撃上等兵を何処の隊だが知らんが、くれてやるというんだ。もらわれてやろうじゃないかよ」  数日後、転属命令が出た。二月の、白い砂のような雪が舞い狂っている日であった。  谷川伍長以下十二名、杉田も含まれていた。十二名は、粉雪の舞うなかに整列して、隊長にではなく、准尉に申告をした。  何処へ行くのか、誰も知らない。指定された貨車に詰め込まれて、何処かへ運ばれて行くのである。 [#改ページ]     10  輸送貨車は走っているより停っている方が多いようであった。虎頭からでは西南へ走るほかはないが、何処まで行くのか、何処で方向を変えるのか、全然わからない。わかっても、仕方のないことであった。個人の都合など聞いてもらえることではないのである。杉田は、何処を走っているのか、何処へ行くのかなど、考えるのはやめにした。銃を肩に抱いて、貨車の震動に身を委せていた。軍需会社にいて真珠湾の日を迎えたときの杉田の計算では、鉄鋼は昭和十八年の下期には底を衝くはずであった。石油もなくなっているはずであった。いまは二十年二月、まだ戦争がつづいている。杉田が扱い得る限りのデータを用いて行なった計算が間違っていたのかもしれない。それもどうでもよかった。杉田は、たぶん、その答を自分の体で確かめることになるのである。  貨車のなかで二晩すごして、着いたところは綏西であった。出発のときに乗り込んだ兵隊の数はさほどのこともなかったのに、夥しく膨れ上っている。新しい部隊の編成だと想像された。  綏西というのは、国境の町綏芬河から西へ牡丹江までを結ぶ線上の、国境からほぼ四分の一の地点にある。  立派な兵舎があった。営庭で部隊が編成される間際まで、杉田は谷川伍長と行動を共にしていたが、谷川は下士官集合の号令がかかって走り去ったまま、二度と杉田の前には現われなかった。  兵隊は編成が完了するまで固有名詞を必要としない。散らばっている兵隊が号令一つで集められ、一定数量に分けられる。そのときに無数の運命の組合せが生ずるのである。  杉田の前には、谷川の代りに、紅顔の美青年伍長が現われた。ちょっと橋爪伍長を思わせるところがあったが、橋爪ほどのきびしさはなさそうであった。大きくはないが、かっちりとまとまった体格で、持久力がありそうな、その意味では「帝国陸軍」歩兵向きの体だが、顔は柔和で、若さに輝いている。兵隊には、まして下士官には、見られない種類の顔である。  この鈴木伍長との出会いが、杉田の運命に大きく作用を及ぼすことになった。  昭和十九年初頭から二十年一月末までに、関東軍は師団単位で十四個を抽出されている。この他に、同じ期間内に、特科部隊の連隊・大隊単位の抽出が多数にある。二十年三月末までに抽出師団は二十一個、関東軍全部に及んだ。ただし、各師団から一個大隊未満の兵員を、再編成の基幹要員として残したのである。関東軍は、在満郷軍の根こそぎ動員と支那方面からの兵力流用を図るまでの間、一時期、蛻《もぬけ》の殻となった。  新編成部隊の配置について確定した方針が立っていないように見えたのは、そのせいであったろう。つまり、新編成部隊を何処へ持って行っても穴だらけで、隙間なく配置することはできない道理なのである。  そのことは、兵隊に、奇妙な悠長さと、まるでわけのわからぬあわただしさを、こもごも与えた。演習一つしないでごろごろするような日がつづくかと思うと、完全軍装の上に毛布を縛着して夜間行軍するようなことが再々行なわれた。  兵隊たちは、関東軍が蛻《もぬけ》の殼になっていることは、まだ知らない。主食一日六百グラムが四百五十グラムに減らされて腹がへることで、戦争がかなり苦しくなっているらしいことは、肉体的に感じているが、危機が刻々に迫っているとは、まだ考えない。  杉田の属する部隊は、鉄道や国道から北へそれて、曠野のなかを行軍した。行く先は老菜営と聞かされたが、途中で、小休止のとき、鈴木伍長が来て、上等兵一名、一等兵三名、二等兵三名を選んだ。  選ばれた杉田が、 「何処へ行くのですか」  ときくと、当惑したような答が返って来た。 「紅土崖とかいう分哨だそうだ。弾薬庫があるらしい。頼りない地図を頼りに行くしかないな。行ったら、歩哨掛をやってくれ」 「わかりました。分哨勤務はいつまでですか」 「それがはっきりせんのだよ。交替が来るまでだ」  杉田は、鈴木が古参の兵長や上等兵を選ばなかったことから、三年兵になりたての乙幹上りと睨んだ。この部隊には関特演以来の兵長・上等兵がざらにいたのである。これらの古兵は、杉田はこのときはまだ知らなかったが、東寧付近の重砲兵が装備を抽出されたために歩兵に「成り下った」兵隊であった。  のちに杉田はこれらの古兵たちとの間にのっぴきならない摩擦を起こすことになったが、このときの分哨勤務がそうなる運命を決めたようであった。  分哨は、茫漠とした平野が小高い丘の連なりで仕切られている端に弾薬庫があって、その傍らに哨舎があった。弾薬庫は周囲を幅十メートルほどの間に砂利を敷きつめてある。野火の延焼から護るためらしいが、一望火の海となったときに、無事に孤立し得るかどうか疑わしかった。  下番者は他の部隊の古い兵隊ばかりで、杉田たちと入れ替りに後退することが決っていたらしく、久しぶりに街へ出て女を抱けるといって眼をギラギラさせて喜んでいた。うんざりするほど僻地勤務が長かったというのである。そういえば、ここも、茫々漠々として、何もない。終日、人影一つ見ることがない。  下番分隊長の軍曹が鈴木伍長に、丘の上の望楼を指さして云った。 「夜間はあれに登ってもなにも見えんからのう、適当にやってくれや」  確かに、暗夜には、下から上を窺うことはできても、上から下は何も見えない。  杉田は鈴木伍長と警戒区域を一まわり歩いてから、勤務割を作った。昼間(日の出から日没まで)は、望楼に立哨一名一時間交替、夜間は弾薬庫に不寝番一名二時間交替、分哨長と歩哨掛を除いては、立哨時間以外は休憩。控えなし。 「俺と杉田はしょっちゅう控えか」  鈴木が笑った。 「そうです。下番がいつになるかわかりませんから、緩めてやらないと体がもちません」  杉田には三日連続上番を反復された苦い経験がある。  杉田は食事から小夜食まで歩哨の面倒をみた。自分の意志で他人に対して何がしかのことができるのは、軍隊ではこれがはじめてであった。休憩時に若い二等兵が令典範に関する質問をしたりすると、杉田は自分が会得した方法で説明した。つまり、理屈抜きで覚えなければならぬ部分と、理詰めで理解し得る部分とに分解して、抵抗感と負担を軽くするのである。ときには、杉田の方から促して、小銃の正照準の訓練を施した。十メートルほど離れて直径二センチぐらいの円形標的に依託射撃で照準をつけさせ、その中心点に印をつけておいて、今度は標的の方を動かして射手の照準点に近づける。射手が前の照準と同じ照準ができたと信じたときに動きを止めた標的の中心点と、前の中心点との偏差が小さければ小さいほど、照準の正確度が高いことになる。簡単な方法だが、要求される精密度を習得するのは簡単ではない。  鈴木伍長はほとんど杉田に委せきりで、杉田の起居動作を黙って見ていることが多かったが、あるとき、こう云った。 「杉田はいい初年兵掛になれるな」 「私がですか」  あり得ないことなので、杉田は気楽に笑った。 「そんなことをしたら、大変なことになりますよ」 「どうして」 「私は戦闘訓練は体力の限界ぎりぎりまで目いっぱいやることに賛成ですが、内務教育には全然反対ですからね」 「どうやる」 「どうってことはありません。軍隊だって人間同士のつき合いです。ビンタでしごいたっていい兵隊も強い兵隊も出来ません。乱暴な兵隊が出来るだけです。内務班は兵隊の家庭ですから、上級下級の区別はあっても、遠慮や気がねがあっては、まして、恐怖があっては、何を習っても本物にはなりません。班長殿だって初年兵時代には腹の底から笑えたことは一度だってないでしょう。兵隊は死ぬために生きているようなものです。そのことでは、古兵も初年兵も違いはありません。内務班は、正直いって、煉獄です。無駄な緊張を要求しすぎます。それが訓練なんだそうですが、締る必要があるときに締りさえすればいいんですから、のべつ締め上げてビクビクさせるのは教育ではありません」 「ゆるやかな教育では、兵隊が横着になるらしいんだが」 「そういう面も確かにあるでしょう。しかし、大多数はまともな人間です。礼儀も弁えていれば、規律の必要も弁えています。苛酷な躾けを強制しないでも、平均的な力はみんな出せます」 「指導する者にそれだけの指導力があればの話だな」  このときの話はこれだけで終ったが、数日後、鈴木は、二人だけになった折りをみて、こう云った。 「関東軍の精鋭師団は、もう大部分が南方か何処かへ持って行かれているらしいんだな。これがソ連に知れたら、ソ連は出て来るだろうね」 「入って来たらおしまいですね。M—4だかT—34だか知りませんが、戦車師団が先頭に立って来るでしょう」  杉田は、一年四カ月ばかりの、短いが、主観的には長い長い年月を思い返してみた。国境線の警備にばかりついていた彼は、その間に、日本軍の戦車を一台も見ていないのである。戦って勝ち目のないことは、容易に想像がつく。それは兵の素質の問題ではない。生産力の桁ちがいの差の問題である。訓練精到もそれを補うことはできない。太平洋の島々に相次いでいる玉砕が、それを証明している。太平洋では米国が相手だが、ソ連だとて変りはない。緒戦でドイツの機甲部隊と空軍に圧倒されながら、押し返して優位に立った戦力は、織田信長の桶狭間などとは本質的にちがうのだ。奇襲や夜襲や白兵が価値を主張できる戦争ではない。 「入って来るのは、いつごろになるかな」 「ドイツ次第ではないですか。ドイツが早く参れば、直ぐにも来るでしょうね。米軍が支那の何処かに上陸しても、やはり入って来るのではないですか」 「どっちみち俺たち国境部隊は、戦って潔く死ぬほかはないわけだ」  杉田は潔く死のうとは思っていなかった。  どうせ死ぬにはちがいなかろうが、後方にいる将軍や参謀たちが死ぬのを見届けるまでは生きていたかった。道理からいえば、戦争を発起した人間が最初に死ぬべきなのである。次いで、戦争を指揮した者が死ぬべきである。「一銭五厘」が最後に死ぬのでなければ、公平を欠いているのである。  この分哨勤務は、杉田にとっては、まるで嘘のようにのんびりしていた。戦争の圏外にぽつんと一点とり残されているようであった。  泰平無事であってはならないかのように椿事が起きたのは、そこの勤務が三週間を過ぎたころである。  その日、正午過ぎ、望楼に上っていた監視兵が「山火事だ」と丘を駈け下りて来た。火は、まだ、丘の向う側にある山で燃えているが、こちらに延焼して来るらしいという。  杉田が駈け登って行ったときには、谷が濛々と煙を上げていた。杉田の予想では、谷には湿地があって雪解け水が満々としているから、火はたぶんとまるであろうと思った。望楼の上から見ていると、そんな生やさしいものではない。煙で視界を遮られるが、よく見ると、火が水の上を渡っているらしい。信じられないことだが、事実である。熱風が生じて、無数の火の粉が飛び、それらが野地坊主に密生している枯草を焼いて、苦もなく水の上を押し渡って来ている。火の幅が急にひろがり、遠くへ飛び火して、丘を巨大な焔の袖で抱き込むのも時間の問題と見えた。湿地を渡った火は、既に丘の裾を舐《な》めはじめている。  杉田は望楼を下りて、哨舎へ全力疾走した。ふり返ると、もう、丘の背は焔に占領されたらしい、もくもくと煙を上げていた。 「事件だな」  鈴木伍長が石油罐を埋める穴を掘りながら云った。 「向火を打つか」 「打ちましょう。打たなければ、おそらくもちません」 「稜線まで来たときに風向きが変ってくれんかな。向火が弾薬庫に飛び火したら、ことだぞ」 「向火でやられるくらいなら、野火には完全にやられます」  幅十メートルかそこらの砂利の防火帯では、おそらく延焼は防ぎきれないから、三十メートルぐらい先から弾薬庫へ向って人為的に草原を焼いて、押し寄せる野火を焼跡でくいとめようというのである。  向火の火勢が強くなりすぎれば、弾薬庫へ飛ぶ危険もなくはないが、土を塗った屋根と壁である、そう簡単に焼けはすまい、何もしないでそっくり野火のなかへ献上するよりはましであろう。  灯油を撒いて、向火を打った。八人の男は火叩きを侍って、吹きつける煙と焔に対峙した。  向火が砂利の防火帯まで来るか来ないうちに、丘陵全体が轟々と火に包まれて、草原が燃えはじめた。火勢が、見る間に視野いっぱいに展開した。障碍物のない平坦地を突撃して来る。吶喊《とつかん》の声は、顔をそむけずにはいられない熱風である。男たちは、息苦しさに口をぱくぱくさせ、眼ばかり白く光らせて狂ったように駈けまわり、飛んで来る火の塊を叩き伏せ、蹂み躙っていた。  文字通り火の海になった。向火の焼跡だけが孤島のように残された。草原は全滅した。見渡す限り黒々とした灰に蔽われた。  周囲の残り火を始末し終えたときには、もう陽が沈みかけていた。 「……戦闘って、あんなでしょうか」  茫然として、若い二等兵が杉田に云った。 「……だろうね」  杉は白兵戦をやったあとの疲れはこんなだろうと思っていた。 「正面いっぱいに展開したときには、駄目かと思ったよ。まるで何千輛という戦車が火焔放射をやりながら突撃して来るみたいだったものな。こっちは火叩き一つだ、話にならん。野火には、しかし、後続部隊がないからいいよ」  暗くなると、またとない壮大な景観が地平の彼方を縁どった。残り火が、無数の変化に富んだ照明を黒い空と黒い地のはざまにちりばめていた。それらは、遠い大都会の歓楽の灯のように瞬いていた。息づいていた。 「報告を出さないでいいですか」  杉田が鈴木にきいた。 「いいさ。あれだけでっかい危急信号が上ったんだ。援軍が来るのがあたりまえだろ」  一個小隊ほどの援軍が来たのは、疲れ果てた分哨の男たちがおそい食事を済ませたころであった。  援軍は若い見習士官が引率していた。無事に残っている弾薬庫と哨舎と、そのきわから真っ黒に焼けてしまった草原とを見て、見習士官は鈴木伍長に、 「よく防いだな」  と云った。 「もっと早く来てやりたかったが、中隊の方でも、どこまで火が来るかわからなくてな」  杉田は、ランプの明りに照らされている見習士官の育ちのよさそうな顔を見ていた。たぶん同年兵であろうと、年月を勘定してみただけで、このときには何の関心も持たなかった。  数日後、分哨勤務は交替になり、杉田たちは原隊——といっても、馴染はまだほとんどないのだが——ヘ戻った。  一週間ほどたったある日、杉田は舎後に鋭い叱咤の声を聞き、そっと見ると、分哨に上番したはずの連中を、小柄な徳広伍長が顔を赤くして怒鳴りつけながら、「体前支え」をやらせていた。杉田が徳広伍長を見たのは、このときがはじめてである。鈴木伍長に聞いてみると、日没後の立哨を怠っていたのが巡察にひっかかったらしい。遠いところへ巡察に出るのも楽ではないから、落ち度があれば私刑を加えたくなるし、中隊としては外聞が悪いから私刑で済ませてしまいたいのである。  それにしても、徳広伍長は威勢がよかった。気合がかかっていた。小柄な男が張りきると、ことのほかそう見えるのかもしれない。鈴木の話では、彼も『関特演』なのだそうであった。杉田は、数カ月後に、この男といっしょに最後の瞬間を迎えるのである。  それからほどなく、部隊はまた移動した。移動先は、またもや国境で、今度のは築城工事を施した陣地であった。  主陣地観月台と副陣地順天山は隣り合って、両方とも樹木に蔽われていた。主陣地の方は、岩窟をくりぬいてあってベトンで固め、火点と火点の連絡路も分厚く防護され、永久陣地の相貌を呈していた。昭和十四年末ごろに構築されたものらしい。かなりの砲爆撃には耐えられる計算であったろう。確かに、強力な重火器と豊富な弾薬と糧秣が備わっていれば、これを攻め落すのは困難であったにちがいない。この陣地は戦史叢書によれば、「有事の場合、東寧南方から突出する主決戦軍に対する助攻兵団の攻勢のための有力な|支※[#「てへん+堂の土に替えて牙」、unicode6490]《しとう》を形成していた」とある。  だが、昭和二十年の早春、この陣地の砲座には強力な火砲はなくなっていて、代りに、迷彩を施した丸太の擬砲が据えつけてあった。  日本の戦力が底を衝いたことは、その擬砲が何よりも雄弁に物語っていた。兵たちのなかには、それを見るまでは、戦局の前途を楽観する者がいたとしても、それを見たとたんに、兵たちは自分の運命を悟ったはずである。彼らは軽火器と肉弾で戦うほかはない。その意味するところは、敵の熾烈な火力を浴びて、土砂岩石とともに飛散するほかはないということである。  砲兵はこのような尾羽打枯した状況を既に知っていたかもしれないが、歩兵は突如としてこの破局的な実態を見せつけられたといってよい。撤去された大砲は南方の戦線へ運ばれたか、途中で海没したか、あるいは本土に備えるために搬出されて朝鮮あたりで野積みになったか、いずれかであろう。  これでは戦いようがない、何時間この陣地がもつか。おそらく三時間とはもたないであろう。それが兵士たちの一致した見解であった。つまり、三時間たったら、もう誰も生きてはいないということである。  杉田は副陣地の方へ配置された。主陣地に残った鈴木伍長とは離れてしまった。  副陣地の方は野戦陣地程度の歩兵抵抗線があるだけで、河のない地つづきの国境の向うから優勢な火力を見舞われたら、散兵壕が潰されるのは単に時間の問題にすぎなかった。  兵たちは、この陣地に来てはじめて、静謐確保が軍の方針であることを、如実に知ったのである。  それはこういう形で現われた。その辺は山あいの谷の低地のどこかが国境になっている。草むらのところどころに界標があるのだが、一目瞭然とはしていない。陣地では向地視察班が強力な眼鏡で不断に向地を監視している。樹木の位置、岩石の数にいたるまで観察して異常の有無を確かめている。その他に、動哨が国境線近くまで出て行くのだが、これは暗くなってから出かけ、黎明とともに引揚げてしまうように達せられていた。姿をソ連側に見せて刺激を与えないための配慮からである。こそこそ忍んで行き、こそこそ逃げ帰って来る。まるで夜這いじゃねえか、関特演の五年兵たちはそうブツブツ云った。  前年、昭和十九年九月十八日に、大本営は関東軍に対して、兵力使用不便な地域や国境紛争発生の怖れのある地域を必ずしも兵力をもって防備しなくともよいとしたり、事件が発生しても拡大を避けるために兵力をもって防備しなくともよい、というような指示を出している。太平洋の戦局がますます急を告げてきたので、北辺での事端を回避するための大本営としては余儀ない処置であったが、これがソ満国境にいる兵隊の感覚にまで触れて来るのは、約半年ずれていたことになる。南方の戦況が逼迫すればするほど、北方は静謐を必要とし、北方静謐ならば、国境の兵隊は気軽なものである。ただし、いつ非常ラッパが鳴るかは、兵隊には測り知れない。鳴ったら終りである。そういう諦めの上にあぐらをかいている感じであった。  兵隊たちは、国境とは反対の斜面を下りて渓流で魚を釣ったり、木の枝に針金で孔を穿《うが》ってパイプを作ったり、箸を削ったりして遊んでいた。衛兵と動哨勤務以外にほとんど仕事がないのである。あとから考えれば、凄惨な破局の前の休息であった。  このころは、五年兵四年兵の「神様」「仏様」たちと杉田との間は、悪くはなかった。杉田の無愛想に変りはなかったが、二年兵としての節度は保っていたし、銃の手入れだけは古兵の分まで黙ってやっていた。それだけの時間の余裕があったせいでもある。  ときどき行なわれる戦闘教練で、砲兵出身の神様仏様たちは何百メートルにも及ぶ長距離|匍匐《ほふく》に悲鳴をあげた。地べたに這いつくばらせやがって、俺たちに何をやらせようてんだ、と、埃だらけになった顔を地面から上げて、彼らは指揮官を怨んだ。異常なまでの長距離匍匐は、杉田もここに来てはじめて経験したことである。火力のない部隊としては、何百メートルでも這って敵に接近し、白兵を挑む以外に勝機は掴めないという点に、歩兵の戦闘要領が徹底的に絞られてきたらしかった。敵に暴露する時間が短ければ短いほど安全度は高いわけだが、杉田たちが投入せられるであろう戦闘では、おそらく、突破縦深たとえば百メートルについて何発の弾量を見舞われるかによって、生死はほとんど数学的な正確さをもって決せられるにちがいない。砲撃密度が高ければ、匍匐していても無駄なのである。  それでも杉田は匍匐のおそい神様や仏様を追い抜いて、地物に遮蔽しては息を整え、次の地物をめざして這って行った。  神様の一人が杉田に云った。 「お前が生えぬきの歩兵で上等の兵隊だってことは、よくわかったよ。だがな、あんまり張りきって俺たちに差をつけるなよ」 「そんなつもりはありません。命が惜しいから、早く地物に隠れたいだけです」 「早く這ったって、やられるときにはやられるさ」 「それはそうです。しかし、立ったまま死ねるわけではありませんしね、地物に隠れないよりは隠れる方がいいでしょう。それも早ければ早いほどいい」 「歩兵はつき合いきれねえよ。砲兵の五年兵を歩兵に使うなんざ、関東軍も落ちたもんだ」  それには杉田も全く異論がなかった。彼らといっしょに這いまわるより、彼らに砲を射ってもらう方が、戦う身としてはどれほど心強いかもしれないのである。  別の日、その古兵が褌をまるめて班を出て行くのと杉田は出合った。  古兵は奇妙な笑いを浮べた。 「朝がた、いい夢を見やがってな、こってりとやっちゃった」  杉田は愕然とした。彼は「地方」の生活を想い、女を想うこと頻りだが、久しく艶夢さえみない。強靭な意志と多彩な情感を宿していたはずの肉体から生命の香りが失せて、令典範に定められたせいぜい何十種類かの基本的動作を機械的に反復する機能だけが残ったようである。 「余裕綽々ですね」  杉田が呟いた。 「私は、もう、女がどんなものだったか、思い出せません」 「俺もさ、夢に見てさえ思い出せんよ。今朝見た奴がどんな奴だったかもな。さめたら、お前、気色悪いやら情けないやら。非常ラッパが鳴らないうちに、ほんものの女に会わなきゃ、せっかくの命が勿体ねえや」 「会えますよ。ここで死んではつまらない」  杉田のは祈りと呪いがこもっていた。  しかし、この山の男たちは、二度と女に会うことはできなかったのである。 [#改ページ]     11  緑が芽吹いた。国境は、一見、日々これ平穏であった。このころシベリア鉄道によるヨーロッパ・ロシアからシベリアヘの兵力の逆送は既にはじまっていたが、この国境地帯は鉄道から離れているので、向地視察班でも異常の確認はまだできなかったのである。  異常は、しかし、とっくに起こっていた。兵隊たちが知らなかったし、知らされなかっただけであった。二月四日からはじまったヤルタ会談では、ルーズベルト・チャーチル・スターリンの間で、ドイツ降伏三カ月後にソ連が対日参戦する協定が出来ていた。ドイツの降伏が時間の問題であったとすれば、ソ満国境で事が起こるのもまた時間の問題であったわけである。そのドイツは連合軍に押しまくられて後退をつづけていた。ソ連はしゃにむにベルリンめざして突進していた。ソ連軍の戦車隊がベルリンヘ突入したのは四月二十二日のことであり、米ソ両軍がエルベ河畔で邂逅してドイツ軍を完全に分断したのは、四月二十五日のことであった。  四月五日、ソ連は日本に対して日ソ中立条約の不延長を通告した。これは、関東軍にとってはまさに警戒警報であったが、国境の兵隊たちは知らなかった。知らないといえば、米軍が二月十九日に硫黄島に上陸し、三月十七日には栗林中将以下守備隊二万三千が全滅したことも知らなかったし、三月十日の東京大空襲で焼失二十三万戸、死傷者十二万の大被害を出したことも知らなかった。  四月一日、米軍が海を蔽う大艦隊をもって沖縄に来襲、上陸したことを杉田が知ったのは、ずっと後になって杉田が主陣地観月台へ帰還を命ぜられてからである。  四月の後半から、国境付近の低地へ夜間だけの動哨に出かける兵隊たちは、ときどき、闇の彼方に、轟々と遠い地鳴りのような音を聞くようになった。戦車か、重砲の牽引車か、その類であろう。いずれにしても不吉な音である。動哨交替には必ずその音が申送り事項となった。  五月上旬、その夜のことは、杉田のその山での最後の動哨勤務となったので、特に印象に残ったのだが、轟音の代りに、風に乗って幽かに音楽が聞えてきた。杉田と連れの古兵は、低地の草むらを、歩いては停り、闇のなかの地物の一部と化したように佇んで、断続する音に聞き入った。アコーディオンか何かであろう。ときどき、どよもすような歌声らしいのも聞える。 「何だろうな」  連れの古兵が云った。 「演芸会でもやってやがるのかな」  杉田は暫く黙っていた。このままスタスタと国境を踏み越えて、何処までか知らぬが賑やかに打ち興じているところまで入って行ったら、どうなるであろう。  長い国境ばかりの勤務で、こんなことは一度もなかった。つまり、一度しかないことが起きたのである。 「ドイツが降伏したんじゃないかと思います」  杉田は体のどこか芯の部分に慄えを感じていた。 「まさか」  連れは打ち消したが、それ以上はどちらも何も云わなかった。  杉田のこのときの推測だけは正確に命中していたのである。  それから一両日して、杉田は、松崎という伍長と二人だけ、主陣地へ呼び戻された。  中隊には人事掛の准尉が欠員で、曹長が事務をとりしきっていたが、これが杉田を平山見習士官のところへ連れて行った。顔を合せてみると、この見習士官は野火騒ぎのときに夜おそく援軍を引率して来た将校であった。 「お前に今度来る初年兵の小銃班教育助手をやってもらう」  平山が云った。 「機関銃は岩瀬上等兵、擲弾筒《てきだんとう》は川井上等兵だ。仲よくやってくれ」  岩瀬も川井も杉田とは別の部隊から来た現役である。 「小銃班の助教の班長殿はどなたですか」 「鈴木伍長だ」  杉田はそれで合点がいった。一カ月の分哨勤務を共にした経験から、鈴木が杉田を助手に所望したにちがいない。 「今度の初年兵は現役でありますか、補充兵でありますか」 「現役と第二国民兵役と半々ぐらいだ。年齢も十九歳から四十歳ぐらいまで、体格も年齢も平均していないから、各個に仕込んでやる心構えが必要だ。それに、教育期間としてそう長い時間はかけられない。長くてせいぜい三カ月。それ以内に一通りのことは仕込まなければならない。何か意見があるか。希望でもいい」  そう云われて杉田は、突然、思いきった冒険を試みる気になった。一つには、平山は見習士官でも、おそらく杉田と同年兵であろうという気易さがあったのと、鈴木が杉田のことを平山にどう云ったかは知らないが、平山には杉田の云うことを聞いてみるだけの度量はありそうに思えたのである。 「お願い致したいことが一つあります」 「何だ」 「初年兵が入る内務班には、一期検閲終了まで、助手以外の古年次兵を入れないようにしていただきたくあります」 「理由は」 「年齢も体力も著しく不均等な初年兵を、同時に、しかも短期間に、戦闘員としての練度を高めるためには、内務班の負担を、主として心理的な面でありますが、軽くしてやる必要があると考えます。年齢の高い、体力の劣る二国の初年兵に、関特演以来の強壮な古兵の尺度で内務の躾けを施せば、精神的に消耗してしまうと思われます。私は、戦闘訓練はきびしくやるべきだと思いますけれども、内務に関しては古兵殿たちとは別個の見解を持っております」 「鈴木伍長もお前のことをそう云っておった。お前の見解も確かに一理あるが、そう簡単にいくことではないぞ」  平山が思案しながら云った。 「古兵を別の班にしても、面倒はみてやらなければなるまい」 「小銃・機関銃・擲弾筒三班の初年兵で遺漏なくやらせることはできると思います」 「お前、三班助教を説得できるか」 「やってみます」 「下手をすると、お前、四面楚歌の声になるぞ」 「ならないように気をつけます」 「わかった。俺の方でも考慮してみる」  杉田は鈴木伍長を口説き、鈴木の立会で機関銃の松崎伍長、擲弾筒の徳広伍長に説得を試みた。松崎は断固として反対した。軍隊内務班の伝統に反する、兵隊は内務班の辛酸に耐えてこそ強靭な精神を涵養することができる、というのである。徳広は、杉田の云い分もわからなくはないが、班の編成を別個にすると古兵と初年兵の親和を図れなくなる、と反対した。賛成は鈴木一人である。鈴木も杉田に対する個人的な信頼感から賛成しているにすぎないかもしれない。  松崎と徳広の背後にはすべての古兵がひしめいており、軍隊の習慣の壁が聳えている。  杉田は兵隊としての自分の個人的な力量を過信していたといえなくもない。だが、自分が味わったのと同じ苦痛を初年兵に味わわせるくらいなら、初年兵掛などにはならない方がいいのである。理不尽を特徴とする習慣の申送りは、自分のところで切断する。それができないなら、助手任命は辞退する。  数日後に、平山教官は、初年兵受領に出かけて行った。  また数日たって、班の編成替えが行なわれた。古年次兵は二つの班に纏められ、三つの班がやがて来る初年兵のために用意された。  杉田は自分の意見が通ったと思ったが、そう思ったのは、おそらく、自惚れというものであったろう。軍においてか、師団においてか、連隊においてか、あるいは大隊でか、中隊でか、判然としないが、体位劣弱な初年兵を応急の戦力として錬成するのに、従来の内務教育に関しては手加減を施すことの必要が当然考えられたにちがいない。杉田の意見がたまたまその方針に合致するような時機が来ていたにすぎないであろう。  杉田の周囲の古兵たちは、しかし、そうは考えてくれなかった。たかが二年兵の上等兵の分際で古年次兵を邪魔物扱いするとは生意気である。古兵たちがそう思ったのも、軍隊の習慣からすれば当然であった。杉田はこれから最後の段階にいたるまで、古兵との摩擦に苦しむことになったが、もし杉田が何を云わなくても内務班の編成に変化があったのだとすれば、彼はまさしく雉も鳴かずば射たれまいの愚を冒したことになる。  関東軍が、既述のとおり、二十年三月末までに師団単位だけでも二十個を越えるほとんど全兵力を抽出転用されたのに反して、ソ連ではヨーロッパ戦局の好転につれて極東ソ連軍への兵力輸送が逐次多くなり、ドイツ降伏以後はとみに盛んになった。関東軍としては、蛻の殻の状態を秘匿して在満在郷軍人の根こそぎ動員を行ない、兵員の頭数だけでも揃えなければならなくなった。これに中国本土からの転用部隊を加えると、二十年七月末までに、二十四個師団、九個混成旅団、一戦車旅団となって、兵員数は七十万に及んだ。しかし、新設部隊はどれも編成・装備に著しい欠陥があり、兵員の練度がきわめて低いことも、短期間の急造部隊であるからには当然であった。前出の草地元大佐の著書によれば、右記の兵団数が持つ戦力は、従来の関東軍の師団戦力に換算すると、八個師団半にしか相当しないのだそうである。  そのような戦力薄弱の部隊の編成途上、二十年五月ごろ、大本営や関東軍がソ連の対日開戦の時機をどう判断していたかというと、㈰米軍が北支に上陸した場合、㈪米軍が南鮮に上陸して北進の意図が見えた場合、㈫日本の降伏が決定的となった場合、したがって、昭和二十年内にソ連が対日開戦する公算は必ずしも大きくはないが、秋以降は警戒を必要とする、という程度であった。  いずれにしても、作戦参謀に気に入ってはもらえないような「素質劣弱」な兵隊たちが動員されて、死の顎のなか、地獄の口のなかに置かれることになったのである。  初年兵は司令部所在地綏西から五十三キロの道を徒歩でやって来た。  小銃・機関銃・擲弾筒三班の助手三名は握り飯を荷車に積んで中間地点まで出迎えた。  初年兵たちは埃にまみれて山道を来た。みんなくたびれきっていた。一わたり見渡して、現役・二国を問わず体格が落ちているのが目立った。巻脚絆だけの軽装なので、これがこれから国境の警備につく兵隊とは見えなかった。みんな自分たちが抽いた貧乏籤を知らずに、握り飯を貪《むさぼ》り食っていた。  小銃班には五十六名、機関銃三十名、擲弾筒二十名の割当が既に決っていた。  平山教官が三名の助手にそれぞれの掌握を命じた。 「小銃班、食いながら聞け」  杉田が云った。一年六カ月前、夜明けの寒い班内に響いた竹山兵長の張りのある声を思い出していた。杉田の声も鍛えられて兵隊の声になっている。 「俺は杉田上等兵。今日からお前たちと寝食を共にする。あるいは生死を共にするというべきかもしれん。お前たちが心得ておかなければならぬことは沢山あるが、それは兵営に着いてから説明するとして、ここで一つだけ云っておく。お前たちは、今日から当分の間、人間社会のなかで一番つらい身の上になった。それには耐えるしか抜け出る途はない。お前たちは、今日から、誰の親でも子でもない。誰の兄弟でもない。誰の亭主でも友人でもない。お前たちは兵隊だ。二等兵だ。初年兵だ。俺はお前たちの身になって、最大の努力をするつもりだが、俺の力などは微々たるものだ。お前たちが自分で困難に耐えなければならん。無限につづくわけではない。せいぜい二、三カ月のことだろうと思う。ついでに云っておく。班内ではお前たちと異体同心になるつもりだが、練兵ではちがうぞ。お前たちの汗と脂を絞るのが俺だ。俺も実戦の経験はないが、実戦ではおそらくこうしなければならないであろうと思うことを、お前たちに強制する。弱音を吐いてはいかん。体力の限界までやれ。煙草を喫いたいものは、いまのうちに喫っておけ」  杉田は自分も煙草に火をつけた。岩瀬と川井は、それぞれ離れて、まだ初年兵に話していた。  初年兵たちは地面に尻を下ろして、埃まみれの顔を上げて初年兵掛を見ていた。世の中に、こんな戸惑った、頼りない、哀れな顔の集団はなさそうであった。  杉田は平山見習士官の視線に呼ばれて、そのそばへ行き、腰を下ろすと、 「沖縄は苦戦らしいぞ」  と平山がだしぬけにいった。察するに平山は、朝からの行軍で疲れもし、退屈もしていて、日ごろ気になっている戦局について誰かと話したかったらしいのである。それにしては、しかし、感情の抑制がききすぎているくらいの、平坦な声であった。 「艦砲射撃、空爆と徹底的に叩いて来るようだな」 「……次は本土を狙って来ますか」 「さあな。来るとしても、時間をかけて来るだろうが」 「……この正面のソ連はどんなふうですか」 「このところ、輸送は兵員よりも車輛輸送が多くなっているらしい」 「前線部隊の集結が大体終って、後方部隊の整備段階に入ったということですか」 「そういうことだろうな」  杉田は泥人形を地面に散らばしたような初年兵たちの方を見やった。どう見ても強靭な戦闘力になりそうには見えなかった。 「初年兵はどうだ」 「そうですね。年齢的には私が大体中間ぐらいだろうと思いますが、平均体重はどのくらいでしょうか」 「さあ……五十二、三キロあるかないかだろう」  それでは女性なみの体重である。訓練で絞れは、もっと減るであろう。体重を回復する暇はないであろう。完全軍装の強行軍をやれば、落伍が続出するにちがいない。戦闘訓練を反復すれば、薄い胸は破れた|※[#「韋+備のつくり」、unicode97db]《ふいご》のようになるであろう。練兵休や入室が毎日のように出ることになるにちがいない。国境の向うでは装備優秀な大軍団が集結を完了しつつあるという。こちらでは、丸太の擬砲を備えた陣地に、くたびれきった未教育兵が配備につくのである。 「……訓練はやはり白兵重点になりますか」  杉田がそうきくと、 「陣地はお前も見ただろう。他に方法があるかね」  と、平山が、はじめて、幽かに気色を動かした。 「お前は、さっき、初年兵に、人間社会で一番つらい身の上になったのだと云って聞かせたな。それは事実でもあるし、掌握の方法としては一つの方法だろうと俺も思う。しかし、事実は同じ事実でも、陣地はかくかくしかじかだから白兵以外に手はないのだと云うがいいか、白兵こそは最後の勝ちを制する決め手であると教えるがいいか、だ。お前は初年兵掛として安全度の高い合理的な戦闘方法を俺に求めたいだろうが、俺は残念ながらそれを与えることのできる立場にはない」  平山は起った。 「初年兵は中隊の主力になる。小銃班はその過半数だからな。鈴木とお前の教育に期待しているよ。整列させてくれ。出発だ」 [#改ページ]     12  小銃班は員数と広さの関係から一班二部屋になった。部屋といっても、板仕切で背なか合せになって、中央の通路を共有している兵舎独得の構造だが、眼の届かないことでは相互に独立した二部屋になっているのと大差はなかった。鈴木伍長は下士官室にいるから、初年兵と起居を共にするのは、杉田の注文どおり杉田だけである。実際のところ、しかし、五十六名は多すぎた。いくら気を配っていても、眼が届きかねる。内務の仕事はきまっているようなものだが、五十六人が同時一斉に同じことをするわけではない。理屈抜きでやらねばならぬことを杉田は懇々と教えてあるつもりでも、そのとおりにやれない者がいる、やれてもやらない者がいる、うっかりしている者がいる。古兵の眼は、まるで複眼であるかのように、よく見咎める。それも、つまらないことほど、よく見咎める。複眼といえば、古兵たちは初年兵いびりに関してはほとんど完全に連帯しているから、一点の死角もない完全な複眼を構成しているといえる。見咎められれば、概ね、ビンタである。  いびりやしごきは古兵の娯楽と化している趣きがあるし、何処の部隊でも共通の類型を持っている。初年兵いじめの材料を算え立てれば、きりがない。二つの例をあげるにとどめよう。  銃架に埃が溜っていることで古兵からビンタをもらったり、消灯後に週番上等兵から叩き起こされて制裁を受けたりする経験を持たない元兵隊はいないであろう。班内では何十人もの男たちが毛布を使って寝るから、銃架はいくら拭いても埃が溜りがちなのである。銃架に少しぐらい埃がついていても、銃が錆びたりしていなければ戦闘機能には何の支障もない。だが、陛下が御下賜くだされた銃を安置する場所に少しばかり埃があるということが、制裁の理由になる。銃は国民の税金によって造られていることぐらいは、殴る方にも殴られる方にも自明であるし、この両者はいずれも税金を納める立場にはあっても、天皇から物を貰ったり預ったりする立場にはないことも自明なのである。 「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」などと軍人勅諭の冒頭に書かれてあるから、毎年、初年兵は、つまらぬことで泣かされる。それを庇おうとすれば——杉田はそうしようとしたのだが——庇おうとした者が初年兵の分まで痛い目をみなければならない。  もう一つ、くだらなさは前者に劣らないのに釦《ボタン》の件がある。戦争末期、初年兵たちは「三装の乙」という廃品に近い軍衣袴を着せられた。釦孔はかがり糸が擦り切れていて、釦が直ぐにはずれてしまう。初年兵は忙しくて釦孔を直したりする暇はないのである。暇のある古兵は被服掛とよろしくやって程度のいい軍衣袴にありついているから、釦がひとりでにはずれたりすることはない。初年兵の釦がはずれているのを目ざとくみつけた古兵は、注意してやればいいものを、黙って引き千切って持って行ってしまう。代りの釦は与えられないから、その初年兵は千切った当人から返してもらうほかはない。返してもらいに行くと、ビンタを取られ、たるんでいると罵られ、軍人精神がどうのこうのと説教され、ようやく返されるが、千切った古兵が他班の者だと、この苦痛は倍になる。つまり、自班に帰って来てから、他班によく恥をさらしてくれたといって、またやられるのである。  杉田の初年兵の場合は、自班には杉田以外の古兵はいなかったから二度手間は避けられたが、杉田の眼は五十六名の初年兵の釦にまでは、ときたまだが、届きかねた。  初年兵に失点があると、古兵たちは、しばしば、初年兵を殴る代りに杉田を呼んで、眼の前で教育のし直しを要求した。殴れということである。その初年兵が嘘を云ったとか、卑劣なことをしたのならともかく、そうでないのに殴る理由はない。仕方がないから、その点に関してはまだ教育してなかったというほかない。すると、教育はこうやるのだ、と石のような拳骨が杉田の頬桁で炸裂する。  五十六名分の過失や不注意を補うのは容易ではなかった。杉田は初年兵に代って制裁を受けることに陰惨な誇りを抱いていた。それは解釈のしようでは、虚栄心の満足ともいえたかもしれない。  機関銃の岩瀬や擲弾筒の川井は、杉田のように古兵に対する対抗意識を持たなかったから、彼ら自身も、彼らの初年兵も、割合に平穏無事であった。杉田の班がなければ、しかし、その分だけのビンタは、やはり、彼らが受けなければならなかったにちがいない。  平山見習士官も鈴木伍長も杉田の難儀は知っていたが、庇い立てはしなかった。兵隊間の矛盾は兵隊内の何処かに吸収させる。表に出さない。それが中隊の運営方法というものである。杉田は耐えている。何事もなかったかのように初年兵を練兵で鍛えている。それなら、黙って見ていればいいのである。  もし、杉田が虚勢を張って耐えたりしないで、愁訴をしたら、どうであったか。杉田は平然と耐えていたわけではない。彼の心は爆発を求めていた。爆発するよりも耐えることの方がより少い勇気で足りただけのことである。何をするにしても、国境の兵隊たちには、もう、あまり沢山の時間は残されていなかった。  昭和二十年五月末、大本営は関東軍の戦闘序列を下令し、対ソ作戦準備を命じた。その背後にある客観的事実は、兵隊や一般国民こそ知らないが、沖縄戦が既に絶望的となり、戦争全般が最終段階に入ろうとしていることと、極東ソ連軍の増強も頂点に達しつつあって、この方面からも末期的相貌を呈していることである。  この時点での関東軍の基本的作戦任務は、京図線(新京——図們《ともん》)以南、連京線(新京——大連)以東の地域、つまり、満洲の東南部、朝鮮との国境を概ね底辺とする扁平三角形の地帯を確保して持久作戦をとり、本土決戦に策応するという点にあった。これは、満洲の四分の三以上を放棄しても、朝鮮との接壌地帯を護り、朝鮮を防衛し、ひいては本土を防衛するということである。  関東軍は、これより先き、主力のほとんど全部を抽出転用されるに及んで、満洲事変以来軍の姿勢としてとりつづけてきた対ソ攻勢作戦は否応なく放棄せざるを得なくなり、後退持久を作戦の主眼として、二十年早春から各軍司令部の後退移動を実施していた。東部満洲では、掖河にあった第三軍司令部を延吉に下げ、東安にあった第五軍司令部を掖河に下げ、牡丹江にある第一方面軍は日ソ開戦と同時に敦化に退ることにした。西北方面では、七月ごろまでに、チチハルにある第三方面軍司令部を奉天まで下げ、孫呉の第四軍司令部をチチハルに下げることにしていた。すべて、満洲の広さを利用して後退持久するという思想に基づくものである。かつて旅順から新京へ進出した関東軍司令部(のちには総司令部と称したが、関東軍が二つあるわけではない。総の字などあってもなくても実質に変りはない)も、開戦と同時に東辺道・通化に移り、最後の抗戦を通化複郭陣地で行なうこととしていたが、これは全くの作文でしかなかった。通化には、全軍が逐次後退して徹底抗戦する陣地など出来てはいなかったのである。  この後退持久の作戦には、放棄される地域に居留する日本人の処置は考慮に入っていなかった。作戦第一主義として、はじめから捨てられることになっていたのである。非戦闘員は居留現在地にとどまるのが最も安全である、と、司令部の参謀たちはみずから責任を解除する考え方に立っていたらしいが、満洲の日本人は、もともと、関東軍という軍事力の保障の下で、勝手に他国に入りこんで原住民を搾取する「優雅な」生活を享受していたり、国策によって半ば屯田兵的な目的をもって移住した人びとである。保障軍事力から置き去りにされたら、どのような事態が発生するのが当然であるか、参謀たちにはわからぬことはなかったであろう。  長きにわたる民族間の紛争の結末として、侵略した民族が報復を受けるのは余儀ないことである、という側面はある。だが、同胞の保護に任じない軍などは、無用の長物でしかない。天皇の軍隊は、形式的には、天皇一人のために国民を見殺しにすることなど意に介さない軍隊であり、実質的には、軍隊のための軍隊である。軍は作戦第一主義で、同胞のことをかまってはいられないというのである。軍の主とするところは作戦であって、居留民の保護ではない、というのである。  この問題は、関東軍崩壊の局面で、深刻な様相をおびることになる。  昭和二十年六月四日、参謀総長・梅津美治郎大将は関東軍総司令官・山田乙三大将と支那派遣軍総司令官・岡村寧次大将を大連に呼んで会談した。戦局非勢に陥って日本本土と大陸との間の交通杜絶を予想しなければならなくなったし、本土決戦の段階となれば、中央はこの二つの巨大な出先軍に対してなんらなし得るところはなくなる。謂わば訣別の会談であり、引導を渡す会談であった。  これに基づいて、関東軍では、六月十四日に、新京の総司令部で隷下の兵団長会同を行ない、対ソ作戦準備の概成の目途を九月下旬に置いた。  国境では初年兵たちが戦闘訓練でしごかれていた。防禦戦闘ではなくて、攻撃戦闘ばかりであった。杉田は、教官や班長の号令で、初年兵といっしょに山の斜面を駈け登ったり、駈け下りたりして、初年兵の動作を兵隊らしくさせることに気を配りながら、次第に教育の虚しさがやりきれなくなってきた。予想される実戦では、このように攻撃前進に移る可能性は絶無といってもよさそうに思えるからである。  教官は、敵陣に突入した兵隊に、銃剣刺突の瞬間に一発射ってから刺突する動作を反復させた。つまり、刺殺する前に一人だけ余分に射殺させようというのである。日本の歩兵の銃は装填は五発だが発射は単発だから、突入した最後の瞬間に、一発の効果を上げるように白兵戦闘の要領が変ったにちがいない。教官はそれを忠実に演習させているにすぎないであろう。しかし、実際には、白刃を振るう距離にまで迫れるかどうかが問題なのである。それまでいかにして生きているかが重要なのである。  杉田は突入動作には、あまり熱心でなかった。突入した瞬間に、おそらくその兵隊は死んでいると思われるからである。杉田は、地物にとりついた初年兵が同じところから発進しないように、極度にうるさく云った。仮りに杉田がその兵隊の正面にいて、地物に遮蔽したのを視認したら、同じ場所から発進する者を射ち損じはしないと思うからである。しかし、初年兵たちは、疲れてくると、ものの一メートルでも余分に横に動いてから飛び出すようなことはしなかった。理屈はわかっていても、体が動かないのである。 「お前たちは戦死だ」  杉田は毎日のように怒鳴った。 「明日の朝までそこにひっくり返っていろ。明日の演習に来たとき、骨を拾ってやる」  ときには、こうも怒鳴った。 「お前ら、さぞ疲れただろうと誰かがねぎらってくれるとでも思っているのか。確実に挨拶してくれるのは敵の弾丸だけだ。何のためにこんな訓練をしていると思う。一人でも多く生き残るためだ。誰のためにやっているつもりだ。みんな自分のためだと思え。死にたい奴は、もさーっと突っ立って歩け。とめやせん。嘘だと思う奴には、俺が実物教育してやる。教官から実包をもらって、俺が向うから射ってやる。鉄帽だけでも出してみろ、二秒以内に仕とめてやる」  鈴木伍長が、あるとき、杉田に云った。 「教官殿がな、小銃班は杉田に任せておけば教官も助教も要らんな、と云っとったぞ」  助手の身にとっては、これは最大級の讃辞に近かったが、杉田はいくら讃められても、死ぬための訓練では少しも嬉しくなかった。 「助手も要りませんよ」  杉田は答えた。 「敵の火力が全部教育してくれます。どうして組織的な防禦戦闘の訓練をしないんでしょうか。この陣地にいて、われわれは敵陣に突入するようなことはないでしょうし、敵と遭遇戦をやることもないでしょう。防禦戦は防禦戦でも、南の島ともちがうんですから、敵に時間をかけさせて、われわれは間隙を縫って後退しては新陣地につくのが作戦要領なんではありませんか」 「そのとおりだがね。攻撃戦闘訓練なら形だけのことでもできるが、防禦となるとダルマさんだ。手も足も出ない。砲もない、資材もない、作戦なんてありゃせんだろう。やるとしたら全員肉攻をやるぐらいなものだ」  肉攻などは戦術ではない。特殊な地形に恵まれない限り、爆雷を抱えて戦車に肉薄し、その腹に爆雷を投げ込んで退避することなどほとんど不可能である。それを自分では決してやらない指揮官が兵隊に命令という形で強制するのは、もはや戦闘ではなくて、殺人でしかない。そうやって兵隊に死の代価を支払わせるものは、いったい、何であるのか。国というものは、死んでゆく兵隊にとって、そんなに素晴らしいものであったのか。  杉田は、もう、初年兵掛として考えるのはやめた方がよさそうであった。戦闘となれば、分隊編成があって、下士官は足りなくても、杉田より先任の兵長や上等兵が沢山いることだから、杉田が初年兵を指揮しなければならぬ順番はまわって来ないであろう。したがって、杉田の指揮で初年兵を助けることなどはできないにちがいない。逆からいえば、杉田は自分のことだけ考えればいいのである。  そうは思ってみても、夜になると、杉田は寝ている初年兵を見まわって、昼の疲れで毛布を剥《は》いでいるのをかけてやったり、寝顔を覗いてまわった。毎夜のことである。大の男が苦痛と屈辱にひしがれて毛布のなかで忍び泣く。それが杉田が経験した初年兵というものであった。そんな初年兵が杉田の班にいるとしたら、杉田が初年兵掛になったことには一片の意味もないのである。  六月下旬、沖縄の守備隊が全滅したことを、国境の兵隊は知らなかった。  そのころのある日、鈴木伍長が杉田に云った。 「俺は南満へ転属だ。小銃班はお前に頼むよ」 「……転属って、特科教育か何かですか」 「らしいな。どっちみち、楽なことはないさ。紅土崖以来、俺は杉田のおかげで楽をしたよ。死なばもろとも、戦闘間でもきっといい相談相手になってくれると思っていたんだが」 「残念です」  杉田は、下士官の転属は後方部隊を固めるための再編成が行なわれるのであろうと想像したが、南満と聞いただけで、去って行く鈴木が羨しくもあったし、彼が友情を覚えた数少い上級者の一人との別離が淋しくもあった。 「しかし、後方に退る機会が出来たのは何よりですよ。……後任の班長殿は誰ですか」 「誰も来ないだろうよ」  と、鈴木は少年のような顔に笑みをたたえた。 「みんな勤務を持っているしな、いまさら初年兵といっしょにテクるのは御免だと」  事実、鈴木が去ったあと、下士官がいないわけでもないのに、何故か、助教の欠員は補充されなかったから、杉田は機関銃・擲弾筒両班合計を上まわる員数の初年兵を預かることになった。  鈴木がいなくなると、古兵たちは杉田を「班長殿」と呼んでいびりだした。返事をしては間違いであるし、しなければ古参者に対して無礼になる。返事のしようがなくて、呼んだ古兵に正対して「何の御用でありますか」と些か切口上になると、古兵たちはゲラゲラと笑うのである。 「いいから、いいから。初年兵の教育をみっちりおたの申します」 「関東軍も落つるよなア。上等兵の班長さんが出来たんでは、師団長は軍曹ぐらいでいいんでないの」  落ちたのは事実である。それは、しかし、些かも杉田の責任には属さない。杉田は、毎日、営庭に号令を響かせた。それも五年兵張りの、兵隊の謂う「色気のある」号令である。色気があるというのは、いまの言葉でいえば「カッコいい」ということに近い。号令は、蛮声を張り上げるだけでは、締らない。兵隊から瞬間の動作を一斉に抽き出すには、ちょっとしたコツが必要なのである。号令は単純明快を必要とするが、練兵が日常の行事となると、単純明快だけでは平凡すぎて瞬間の緊張を呼び起こしにくい。独得の抑揚をつけたり、間を伸ばしたり縮めたりして、列兵の注意力を集中させるのである。五年兵四年兵となると、それぞれ独自の号令のかけかたを自然に身につけるが、杉田の年次でそれをやるには、よほど居直った気持がなければ、いかにも気取っているようで、なかなかできない。杉田は、もう、古兵との摩擦で神経がささくれ立っているから、どうとでも勝手に思えという肚であった。  鈴木伍長が去ってから何日かたって、平山見習士官が杉田を教官室に呼んだ。 「班長がいなくて、困るようなことはないか」  平山は杉田の苦境を察しているらしかったが、杉田は強情を張った。 「ありません」 「それならいいが、初年兵がいつまでも古兵に打ちとけないように見えるが、どうだ」 「……私の内務の躾けに原因があるとお考えでありますか」 「そうは云ってない」 「初年兵は戦々兢々として古兵に打ちとけないものではありませんか。初年兵の心理を柔軟で弾力のあるものにしてやるには、古年次兵が勅諭の礼儀の項にあることを実践するしかないと思います」  杉田がいうのは、「上級の者は下級のものに向ひ聊《いささか》も軽侮驕傲の振舞あるへからす公務の為に威厳を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇《ねんごろ》に取扱ひ慈愛を専一と心掛け……」とあることを指している。 「要するにお前を見習えということだな」  平山は仕方なしに苦笑した。  古兵たちの杉田に対する不快感がつのるのは、あながち無理ではなかった。数多い兵隊をほとんど個別に掌握しているという意味で、年次や階級にかかわりなく、杉田が古兵をさしおいて中隊の実力者になりつつあるのは事実であったし、杉田の掌握の仕方が古兵たちが容認してきた軍隊の習慣に対抗するものであることも事実であった。 「一度きいてみようと思っていたが」  と、平山教官が云った。 「杉田が兵隊にとどまった理由は何だ」 「別に理由はありません。将校にはなりたくなかっただけです」 「その理由は」 「責任が重いからです」 「初年兵を抱え込んでいる責任は、重くないとはいえないだろう」 「運命を共有していると考えれば、なんでもありません。将校は、成り立ちからいって、兵隊と運命を共有しません。無理とわかっていても兵隊を死地に投ずるのが将校です」 「それはあるかもしれん。しかしな、杉田の立場にしたって、同じだぞ、それは。五十六名、お前が殺すことにならんという保証があるかね」 「……それは教官殿がこの上等兵をどれだけ便宜的にお使いになるかに依ります」 「馬鹿をいえ。便宜的にではない。有効にだ。軍の主とするところは戦闘だからな」  ああ、そのことなら、坊主の経のように誦じることができる。だが、いくら「経」を誦じても、死んでゆく兵隊は成仏できないのだ。  非常ラッパが鳴るような事態が突然発生すれば、兵たちはてんでに陣地へ走ることになるであろう。初年兵たちは杉田に従って班内から陣地へ直行するであろう。事態が切迫していれば、そのまま戦闘に入ることになるかもしれない。初年兵たちが混乱のなかで正確に所定の配備につくかどうか、疑わしい。その場合、杉田は、平山教官が云うように、杉田の指揮で初年兵を死地に投ずることがないとはいえないのである。  非常ラッパはまだ鳴らない。国境は平穏である。杉田は練兵の合間をみて、初年兵を連れて食用になる野草の採取に出かけては、国境の向うまで起伏しているなだらかな山の連なりののどかな風景を眺めて、関東軍が不戦兵団のまま戦争終結を迎えることになるかもしれぬというような淡い期待図を描いた。期待というより祈りに近かった。  兵士の祈りなど、しかし、何の役にも立ちはしなかったのである。 [#改ページ]     13  日本の最高戦争指導会議は、七月十日、戦争終結の斡旋をソ連に依頼するために近衛文麿を特使として派遣することを決定し、七月十三日ソ連に申入れた。変れば変るものである。貧すれば鈍するとはこのことである。ソ連を不倶戴天の敵とみなし、国民を徹底的にアカ嫌いに教育し、国内の共産主義・社会主義運動に殲滅的弾圧を加え、関東軍をしてひたすらに対ソ作戦準備をさせ、昭和十六年秋にはドイツに呼応してソ連をシベリアから挟撃する手筈さえととのえた日本が、敗勢もはや挽回しがたくなると、どうにかして無条件降伏ではない形で戦争終結に導きたいばかりに、ソ連にその斡旋の労を依頼しようというのである。日本の陸軍は、敗け惜しみから、本土決戦を呼号していたが、内心ではソ連の参戦を最も怖れていた。関東軍は案山子《かかし》の兵団になってしまっているから、ソ連が参戦したらひとたまりもないのである。ソ連に参戦させないためにもソ連に戦争終結の仲介を頼む。これは内大臣木戸幸一の考案であったが、知恵者の知恵に似ていて、実は、これほど独善的で幻想的な方策はないというべきであろう。  当時、ヤルタ協定の内容は当然不明であったが、日本のムシのいい願望が叶えられるような歴史的相互関係にあったかどうか。その時点での力関係がそのような希望的判断を許すと何故考え得たか。日ソ中立条約の有効期限までにまだかなりの残余時間がありはするが、四年前、条約締結の僅か三カ月後に条約を裏切って武力を発動しようとした日本が、いまさらどのような期待をつなぎ得るというのであるか。やってみて、駄目なら元々、成功すれば儲けものという考え方であるかもしれないが、そうだとすれば品も知恵もあったものではない。手の内をさらけ出して、相手がこちらの思惑どおりに動いてくれるわけがないのである。  結果的に明瞭なことは、ソ連が、日本はもう一押しで完全に倒れるという確算を立てたことである。要は、いつ、最も有効な打撃を加えるかであった。  その主要打撃の一つの正面の翼側陣地に杉田たちはいた。しかも、危機の切迫を知らなかった。知っていても、どうにもならない状態にあった。  七月中旬のある日、その日は爽やかな一日であった。初年兵の練兵が珍しく気合がかかっていたことに満足した教官は、午後の演習を少し早目に切上げた。  杉田は帰営した初年兵に班内の休息を許して、教官室へ呼ばれて行った。用は翌日の演習に関する簡単なことであった。そのあとで短い雑談を交したから、十分ぐらいは経っていたであろう。班へ戻ろうとして古年次兵の班を割っている通路を通ったときに、とげとげしい白っぽい視線が一斉に突き剌さってくるのを意識した。飯台の上には背嚢や帯剣が乱雑に置かれてあった。衛兵が下番したらしい。杉田は自分の班に足を踏み入れた瞬間に、古兵のとげとげしい視線の意味に気づいた。初年兵たちは、杉田から許しが出ていたから、演習で疲れた体をくつろがせて、煙草をふかしていたのである。 「お前たち、衛兵下番を出迎えたか」  初年兵の顔色が変った。  衛兵勤務に関しては、前にも述べたが、最も責任の重い勤務とされている。したがって、古兵が衛兵に上番するときには下級者がその装具一切の手入れをやって送り出し、下番して来ると、出迎えて、装具をはずしてやり、巻脚絆まで解いてやるのが習慣である。おそらく、すべての部隊に共通する習慣であろう。下番した兵隊は指定日でなくてもおおっぴらに入浴し、時間をかまわず寝ることが許されている。  初年兵は、衛兵上下番者の扱いを初年兵掛から懇々と教えられているのである。  この日は、演習の切上げが早くて衛兵下番までにはまだ間があると思っていたのと、休息を許されてついうっかりしていたらしい。  初年兵たちは顔色を変えたが、もうおそかった。板仕切越しに杉田が呼ばれた。杉田としては、教官室へ行く前に念を押しておかなかったことが「ふてえしくじり」であった。  この日古兵たちが杉田に加えた制裁は度が過ぎていた。積り積った鬱憤が小さな口火で誘爆すると、そのなかから加虐の悦楽が噴き出て来るようであった。杉田の方も、二十名ほどの古兵のなかをぐるぐるまわされて暴力を加えられているうちに、急速に絶望的な爆発点に近づいていた。兵隊同士の喧嘩は両成敗である。初年兵を後ろに庇って忍耐するにも限度がある。自分が身を捨てる気になれば神様・仏様の連中も怖くはない。国境の向うにいるソ連兵には何の怨みもない。だが、こいつらは! 軍隊の習慣の上にとぐろを巻いた毒蛇である。はじめは純朴だったにちがいない男たちをこんなふうにするのが『帝国陸軍』である。  飯台の上には帯剣があった。杉田は引き抜いた。貴様ら、一対一ではやれんのか。  杉田は、初年兵が駈け込んで来なければ、刃傷沙汰に及ぶところであった。  この瞬間から、杉田は、自分が必要と考えたときには軍隊の秩序を無視することに踏切ったといえる。したがって、その日からまだ沢山の日数が残されていたとすれば、杉田と古兵たちとの間にどのような事が起きたか、想像の外である。日数は、しかし、古兵にも杉田にも、もう幾らも残されてはいなかったのだ。  数日後に一つの命令が下った。初年兵の約六割の員数が陣地作業のために国境から後退するのである。杉田が属する中隊からの引率指揮官は擲弾班長・徳広伍長。助手三名がこれに随行する。執銃は班長と助手だけである。作業の指示は綏西へ行ってから受けることになっていた。  平山教官は、杉田に、 「ここに残ってもらおうと思っていたが」  とだけ云った。やはり、古兵との衝突を考慮したにちがいなかった。  杉田は、一カ月か二カ月の作業ならば、古兵の顔を見ずに済むだけ気が晴れると考えていた。そのくせ、夜行軍で国境を出発するときには、残して行く初年兵や教官との別れがひどく淋しかった。俗にいう後髪をひかれる思いである。それでも、これが最後の別れになるかもしれぬなどとは、全く考えていなかった。  この陣地作業は、その年の九月以降に日ソ開戦となる場合を予想して、その際には、長い補給線を必要とする国境陣地を撤して内線陣地に拠るという作戦に基づくものであった。  夜行軍の夜が明けると、山野には、ほとんど一年中の花々が色とりどりにいちどきに群がり咲いていた。荒くれた男の眼にもしみ入るようである。  杉田たちが割り当てられた陣地作業は、国境の綏芬河から内陸の要衝牡丹江ヘソ連軍が直進することを予想して、その線上の穆稜《ムーリン》・伊林地区の山間に抵抗線を布くことであった。  抵抗線といったところで、築城資材も皆無にひとしいから、山腹のあちこちに、数名の兵が入れる程度の穴を掘り、丸太と土で掩蓋《えんがい》を作り、なるべく射撃の死角を少くするように工夫して銃眼を設けるのである。掩蓋の骨になる丸太は、できるだけ太いのを伐ってきて組んだり、盛土はなるべく厚く盛って雑草を移植したりして、作業兵の希望的感想では、砲爆弾の震動と破片ならば至近弾にも耐えられそうであったが、直撃となると小口径の砲弾一発でそこは墓穴となりそうであった。  程度のよしあしにかかわらず、その程度のことしかできなかったのである。作業兵たちは、遠からずこの山間一帯の陣地が修羅場となることなどは考えもせず、半裸になって、まっ黒に陽に灼かれながら働いていた。愉しくさえあった。ここには神様も仏様もいなくて、内務班の息づまるような重圧がないからである。  兵たちは幕舎と作業地の間を往復しながら、太平洋の戦局が波及して来ないことをひそかに希っていた。丸腰の兵隊は兵隊ではない。重火器のない軍隊はもはや軍隊とはいえない。この男たちは、戦局が太平洋限りで終熄することを希う以外には、戦う術も生きる術もほとんどなかったのである。  七月末までに、極東ソ連軍はソ満国境の東・西・北の三正面、それに付随する作戦として朝鮮北東部・樺太・千島を攻略するために、配置全体として兵員百五十七万七千二百二十五名、大砲と迫撃砲二万六千百三十七門、戦車及び自走砲五千五百五十六台、戦闘機三千四百四十六機を展開し、海軍としては日本海軍による北朝鮮沿岸の基地化の阻止と、日本海での海上連絡確保、ソ連沿岸への日本軍の上陸に備えて、巡洋艦二隻、嚮導《きようどう》艦一隻、水雷艦十二隻、哨戒艦十九隻、潜水艦七十八隻、機雷敷設艦十隻、掃海艇五十二隻、飛行機一千五百四十九機を用意し終っていた。  国境や陣地作業の兵隊たちは右のような数字を知らずに最後の瞬間を迎えたから、思考することを許されない全くの消耗品でしかなかったことは事実だが、強いていえば、恐怖の時間が少くて済んだといえなくもない。  八月八日夜、満洲では、興安嶺一帯を除いて、雨が断続して降った。  穆稜・伊林の山間部では、雷雨であった。  杉田は前日から作業中隊の週番上等兵になっていたので、雨のなかを幾つもの八垂形天幕を見てまわって、消灯時の異常の有無を確かめてから自分の幕舎に戻った。  天地はただ暗黒のなかに雨の音。ときどき閃光が暗闇を裂いて、遠く近く雷鳴が轟いた。あとから考え合わせれば、不吉な前奏曲であったといえるが、寝入る前に雷雨の音を聞きながら兵隊たちが思ったことは、この雨で明日は陣地作業が中止になるかもしれぬという程度のことであった。  翌朝、雨はあがって、晴れていた。国境から百キロほど離れたこの山間部に訪れた朝は、いつもと変りはなかった。夜半に国境で一大異変が突発したことを、幕舎に起居している男たちは誰も知らなかった。  八月九日、作業はいつものようにはじめられた。掩体壕の数はかなり出来ていたが、暑い最中なので移植した雑草が変色してしまって、秋枯れの時期が来るまでは掩体壕の所在を自ら暴露することは免れなかった。  昼どき、杉田は「飯上げ」の兵隊を集めようとして、林のへりで立話をしている作業中隊長と見知らぬ将校のそばを通った。見知らぬ将校は軍装をしていた。週番上等兵が敬礼して通り過ぎようとすると、隊長が呼びとめて、全員駈足集合を命じた。  杉田はまだ危機の到来を予感しなかった。駈足集合は少しおかしいが、知らない将校が来ているのをみると、作業地の変更があるのかもしれない。杉田は、その将校を築城参謀だろうと想像したのである。  杉田の連呼する声で、作業兵たちは林に集合した。  半裸の男たちの頭上に青天の霹靂が落ちた。その日未明、国境は優秀なソ連軍によって突破され、男たちが残してきた陣地は大隊長以下全員玉砕した模様である、という。  中隊は直ちに帰営、幕舎を撤して移動、新陣地を構築して戦友の弔合戦に備える。中隊長はそう云って、軍司令官から連隊長宛てという電文を読んだ。 「貴官以下ノ奮闘ヲ祈ル」  短い沈黙が林を占領した。  遂に最後の時が来たのである。避けたくて、避けたくて、どんなことをしてでも避けたくて、人間の尊厳など一片もない境遇に耐えながら避けたいと希っていた最後の時が、遂に来たのである。杉田は、ほとんど真上から降りそそいでいる日光が、そのときは奇妙に柔かくて、もの静かであったのを覚えている。  時間にして何秒もたってはいなかったであろう。あちこちから叩き切るような号令がほとんど同時に発せられた。  兵隊とは哀しいものである。自分の運命が谷《きわ》まったときに、静かに考えることも、その運命の儚さを歎くことも許されない。ただ戦うだけである。誰のために戦うか、何のために戦うか、本心から明快に答えられる者は皆無といってよかろう。しかもただの一人として戦から逃げ出す者はないのである。  幕舎を撤して山腹を移動しはじめたころ、早くも敵機の接触を受けた。偵察であろう。単機で、悠々と、装備のない人夫の集団のような隊列の頭上を掠めて飛び去った。邀撃する友軍機など、地上部隊の守備範囲の上空を遂に一機も飛んだことはなかった。  作業兵たちは、二週間以上にわたって丹精して作った掩体壕を捨てて移動することが、第一に気にくわなかった。第二に、敵機は一機ずつ悠々と再々やって来るのに、友軍機が飛ばないことが気にくわなかった。第三に、昼飯抜きで何処へ連れて行かれるのか、だらだらとした山腹を移動して、幕舎を張れと云われて張りかけると、また撤去を命じられて移動することが大いに気にくわなかった。そこへ、白樺の枝を切って帯剣を縛着せよという命令が下りた。 「銃は渡らんのですか」  初年兵がたまりかねて、杉田にきいた。実砲など一発も射ったことのない兵隊でも、銃は武器の象徴なのである。 「渡るだろう。俺たちは警防団じゃない。これでも正規に編成された軍隊だからな」  杉田は初年兵にはそう云っておいて、徳広伍長のところへ行った。 「白樺の槍をこしらえさせて、何をさせようてんですか。M—4やT—34に白樺の槍で突撃させるんですか」 「俺の知ったことか」  徳広が顔を真っ赤にして怒鳴った。 「文句があったら第五軍司令官に云え。文句を云わずにやるんだよ」  そう。銃がないのは徳広伍長の責任ではない。  杉田は初年兵の隊伍に戻って云った。 「心配するな。銃は渡る。渡らなかったら、白樺を抱えて地物に隠れてひっくり返ってりゃいい」  おそい夏の陽が沈んで暗くなるまて、塒《ねぐら》のない兵隊たちは移動をつづけた。 [#改ページ]     14  時間を二十時間ほど戻そう。  新京(長春)の関東軍総司令部に非常を告げる第一報が入ったのは、八月九日零時十分ごろであったらしい。 「東安正面の監視所が攻撃され全滅した模様」というのである。  宿直の参謀が情報・作戦の各参謀に電話連絡をとり、総参謀長・秦彦三郎中将に電話報告をしている最中に、新京は小規模の初空襲を受けた。  国境の非常事態の通報は、東部国境につづいて北部の黒河方面からも、西北部の満洲里方面からも不規則に入って来た。発信受信の時間は不揃いだが、ソ連軍が一斉に侵攻を開始したことは疑いない。  それは不意の出来事にはちがいなかったけれども、総司令部としては全然兆候も知らず予想もしなかったことではなかった。シベリア鉄道の軍事輸送が六月から七月へかけて最高潮に達していることは、向地視察の報告を綜合してわかっていたし、七月末から八月初めにかけてソ連軍が国境の各方面で威力偵察や航空偵察を試みたことからも、来攻の時機が近いと判断せざるを得なかった。ただ、関東軍の準備が概成する九月以降まで、ソ連軍の侵攻準備も完了しないように希望的な算定をしていたにすぎない。  総司令部は、八月九日午前三時ごろに、「各方面軍、各軍ならびに関東軍直轄部隊は、それぞれ侵入する敵の攻撃を排除しつつ速かに全面開戦を準備すべし」と、作戦命令を発した。 「準備すべし」は、この時刻には国境では既に幾つかの部隊が玉砕していたことからみれば悠長な命令だが、関東軍としては従来の静謐確保の方針を一擲すべきか否かについてまだ若干の迷いがあったのである。そのことは、この時点で、対ソ有事の際の大本営の肚が決っていなかったことの反映でもある。  関東軍総司令部が大本営とは別個に独自に全面開戦を隷下の全軍に発令したのは、午前六時ごろのことであった。初動において約六時間野戦軍司令部が実在しなかったにひとしい。  ソ連軍来攻を正確に予測し得たとしても、関東軍壊滅の結果に変りはなかったにちがいないが、兵隊が虚を衝かれたり丸腰でいたりすることは避けられたであろう。総司令部としては、ほぼ正確に予測し得る手を打とうとしていて、機を逸したのである。  総司令部第二課(情報)では一〇〇式司令部偵察機(新司偵)を飛ばして国境全般を偵察することによって、向地視察班の観測対象の実態を確認することと、七月来頻発しているソ連軍の威力偵察の背後にどれだけの戦術展開があるかを探る必要を感じ、これを八月七日に実行することに決めていたという。  従来、新司偵によるシベリア偵察は年に二度ぐらい行なって、極東ソ連軍の動態把握の手段としていたが、静謐確保の建前から昭和十九年初頭以後中止になっていた。  二十年六月、七月となると、向地視察だけからでも東部国境のソ連軍の配備は完了し、北部・西部と増強が急がれている事態が観測されたので、総司令部としては、新司偵による越境偵察を、大本営にはかれば制止されることを嫌って、独断で八月七日に行なうことにしていた。ところが、七日は天候不良で飛行中止になった。  七日と八日は確かに天候はよくなかったが、飛行できないほどに天候不良であったかどうか。八日夜半は全満各地降雨断続の天候であったが、ソ連機は新京まで飛んで来て爆撃しているのである。総司令部としては、一日や二日を争うほどのことはないと考えていたのかもしれない。さまざまな兆候を見ながら適切な処置を欠いたのは、静謐確保に慣れて、野戦軍司令部としての緊張と強靭な弾発力を失っていたからであるといえなくはないであろう。  東部国境を担当していた第一方面軍第五軍では、八月五日夜に虎林東南方|于匣屯《ウコートン》の向地視察班をソ連兵約百名が夜間ひそかに渡河して攻撃した事件を、ソ連軍侵攻の前兆として重大視して、八月八日、国境の各部隊から師団長や参謀長を軍司令部所在地の掖河に呼び寄せ、ソ連軍侵入を想定しての高等司令部演習を行なった。作戦会議を行なっても、軍の戦力そのものが惨落している実情では、どうにも手の打ちようがないようなものだが、危機を予感して会議を行なうのなら、もう少し早く行なえば、少くとも兵隊を寝耳に水の恐慌状態に落すことはなかったであろう。ソ連軍は、高等司令部演習を行なった第五軍の正面から、まさにその夜、怒濤の侵入を開始したのである。  西部の国境でもソ連側の異常を監視所は視認していて、ハイラルの師団司令部では八月九日零時以前に異常の報告を受けていたが、実際にソ連軍の国境突破を十数カ所ある監視所のうちの二つから報告を受けたのは、九日の午前三時を過ぎていた。他の監視所は急襲されて全滅したのである。  ハイラルの複郭陣地につくことになっている独立混成第八十旅団が師団から非常呼集の命令を受けたのは午前四時十五分であったというから、師団では各地からの情報を綜合してソ連軍の侵入が全面進攻であるか否かを判断するのに手間取ったのかもしれない。どう解釈するにしても、非常呼集が四時十五分というのは、信じ難いほどにおそいのである。  東京の大本営がまたのんびりしている。のんびりしているというより、打ちのめされて戦争の終末段階へ追い込まれて、機敏に反応する能力を失ってしまったという方が適当であろうか。  大本営は九日の午前八時になってようやく作戦会議を開いて、関東軍に対する大陸命を発した。 その内容は次のようなものであった。  一、ソ連は対日宣戦を布告し、九日零時以降、日ソおよび満ソ国境方面の処々において戦闘行動を開始せるも、未だその規模大ならず  二、大本営は、国境方面所在の兵力をもって、敵の侵攻を破摧しつつ、速かに全面的対ソ作戦の発動を準備せんとす  三、第十七方面軍(朝鮮軍)は関東軍の戦闘序列に入るべし。隷属移転の時機は八月十日六時とす  四、関東軍総司令官は、さし当り国境方面所在の兵力をもって敵の侵攻を破摧しつつ、速かに全面的対ソ作戦の発動を準備すべし  右作戦のため、準拠すべき大綱左の如し     左記  関東軍は、主作戦を対ソ作戦に指向し、皇土朝鮮を保衛する如く作戦す  この間、南朝鮮方面においては、最小限の兵力をもって米軍の来攻に備う(以下略)  大本営が「規模大ならず」だの「準備せんとす」などと云うまでに八時間以上の時間が経過している。国境では、山の形が変るほどに砲撃され、ソ連軍の機甲部隊が轟々となだれこんで来ていたのである。  この大陸命の不徹底な字句の裏にある真意は、大本営の対ソ主任参謀・朝枝繁春中佐によれば、ソ連軍が入って来たとなれば関東軍は長くは持ちこたえられない、負けるにきまっている。どうせ負けるなら、あとのことを考えるべきである。ヤルタ協定の内容を知らなかった日本としては、米ソの間に離反もあり得るのではないかという希望的な観測をしていたから、対ソ戦に深入りしないで、あとの外交交渉に含みを持たせるためには、関東軍があまり気負い立って奮戦して、のっぴきならない状態に陥っては困る、ということであったというのである。土壇場での中央の考え方が、ムシがいいというべきか、浅薄というべきか。  同じ八月九日、午前九時、陸軍大臣、参謀総長、軍務局長、参本各部長が会合して、ソ連参戦についての陸軍の意志を決定した。その内容は、㈰ソ連が参戦しても戦争は継続する。㈪ソ連は対日宣戦したが、日本は対ソ宣戦布告は行なわず、自衛のための抗戦を行なう。㈫ソ連または中立国を利用して戦争終結を図る。ただ、国体護持と国家の独立は譲らない。戦争終結仲介を依頼する対ソ交渉は続行する。㈬国民に奮起を促す。㈭国内に戒厳令を布く、ということであった。  この陸軍の決定は、その日のうちに最高戦争指導会議、閣議、御前会議を経て、午後五時には国民に日本の決意として表明されるはずであった。そうは、しかし、ならなかったのである。最高戦争指導会議の段階で対ソ問題はもはや議題として取上げられず、戦争終結の問題が会議を占領したからである。この日の三日前、広島に原爆が投下されている。そのしたたかな悪夢につづいて、回避するのに腐心していたソ連参戦によってとどめを刺されては、もう如何ともする術がない。その上、駄目押しのような長崎被爆の報告が会議の席に飛び込んだ。東京中央が狂人に支配されない限り、戦争終結へ踏切るのが当然であった。  それにしては、しかし、無駄な時間が経ちすぎたし、無益な措置が行なわれすぎた。  八月十日、大本営は関東軍に次の命令を発している。  一、大本営の企図は、対米主作戦の完遂を期するとともに、ソ連邦の非望破摧のため、あらたに全面作戦を開始してソ軍を撃破し、もって国体を護持し、皇土を保衛するにあり  二、関東軍総司令官は、主作戦を対ソ作戦に指向し、来攻する敵を随所に撃破して、朝鮮を保衛すべし  この命令が来るまでは、日ソ開戦の場合の関東軍の任務は、満洲の四分の三以上を放棄してでも、京図線以南・連京線以東の、概ね鮮満国境を底辺とする扁平三角形の地域で持久戦を策して、戦争全般の遂行を有利ならしめる、ということにあった。それが、今度の命令では、朝鮮を保衛することが任務になっている。満洲は朝鮮保衛のための前線にすぎず、朝鮮は死守しなければならないが、満洲は作戦の都合で放棄しても仕方がないということなのである。  関東軍総司令部は隷下の各軍にこの命令を下達しなかった。このころ、関東軍の前線各部隊は圧倒的に優勢なソ連軍を相手に死闘を交えていたからである。  ワシレフスキー元帥を総司令官とする極東ソ連軍がソ満国境に展開した兵力と装備は、既に述べた通り、装備も薄弱で訓練精度も低い関東軍七十万に較べて、質・量ともに圧倒的であった。ソ連はこれらの兵力を三つの方面軍に編成して、一九四五年(昭和二十年)八月九日零時を期して、満洲の東・西・北の三方面から一斉に行動を開始したのである。  主要打撃は東からの第一極東方面軍と西からのザバイカル方面軍とをもって構成し、北からアムール河・ウスリー河を渡って進攻する第二極東方面軍は、前記の二つの主要打撃を支援する補助的役割を果した。  第一極東方面軍はグロテコヴォ——ヴォロシーロフ・ウスリスキー地区から発して、主目標を牡丹江、吉林方面とし、ザバイカル方面軍は蒙古人民共和国(外蒙)の東部から長春(新京)方面に向い、両軍は長春・吉林地区で握手することによって関東軍を南北に分断し、以後、方向を転換して遼東半島と北鮮方向へ圧迫する。北に残った関東軍は副次打撃の第二極東方面軍が殲滅する、というのが作戦の概要であった。  これらの作戦軍がどの程度の装備と破壊力を持っていたか、代表的な二つの例を示せば充分であろう。  綏芬河正面を突破して伊林・穆稜・掖河を抜き牡丹江攻略をめざした第一極東方面軍第五軍の場合、狙撃師団十二個、大砲及び迫撃砲三千五百九門、戦車及び自走砲七百二十台で、打撃集中の地域では展開一キロにつき戦車及び自走砲四十台、大砲及び迫撃砲の射撃密度は突破一キロにつき二百五十乃至二百六十発であった。  ザバイカル方面軍の打撃力と機動力を代表する第六親衛戦車軍の場合、その編成は戦車及び装甲車一千十九台、装甲自動車百十八台、野砲及び迫撃砲九百四十五門、高射砲百六十五門、自動車六千四百八十九台、オートバイ九百四十八台で、機甲部隊と狙撃師団を一日九十キロ乃至百キロの割りで推進し得た。  こういうソ連軍百五十万に対抗する関東軍二十四個師団と九個混成旅団、兵員七十万は、その装備が標準に満たない数字をあげれば、野砲四百門、機関銃二百三十、擲弾筒四千九百、丸腰の兵隊約十万であった。日本軍の火力は、完全装備の場合でも米軍やソ連軍に較べれば格段に劣ることを考えれば、実質的な戦力が標準の三〇%程度に落ちていた末期の関東軍のソ連軍に対する劣勢は、比較の外である。  関東軍総司令部は、大本営から朝鮮保衛の命令が下る前の段階で、既述の通り東辺道(前述の扁平三角形の地域)にたてこもって持久を策することになっていたのが、もう一段後退して朝鮮保衛となったので、予定通り、だがあわただしく、通化へ移動した。十二日に山田軍司令官と松村総参謀副長以下若干の参謀が、十三日には秦総参謀長以下が、同じ十三日には皇帝溥儀が「蒙塵」した。  作戦の大綱を知らなかった新京の日本人居留民には、これは、総司令部が市民を置き去りにして逃げたとしか映らなかったのは当然であった。新京に限らず、全満各地に居留する日本人は関東軍の庇護を当てにしていたのである。西部国境からのソ連軍が、ハロンアルシャン・索倫《ソロン》・王爺廟・白城子の線を驀進して早ければ十五、六日ごろには新京に達するかもしれないという情勢の下では、一般市民が総司令部を怨むのも無理ではない。  作戦上の予定がどうあったにせよ、総司令部の通化移転は有害無益であった。通化には、五月まで北部国境の山神府・孫呉あたりにいた第百二十五師団を下げて、陣地構築に当らせていたが、全軍が戦いつつ通化へ後退して来るための縦深陣地は云うに及ばず、指揮中枢の設備さえも出来てはいなかった。総参謀長・秦中将によれば、「防空設備はもとよりできておらず、駐屯の第百二十五師団は急遽周辺の地区に対戦車壕を構築中で、正に泥棒を見て縄をなうの感が深」かったのである。その上、十四日には新京に残った第二課(情報)からの、東京で重大な決定があったらしいから軍司令官に新京へ帰還してほしいという電話連絡によって、山田軍司令官以下またあわただしく新京へ戻らなければならなかったから、総司令部の通化移転は浮足立った混乱を感じさせるだけで、何の意味もなかった。  新京の日本人居留民が関東軍総司令部に対して不信感を抱いたのは、総司令部移転の二日前、避難民輸送に関してである。  西部国境からのソ連軍の進撃速度を考えると、新京付近が数日後には前線となる懸念が濃厚であった。それで、八月十日正午ごろ、軍官の要人会議で居留民の避難が決定された。連京線・京図線沿線の居留民を東辺道から北鮮一帯に避難させようという計画であった。  輸送順序は民・官・軍家族の順として、新京の場合は第一列車は十日午後六時と決められた。正午に方針が決って第一列車が午後六時では確かに忙しい。民間人の連絡に時間がかかったり、移動準備が手早くゆかないことも事実である。軍は、そこで、軍人の家族は警急集合が容易であるという理由で、軍の家族を第一列車に乗せた。決められた輸送順序が逆になったのである。居留民の眼には、これが、軍人が自分たちの家族をいち早く避難させたと映ったのも無理ではなかったろう。  軍関係者が、制限時間内の一般市民の集合が困難であったから軍人家族を先にしたというのも、便法としてならうなずけなくはないが、そう善意にばかり解釈できない節がある。第一に、午後六時という制限時間は絶対的なものではなかった。事実、第一列車の発車は、おくれて、十一日午前一時四十分であった。それも避難民の集合に問題があったのではなくて、避難列車の編成と輸送ダイヤを組むのに時間がかかったのである。第二に、輸送順序で軍人家族が最後であるなら、十日の午後一時三十分ごろ(避難決定の会議から約一時間しかたっていない)泉高級副官が新京駐在各部隊の副官たちを集めて、軍人家族は午後五時(第一列車発車予定一時間前)に忠霊塔広場に集合、という非常集合指令を出したのは早すぎるであろう。どんな弁解を構えても、軍人家族を早々に避難させるための措置であったと云われても抗弁の余地がないであろう。  軍に置き去りにされたのは新京居留民ばかりではなかった。国境の町の住民も、開拓団の人びとも、ほとんどがそうであった。  元関東軍総司令部作戦参謀であった草地元大佐は、その著書でこう居直っている。 「軍の主とするところは戦闘である。戦闘に際しては、隣りの戦友が負傷しても見向くことすら許されない。あの作戦時、なぜ関東軍は居留民保護の兵力をさし出さなかったか——あるいはまた、何故に居留民より速かに後退したのか——とたださるれば、それはただ一つ、作戦任務の要請であったと答えるばかりである」  作戦というが、居留同胞のことは考慮に及ばずという指示が大本営から出ていたのであるか。出ていなかったとすれば、居留同胞を考慮から切り捨てて作戦を立てたのは誰か。「作戦任務の要請」とは、この場合、みずから立てた作戦を絶対視して、居留民を見捨てることを正当化する名分にすぎない。  作戦作戦といかにも立派な作戦があったらしく聞えるが、実際に敵と接触している局面にどのような作戦がそれ自身を貫徹していたか、前線が崩壊しつつあるときに新京や通化を右往左往していた総司令部関係者にはどうでもよかったらしいのである。  ある元情報参謀はこう云っている。 「……わが軍が、いかにもぬけのカラとはいえ、もろいのにはびっくりしましたね。もう少しなんとかなりそうだと思っていましたが、予想よりはるかにもろかったのでした」  先に述べた第一極東方面軍第五軍の進撃路にあたった関東軍第五軍のある歩兵部隊を例にとれば、各人九九式短小銃、実包三十発、手榴弾二発、他に機関銃若干、擲弾筒若干、支援砲火なし。これで、先に記したようなソ連軍の熾烈な火力と戦車群に対してどれだけ戦えると総司令部の参謀たちは予想したのか。  こんな戦闘には彼我ともに「作戦」は不要であった。小銃実包三十発と手榴弾二発で戦車と戦う方法など、陸士や陸大の教習科目になかったであろう。こんな実戦には将軍も将校も必要なかった。兵隊が各個に戦って、運のいい者が生き残るだけである。事実、戦って死んでいった兵隊にも生き残った兵隊にも、総司令部などはあってもなくても同じであった。 [#改ページ]     15  穆稜・伊林地区の作業隊は、八月九日から十二日までの四日間、山間を転々とした。平地に出て対戦車壕を千余の集団になって掘るかと思えば、その戦車壕が完成しないうちに中隊単位に分散して山腹の岩窟を削ったりした。どの作業も中途半端であった。統一一貫した計画から作業配置がなされているようには見えなかった。戦局把握ができなくて、指揮系統が混乱していて、思いつきで作業部隊を転々と移動させているようであった。  杉田の属する中隊は、十日の夕刻、遮蔽物のないなだらかな丘の麓に簡略な掩体壕を作っていた。十名ほどの兵隊とリュックサックを負った七、八名の若い女が、汗みどろになって作業隊のそばを通って行った。 「何処へ行くんかァ」  ときくと、 「後退だよゥ」  と古兵らしいのがふり向きもせずに答えた。  女たちは司令部か何かの傭員であろう。 「兵隊さん、しっかりね」 「頑張ってね」  と、手を振って、リュックサックの下の丸く張り出た尻を揺すりながら遠ざかって行った。  ほとんどの作業兵が、短い者でもここ数カ月、女を見たのははじめてであり、そしてこれが女の見納めとなった。  男たちには灼けるような悲哀があった。彼らがこれから迎える日々は、辛抱しさえすれば愛する者との再会を約束してくれるような日々ではない。巨大な鉄の塊と爆薬が確実に彼らの生命を粉砕してしまう日々である。  男たちは女たちが次第に小さくなってゆくのを見送っていた。女は生命のあかしのようであった。その姿が見えなくなるのは、それだけ死が確実に近づいていることのようであった。  八月十一日夕刻、杉田たちは岩窟を掘りながら、はじめて殷々たる砲声を聞いた。敵が近くまで来ている。味方も何処かで砲戦を交している。何処かに味方の放列があることはわかったが、それが杉田たちの援護砲火でないこともわかっていた。それでも、空をつん裂く雷鳴のような砲声は、爽やかで、美しくさえあった。明日か、あさってか、杉田たちはその砲声の下で死ぬであろう。  杉田たちは一個小隊ほどの兵力から成る将校斥候が林間を通って行くのを見た。将校斥候の報告によって、連隊の兵力配置が最終的に決るであろう。敵と接触するのは、もう時間の問題である。 「戦闘は明日でしょうか」  初年兵が杉田にきいた。 「さあな。俺たちには何が起っているのか、さっぱりわからん」  杉田は、ヒュルヒュルンと空を鳴らして後方へ飛び去って行く砲弾の飛翔音を見上げた。 「……兵器受領が出ないうちは戦闘はないと思っていいだろう。痩せても枯れても関東軍は正規軍だ。俺たちを戦わせるつもりなら、兵器ぐらいは出すはずだからな」 「大砲も来るでしょうね」 「来てほしいもんだが。せめて山砲ぐらいはな」 「ああやって射ち合ってるんですから、あることはあるんですよね」  杉田は答えないで大空を見上げていた。砲声は後方へ飛び去って行くばかりで、後方から飛んで来るのはなくなっていた。潰されたか、撤退したかしたのであろう。  砲の援護などあると思わない方がいい。あると思って、なければ、腹が立つ。同じ死ぬにしても愚痴を云いながら死ななければならない。  八月十二日、作業大隊は朝から平地に出て戦車壕を掘った。気温が高くて、半裸の体は直ぐに湯をかぶったような汗になったが、雲行きは怪しかった。降りたがっている雨が空を飛び交う砲声に阻まれて、降る場所を探しているようであった。下から見上げる雲の姿は戦雲漠々というのであろう。不気味であった。  昼すぎ、戦車壕が完成しないうちに、中隊単位に分れてまた山間部に移動した。  杉田たちは小川の上の林に幕舎を張り、林を抜けて稜線に出た。そこから先は広い下り斜面であった。杉田たちの正面では、点在する灌木を除いては樹木はほとんどなく、下りきった低地の小川を越えて、また同じような斜面が広々と彼方の稜線まで登っていた。  兵たちの足もとには石竹や桔梗が無数に咲いていた。  命令が下りた。薄暮からこの斜面に各個戦闘用のタコ壺を掘る。そのタコ壺に拠って、明朝からと予想される前方斜面から来攻する敵と決戦する、というのである。  戦闘編成が行なわれた。前夜おそく、国境陣地にいたはずの関特演名残りの古兵五名が綏西方面から辿りついていたが、そのうち四名は機関銃と擲弾筒の方へ割り込み、一名は指揮班の徳広伍長の下に入ったので、小銃分隊の指揮は自然に杉田にまわってきた。長以下十三名が正規だが、肉攻班に取られた残りが小銃分隊にまわされて、長以下二十一名の変則編成であった。もっとも、何名であろうと、分隊戦闘をやるわけではない、各個にタコ壺のなかで戦って、各個に死ぬのである。戦闘間、指揮者の声が届く範囲なら、何名いても同じことである。  編成が終ると、兵器受領が出された。杉田は指揮班の徳広伍長に云われて中隊長のところへ行った。この三週間ほど杉田たちの作業中隊を指揮していた予備役中尉の中隊長だが、杉田にはほとんど馴染がない。その中隊長が、杉田に、 「向うの稜線まで敵に発見されないように行けるか」  と云った。  前方の斜面は遮蔽物の少いだだっぴろい丘の腹である。  杉田は空を見上げた。雲が垂れかぶさって来て、いまにも降り出しそうであった。 「稜線の向うを偵察するのですか」 「そうだ。特に戦車を知りたい。敵はあの斜面を下りて来たら、左翼中隊の突角陣地にかかるだろう。それからわが中隊との間のあの山道を進むだろう。肉攻班を道に出すか、下の川まで出すかだが」 「……雨が降れば、なんとかやれると思いますが」 「降りそうだな」  これは、行けということである。杉田は健脚らしい一等兵二名を与えられて、出発した。  雨は間もなく降りだした。霧のような雨である。いい按配に山が煙った。  稜線までどうにか這い上ったか、その先に同じような下り斜面を予想したのが、僅かな下り勾配で疎林がひろがっていた。おまけに、三人の斥候の姿を隠してくれた雨が、ここへ来て、三人からすっかり視界を奪ってしまった。敵情が皆目わからない。  杉田は稜線を越えて這い進んだ。斥候の任務を果すためではない。自分を殺しに来る相手を確かめたいのである。明日の運命を、いま知りたいのである。  灌木に隠れて窺うと、疎林の彼方に、いる、いる、逞しい砲身を突き出した怪獣のような戦車群が不規則に幅広く散開して、動いているのもあれば、じっとしているのもある。察するに、到着したばかりのようである。ざっと三十輛、それ以上ありそうだが、雨と木立と光を吸い取った雲の影のために視界が阻まれて見えない。当然、歩兵の大部隊がいるはずだから、杉田は眸を凝らしたが、隠れているのか、まだ到着しないのか、ほとんど見かけなかった。もし杉田の後方に優勢な放列が控えていて、杉田が敵の方位を知らせることのできる無線電話機でも持っていれば、この局面に関する限り、三十分で片づくであろう。敵は、航空偵察によって日本軍の配置と戦力を知っているから、悠然としているのである。  稜線まで這い戻って、斜面を屈身して駈け下りるとき、杉田は恐怖や驚きよりも腹の底が冷たくなるような怒りを覚えていた。こんな馬鹿げた戦闘をさせる奴は誰かということである。明日は陣地が寸土もあまさず戦車の無限軌道で蹂躙されることは間違いない。どれだけの作業兵が戦闘兵力となって陣地配備についているか知らないが、大隊であろうと、連隊であろうと、あの戦車群が視野いっぱいに展開して殺到して来るとなると、よほど多数の対戦車火器が揃わない限り、全然問題にならない。肉攻班を山道に潜伏させようが、斜面陣地の下の川まで出して敵が渡るところに肉薄しようが、いまは見えなかったが、自動小銃を持った歩兵が戦車に随伴して来るであろうから、肉攻班も戦いようがない。明日は、もう、斜面陣地一帯に、生きている日本人は一人もいなくなるであろう。  杉田は日没前に陣地に帰りついて、感情を殺した全く事務的な声で報告した。  中隊長は戦車全部が自分の中隊にかかって来るわけではない、と気休めのような独りごとを云った。歩兵が見えないのは、遮蔽物がない点では平原と同じだから、敵は戦車だけで突破するつもりであろう、それなら肉攻が功を奏する確率が高いとも云った。  ちょうど兵器受領が帰って来て、擲弾筒が予想より多く八筒来たと報告を受けた中隊長は、杉田の見ている前で、 「しめた!」  と手を叩いた。 「来てみろ、ぶっ飛ばしてやる」  杉田は、冷たい眼で、痩せぎすの隊長の喜ぶさまを見ていた。最大射程六百三十メートルの小火器八筒で戦車群を撃退できるとしたら、奇蹟というべきである。  小隊に戻ると、銃腔に油脂の詰った銃が初年兵たちに渡っていた。実包三十発と、手榴弾二発である。杉田は改めて心が寒くなった。持って行き場のない怒りで胃が痛くなった。これでどうやって戦えというのか。五軍の参謀でも総司令部の参謀でも、知っていたら教えてもらいたいものであった。手榴弾二発を結束してT—34の腹の底に叩き込んでも、T—34は全然痛痒を感じないはずである。実包三十発は装填六回で終りである。あとはどうするのか。戦車に銃剣突撃するのか。  機関銃分隊の岩瀬上等兵が実包九十発を杉田に持って来た。杉田の三十発を合せて、彼の前弾入れ二個と後弾入れ一個はちょうどいっぱいになった。 「頼むよ」  と、岩瀬はにっこりした。彼は兵器受領に行って、逃げ支度に忙しい兵站部の下士官兵たちの無秩序な無頼漢にもひとしい言動に接して、帝国陸軍の幻滅をしたたかに味わったのである。後退する連中は、前線にとどまって運命の最後を迎える兵たちを、からかい半分に憐れんで、ガヤガヤと賑やかに騒いでいた。自分たちは死ぬ気づかいがないから浮かれていることは明白であった。猥雑な言葉を吐き散らしながら逃げ支度に大童なのも兵隊なら、これから兵器を受領して戦線へ出て行くのも兵隊である。若い岩瀬上等兵としては、頼むはもはや戦線の戦友しかないのだ。 「頼みたいのはこっちだよ」  杉田は、正直、明日の戦闘では小銃などは一発も射つ暇も必要もなさそうな気がしないでもなかった。  杉田が岩瀬上等兵に関して記憶が残っているのは、そこまでである。  宵闇が山肌を撫ではじめたころ、四輛の戦車が彼方の稜線を越えて斜面の中腹まで下りて来た。  陣地は色めき立った。兵器を受領したばかりの兵たちは掘りかけのタコ壺に拠ることもできず、地面に伏せた。初年兵たちが手榴弾の扱い方を実物について習ったのは、このときがはじめてであった。小銃分隊としては、戦車に小銃は無効だから、戦車の接近を待って手榴弾を使うしか戦いようがなかったのである。  杉田は遠い戦車に眸を凝らして、戦う方法をしきりに考えていた。二人が組になって、一人が岩石を戦車の無限軌道の中に噛ませる、戦車の動きが鈍った瞬間に他の一人が戦車によじ登って、できれば天蓋から、天蓋があかなければどうにかして銃眼から手榴弾を投げ込む。爆雷も持っていない小銃手としては、それ以外に戦う方法はなさそうである。そんなことまでして戦う必要がどこにあるか。国家が兵隊に何をしてくれたというのか。天皇や国家は兵隊とその家族に何を保障してくれるのか。戦争を発起した者、宣戦布告をした者、戦いたい者がここに来て、戦えばいい。狩り集められた兵隊は、戦車に踏み潰されないように地べたを転げまわって、戦車を通過させればいい。兵隊たちは戦いたくはないのである。  杉田は、しかし、誰と誰と組ませるべきかを、頭のどこかでしきりに考えていた。  突然、後方から砲声が轟いた。戦車の付近で土煙が上った。兵隊たちは歓声をあげた。山砲が三、四門後方に来ているらしいのである。弾着は修正されて、至近弾になった。戦車四輛は急速に方向転換して、稜線へ引上げて行った。陣地ではまた歓声があがった。見事に戦車を撃退した! 砲兵が健在で戦車を阻止してくれさえすれば、歩兵同士の戦闘なら負けはしない。そんな気分の昂まりが陣地にみなぎった。  杉田は、ほっとしながら訝《いぶか》っていた。敵の戦車が簡単に退却したのも不審なら、退って行く戦車に砲撃の照準が追いつかないのも不審であった。そんなことなら、戦車は退却せずに全速で前進したらどうであったか。友軍の砲はやはり照準を合せることができず、その結果として、あの四輛の戦車は簡単に杉田たちの中隊でも、その右翼中隊でも蹂躙することができたはずである。この斜面陣地の背後何キロかには抵抗線がないことは、航空偵察でわかっているはずである。何故、後続の戦車群を繰り出して、一気に突破して来ないのか。来なくて幸だったようなものだが、考えられる理由は、肉攻を警戒したためとしか思えない。すると、肉攻を排除する歩兵部隊が、やはり、まだ到着していないのか? 「案外簡単に退却しますね」  と、初年兵の一人が云った。 「目的を達したんだろう」  杉田が答えた。 「火力の偵察に来たんだ。俺たちさえ知らなかった火砲のあることがわかった。どの程度のものかもな。明日は徹底的に叩いてくるだろう。タコ壺の深さは、射撃に必要な部分以外はできるだけ深く掘れ。少くとも二、三十センチは余計に掘れ」  兵たちは短い円匙で明日は自分の墓穴となるタコ壺を掘った。  糠のような雨が、次第に山を呑み込む闇に降っていた。  杉田は、初年兵のときに橋爪伍長が四十五分に一本の割りでタコ壺が掘れないようでは一人前ではない、と、何本も掘らせたことを思い出す傍ら、土と岩で研磨されて刃物のように鋭くなった円匙を使いながら、白兵戦のときには重い銃剣を振るよりも、円匙を刀の代りに使う方が息が長くつづくだろうなどと、怖ろしいことを考えていた。  指揮班の徳広伍長の下に入った中峰兵長が杉田を呼びながら来た。杉田はタコ壺を深く掘り下げて、そのなかから、中峰を見上げた。 「なんですか」  杉田は関特演の古兵たちには、貸しがある。初年兵のことでどれだけやられたか知れないのだ。明日は戦闘。今夜は最後の晩である。貸しは取り立てておきたい気持がなくはない。自然に、言葉はていねいでも、声が尖ってくる。  中峰はどぎまぎしていた。 「……用じゃないんだがね、偵察してきた様子はどんなだったかと思って。な、国境は不意打ちだったからやられたが、ここじゃ備えているから大丈夫だよな。国境みたいに負けることはないよ、な」  杉田たちが残して来た国境陣地では、九日零時過ぎ、営庭に砲弾が炸裂しはじめてから、非常ラッパが鳴ったということであった。営庭に飛び出ると、カチューシャ(ロケット砲)の砲弾の紅い焔の尾が夜空を一面に縫って飛んで来ていた。陣地に走る者、弾薬受領に走る者、命令受領に走る者、混乱がそのまま陣地に持ち込まれたころ、山は砲弾の炸裂音と戦車の轟音に蔽われていた。夜明けまで陣地はもたなかった。そのはずである。擬砲しかないのでは、敵と砲戦を交すことも、戦車の襲撃を阻止することもできるわけがない。白々明けのころには、山じゅう至るところに敵兵の姿があった。数名の古兵たちは、壕から陣地背後の崖に移動し、辷り下りて、国道の下の湿地伝いに落ちのびた。国道はひきもきらぬ敵の機械化部隊のトラック輸送で遠くまで土煙を上げていた。隣の順天山は山の形が変ってしまっていたという。中峰兵長はその戦慄的な壊滅を、不意を打たれたからだと思いたいらしいのである。 「ここは例外ってわけにもいかんでしょう」  杉田はタコ壺の外へ身軽に跳ね上った。 「さっきの戦車は逃げて行ったぞ」 「さっきはね。明日はそうはいかない。平山教官はどうしました」 「死んだよ。トーチカでやっていた。……あのときは、こっちは全然備えてなかったんだ。だからやられたんだ」  あとから考え合せると、中峰兵長はこのとき既に精神の平衡を失いかけていたようである。  中峰が杉田に相手にされないで離れて行くと、入れ替りに徳広伍長がタコ壺の見まわりに来て、杉田に云った。 「虎頭の友軍はウスリーを越えてイマンに攻め入ったそうだ」  聞きつけた初年兵が三、四人集って来た。  杉田が黙っていた。懐疑的であった。虎頭の最前線にいたことのある彼は、陣地は防禦戦闘に耐え得ているかもしれないが、ウスリーを越えてイマンヘ進撃する用意があったとは思えないのである。 「中隊長のところで聞いたんだ」  徳広は、杉田の反応がないので、不満そうであった。暗いなかで白眼が動いたようであった。 「大隊から来た連絡将校の話だから間違いない」  初年兵たちは黙っている杉田の様子を窺っていた。虎頭の対岸イマンに友軍が入ったとは、信じたいような話だが、杉田が黙っているので、黙っていた。  徳広伍長が初年兵たちに気合をかけて去るのを待ちかねたようにして、年嵩の初年兵がきいた。 「虎頭の正面では友軍が進出して、綏芬河の正面ではこんなところまで押されているんでしょうか」 「他の正面がどうあろうと、俺たちが直面している状況に変りはないよ」  杉田が答えた。 「この正面に敵が早く進出して来たのは、たぶん、牡丹江が狙いだろう。綏芬河要塞の翼側を抜いて真っ直ぐに来たんだろう。要塞は移動できないからな、包囲して、ゆっくり時間をかけて始末するつもりじゃないか」 「……どうなりますか、ここは」 「さあな。敵がどこまでくるかだ。明日はほとんど各個戦闘だろう。俺の声が聞えんかもしれん。とにかく、ヤケを起こしたり絶望したりして、無駄に死なんことだ」 [#改ページ]     16  虎頭からイマンヘ討ち入ったという虚報が何処から出たのか、遂にわからない。虎頭も、他の国境陣地がそうであったように、出撃どころではなかった。  虎頭は、前には、一個旅団約一万の兵力がいたが、開戦時には歩兵一個大隊半、砲兵一個中隊、合計約一千六百人しかいなかった。  この第十五国境守備隊には、肝腎のときに、運悪く隊長がいなかった。隊長の西脇大佐は、先に述べた八日の高等司令部演習のために掖河の第五軍司令部に行っていて、九日零時にソ連軍の攻撃がはじまり、国境陣地へ戻れなくなってしまったのである。  隊長不在の守備隊は、二十七日まで優勢なソ連軍と戦って、八○%を越す戦死者を出した。第五軍司令部との無電連絡がとれなくなったために、停戦を報されなくて、無用の犠牲を払ったことになった。  綏芬河国境陣地でも同じことが起こっていた。鹿鳴台守備隊は、これも二十七日まで死闘し、約一千の守兵が全滅した。  国境の永久陣地に拠った部隊は、孤立して、見捨てられたにひとしい。この現象は、しかし、国境陣地に限らなかった。国境内部の交戦地域で壊滅した部隊の生き残りも同様の運命に見舞われた。各級司令部はソ連軍の迅速な進出のために撤退を急ぎ、必然的に指揮系統の混乱を来たしたから、戦闘部隊は壊滅の瞬間に上級司令部との連絡の方法を失った。さりとて交戦前に敵に突破された場合の処置を下達されていたわけでもなく、生き残った者は各個に個別的な大勢判断によって行動するほかはなかった。  時間を再び八月九日に戻して北満国境の※[#「王+愛」、unicode74a6]琿陣地をみてみよう。  この方面の守備部隊は、ハルビンに司令部を置く第四軍(司令官・中将上村幹男)に属していた。黒河・※[#「王+愛」、unicode74a6]琿・孫呉と要衝を連ねていて、関東軍従来の作戦では、開戦と同時に黒竜江を渡ってブラゴヴェシチェンスク(黒河の対岸)を攻略し、シベリア鉄道をこの地域で切断してウラジヴォストック・沿海州を西方から孤立させる任務が与えられていたが、既述の経過で関東軍の戦略が変質してからは、第百二十五師団は通化へ引上げられ、孫呉には第百二十三師団、孫呉の北方約二十五キロの※[#「王+愛」、unicode74a6]琿には独混第百三十五旅団(長・少将浜田十之助)が守りについていた。  第百三十五旅団の戦闘日記を引用して(伊藤正徳『帝国陸軍の最後』終末篇からの孫引)、陣地で戦って生き残った兵隊の話と照合してみることにする。  八月九日 ソ軍は六時三十分頃※[#「王+愛」、unicode74a6]琿陣地を爆撃す。旅団はソ軍進攻と判断し、直ちに戦闘配備に着手、恰も他に転用のため輸送準備中なりし十五榴二門、十榴六門、十加四門を※[#「王+愛」、unicode74a6]琿駅より全力逆送、正午陣内に搬入を完了す。また新市街にありし邦人および軍人家族を陣内に収容す。  八月十日 江岸※[#「王+愛」、unicode74a6]琿附近に敵戦車十数輛、自動車六十台、十サンチ級火砲十八門を認む。旅団は十加を以て砲撃し、夜に入り挺身部隊を以て之を攻撃す。江岸監視隊は任地に於て玉砕せり。  八月十一日 敵の一部別拉河(※[#「王+愛」、unicode74a6]琿南側)を渡河し、夜十時戦車を伴って我が主陣地北方より進入を企てたるも肉薄攻撃によりて夜半之を撃退せり。  八月十二日 主陣地は砲戦続行。夜半敵は※[#「こざとへん+走」、unicode9661]溝子方面より進入攻撃し来れるも之を撃退す。  八月十三日 十四日 前日及び前々日の状況を反復し、その都度敵の攻撃を撃退す。  八月十五日 約一個師の敵は新兵営附近に進出し来りたるも主陣地の砲兵之を射撃し相当の損害を与えて之を撃退す。この日通信隊は放送聴取中断片的に重大放送を受信せるも意味不明確なり。  八月十六日 夕刻敵約一個師は主陣地を経て孫呉方面に西南進を開始す。戦車八十台以上、火砲九十門以上望見さる。敵の一部(歩兵一個連隊、戦車二十、火砲十八)その援護攻撃を※[#「こざとへん+走」、unicode9661]溝子正面に指向す。我が守備中隊は肉薄攻撃を復行して之を拒止す。中隊長以下全員死傷す。  八月十七日 黒竜江上の敵砲艦射撃を開始す。此日我が朝水陣地に対し、戦車を有する有力なる敵来襲せるも我が守備隊は激闘の後に之を撃退す。  八月十八日 十九日 旅団は主陣地を確保して士気旺盛、依然として砲戦を続行す。  八月二十日 午後六時、第百二十三師団より、森少佐、中村少尉来着、停戦に関する師団命令を伝う。旅団長は熟慮の上停戦に決す。  一〇二〇の通信連隊に属していた高野上等兵が、戦後、杉田に語ったところによると、※[#「王+愛」、unicode74a6]琿陣地が最初の砲撃を受けたときには、彼は食堂で朝食をとっていたというから、前掲の戦闘日記と大体合っている。  高野上等兵が有線電話の交換室に駈けつけたときには、交換台には各地から急報が入って呼出の札が一斉に落ちてパタパタと忙しく接続を求めていた。当番の交換手はどれをつないでよいやら全く恐慌状態にあった。  後送しかけていた砲を陣内に運び戻したことは戦闘日記の通りだが、高野が見た限りでは、砲の照準器ははずして既に後送してしまっていたので、小銃の照星と照門を利用して照準し、弾着を確認しては修正したという。そのころ、既に、陣地の下を敵戦車が包囲していた。砲撃は謂わば盲射だが、かなりの有効弾が認められたし、弾は射ちきれないほど多量にあった。  独混第百三十五旅団は抽出転用を免れた練度の高い部隊であったことは事実だが、主陣地を保持し了せたのは、砲と弾薬が豊富にあったということと、その正面の第二極東方面軍第二軍の装備が、マリノフスキーによれば、第一極東方面軍第五軍(綏芬河正面を突破した部隊)ほどではなかったということによるものと思われる。  ソ連軍は※[#「王+愛」、unicode74a6]琿の正面からと、勝武屯の正面から孫呉への南進を企図したらしいが、※[#「王+愛」、unicode74a6]琿での抵抗が頑強であったので、主力は※[#「王+愛」、unicode74a6]琿を迂回して孫呉をめざした。この戦法は他の永久陣地の場合と同じである。  戦闘日記の八月十五日の部分に通信隊が重大放送を受信したが意味不明であったと誌されているのは、高野の経験とかなり趣きを異にしている。  高野は無線手から重大放送を聞いた。意味不明確ではなかった。ただ、下士官に相談すると、それは謀略だろうということであった。下士官は将校に話したらしい。無線室の戸口には監視兵がつけられて、なかから出ようとすると、射ち殺すと云われた。日本降伏の情報は謀略であると信じて、その流言がひろがるのを防ぐための処置であったか、謀略とは思わなくても、まだ敗けてはいない現地部隊が最後まで戦い抜くために情報の漏洩《ろうえい》を怖れての処置であったか、いずれとも判然しない。  ※[#「王+愛」、unicode74a6]琿陣地は降伏勧告の軍使を追い返したという。最後に第百二十三師団から顔見知りの将校が来て停戦命令を伝え、陣地はようやく抗戦を停止したが、高野の記憶では、それは八月二十四日であった。  孫呉の第百二十三師団は西北方の※[#「王+愛」、unicode74a6]琿、東方の勝武屯と南陽山の頑強な抵抗のうちに終戦を迎え、教育未了の兵多数を殺さずに済んだ。  高野たちには、これから、シベリアでの抑留がはじまるのである。  満洲西北部の第一線となったハイラル陣地の場合はこうであった。  ハイラルには、市街を囲んでいる五つの丘を利用して構築した永久陣地が、北から時計の針とは逆まわりに第一地区陣地から第五地区まであった。第二地区を中核として、五つの陣地は互の砲座の死角を補うように設計されていて、その意味では理想形に近かったといえる。ハイラル守備隊の悲哀は、東部国境の永久陣地にも共通することだが、陣地が立派で内実が伴わないことであった。ここは、完全装備の戦時編成一個師団半、約三万の兵力があってはじめてその機能を充分に果し得るように出来ていた。そこの守備についていたのは独立混成第八十旅団、約一万、そのうち約四千を国境各地に分散配置していたから、ハイラル陣地には約六千しかいない。その上、砲がなかった。旅団兵力では守りきれない陣地に、旅団装備の標準としてあるはずの野砲十二門が一門もなかった。僅かに迫撃砲が二十四門あったにすぎない。もっとも、第二地区陣地には十五加三門と十加二門があるにはあったが、これらは固定されていて、他の砲座が完備している場合には相乗作用の効果を上げ得たが、それだけでは敵が一定地点を通過しなければ何の意味もなかった。  独混第八十旅団が属する第百十九師団は、これも第四軍の麾下にあって、満洲里からハルビンに至る長い鉄道沿線の守備に任じ、司令部をハイラルに置いていたが、兵力・装備・地形を考慮して、師団主力の抵抗線を後方の大興安嶺の山腹に設け、ハイラルは独混第八十旅団に任せていたのである。  第八十旅団が師団司令部から非常呼集の命令を受けたのが八月九日午前四時十五分であったことは、既に述べた。旅団は司令部を第二地区陣地へ移転をはじめ、車輛による一個小隊の斥候二組を、西方満洲里と南方将軍廟(ノモンハン事件当時の前進基地)方面へ急派した。国境監視哨との連絡が杜絶し、上級司令部からの情報も入らなかったからである。  この斥候は二組とも帰らなかった。無電装備もない斥候だから、敵と接触したら引き返す以外に通報の方法はない。帰らなかったということは敵に捕捉されて脱出できなかったと判断するほかはなかった。  払暁、ハイラル市は飛行機による爆撃を受けて、火災を起こした。空襲は新京爆撃の帰途のことであったらしい。  旅団は午後一時ごろ陣地配備を完了した。午後三時ごろには敵が陣地正面に達するものと予想されたが、日が暮れても現われない。  ソ連軍は慎重であった。第一・第二地区陣地を正面から攻撃せずに側背へまわる作戦をとった。九日夜半、北方のナラムト(三河)方面から南下した戦車部隊は、一部をもって第一地区の東側面に対する攻撃を準備し、残部をもって第二地区陣地の背後へ侵入するように行動した。陣地守備隊は敵情をまるで知らなかったという。敵の砲が火を吹いて、はじめて敵の所在を知るような状況であったという。つまり陣地のある五つの丘が占める五つの点を除く平面は、九日夜半から十日へかけて、既に優勢な敵の制圧下にあり、五つの陣地はそれぞれ孤立していたのである。  十日朝からソ連軍の攻撃がはじまった。守備隊は敵を視認しても砲がないから攻撃できない。機関銃や迫撃砲の射程内に入って来るまでは、敵の砲火に叩かれっぱなしで待つよりほかはなかった。  十二日には、西の満洲里から来たソ連軍と南の満蒙国境アムクロ方面から来た部隊が、先の北方ナラムトから来た部隊(いずれもザバイカル方面軍)と合流してハイラル陣地を包囲した。  第一地区陣地は、東端の河北山は守兵も少く設備も簡略であったから一時間ほどの戦闘で全滅したが、主陣地の安保山では十三日に戦車壕を突破され、陣内戦となって各所で白兵戦を反復する苦戦が十八日の停戦までつづいた。守兵七百六十名のうち戦死は二百六十名であったという。乱戦苦戦の割りに生存者が多いのは、守備隊が堅固な永久陣地を楯としていたことにもよるが、ソ連軍は包囲を完了したのち、主力が興安嶺へ向って先を急いだためと思われている。  独混第八十旅団司令部を置いた第二地区陣地は、規模も最大、守兵も三千を越えていて最強であったが、守備力の手薄、地形の平坦な裏側から攻められて、交戦早々から強圧を蒙った。第三地区との連携による対戦車肉薄攻撃に若干の成果をみた程度で、あとは堅陣にたてこもって防戦する一方であった。戦闘の最初から最後まで師団司令部とは連絡がつかなかった。この点は、東部及び北部国境のように九日未明または早朝から交戦状態に入った地域とはちがって、少くとも九日まる一日の余裕のあった地域としては、納得のゆきがたいものがある。  八月十五日の重大放送は、ここでも謀略ではないかと疑われた。  十六日の午後二時ごろ、関東軍の当局談というのが傍受された。どうも謀略ではないらしいが、停戦が事実なら、師団司令部からなんらかの方法で連絡があるはず、というのが、旅団の判断であった。もう一日待ってみよう。  十七日、戦況は既に陣内戦。ソ連軍は陣地のベトンを破壊するのに対戦車砲を持ち込んで狙い射ちし、工兵隊は爆薬、ガソリンを使って空中に吹き飛ばした。後に述べる第四地区陣地を除いて、何処も同じような戦況に陥っていた。師団からは何も言って来ない。  十七日夜、旅団長・少将野村登亀は、第二地区陣地内の各部隊長を集めて、停戦か抗戦かの意見具申をさせた。  玉砕を主張する者、「聖旨」にしたがって停戦すべしとする者、二つに分れて結論が出ない。  旅団参謀は、放送は謀略ではない、と判決した。謀略でなければ、「聖旨」であるから、停戦しなければならぬ、とした。旅団長は、最後に、停戦を採った。十八日午前五時を期して、各陣地白旗を掲げる。  ところが、各陣地間の電話が不通になっていたから、連絡をとるのが困難で、第三地区と第五地区の停戦は二十日までおくれた。  第一地区陣地から第五地区まで、ただし後に述べるような特殊な状況を呈した第四地区陣地の守兵六百五十名の運命を除いて、ハイラル守兵約五千四百のうち、陣地で斃れた者は九百七十二名であった。  ハイラル陣地の記述については、第三・四・五地区陣地が残っているが、ハイラル背面の第五地区陣地は永久陣地ながら小規模で、特徴的なこともないので省略するとして、第三・四地区の悲劇を誌す前に、大興安嶺にあってハイラルとの連絡が切れてしまった第百十九師団について触れておく。  九日早朝、空襲があったときハイラル市内にいた第百十九師団長・塩沢清宣中将は、未明の越境報告と早朝の空襲とから全面侵攻と判断して、第八十旅団の野村少将に会おうとしたが、街が火災で車が走れなかったという。  彼は、そのまま、主力が展開している大興安嶺へ向い、夕方、大興安嶺主陣地の戦闘指揮所に入った。九日午後一時ごろまでは、旅団司令部はハイラル市内から第二地区陣地への移転を行なっていたはずであるから、師団長自らが動けなかったとしても、師団司令部と旅団司令部の間の連絡をとる時間も方法もあったはずと考えられるが、不審である。ハイラル守備の旅団と、ハイラルに堅塁がありながら、装備のよい第八国境警備隊の主力を引き抜いてまで大興安嶺へ退ることにした師団長との戦略戦術上の見解の相違から、意思の疎通はあらかじめ欠けていたとみるのは、邪推に過ぎるであろうか。  大興安嶺の陣地では、弾薬糧秣を分配してソ連軍の来攻を待った。ハイラルの第八十旅団とは無電連絡が絶えた。十二日には早くもソ連軍の戦車が興安嶺陣地前に現われたが、全面的な衝突にはならなかった。ソ連軍は満洲中央部への進出を急いで、抵抗のある部分は素通りしたのである。第百十九師団長の作戦は、敵が通過して行ったら、後方攪乱のゲリラ戦を行なう予定であったらしい。実際には、本格的な防禦戦闘もなければ、ゲリラ戦もなかった。この師団の兵隊は、他正面の第一線師団に較べれば、戦闘をせずに済んだという意味で幸運であったが、邀撃《ようげき》もせず後方から襲いかかりもしなかった事実からみれば、貧乏籤をひいたのはハイラル陣地に残された第八十旅団であったということになる。  大興安嶺では、十四日の夜、日本がポツダム宣言を受諾したというサンフランシスコ放送を傍受した者がいて、師団長はこれを信じた。軍が徒らに抗戦すれば国体護持を危くする、と判断したという。ここでは、したがって、重大放送をめぐっての意見の分裂は生じなかったということである。  ハイラルでは、しかし、死闘がつづけられていた。  ハイラルの西側、南端にある第三地区陣地は、満蒙国境付近のアムクロ、将軍廟方面からハイラルヘ来る道の押えとして構築されてあった。ここも停戦まで陥ちなかったが、アムクロから避難して来た旗公署と警察の家族七十六人が、第三地区陣地に辿りついて壕に入ったところへ、悲劇が降りかかったのである。  家族をハイラルヘ避難させた警察隊は、アムクロ付近の敵情を逐次師団へ無電で報告したが、師団からは何の指示も来なかった。師団から遠く離れた小人数の警察隊には百七十キロに及ぶ長大な国境線が任されたまま放置されたも同然であった。  ソ連軍戦車は、十日タ刻、アムクロに進入して来た。警察隊はトラックで敵戦車と接触しながら、家族のあとを追ってハイラルヘ向い、十一日昼ごろ第三地区陣地に到着、そのまま家族とは別に陣地守備についた。もう少し時間があれば、家族たちが陥った事態は変っていたかもしれない。時間はなかった。急追して来たソ連軍は陣地に猛烈な砲撃を加えた。壕は次々に粉砕され、砲弾の炸裂する凄惨な状況下で、沈着な指揮者のいない女子供は恐慌を来たしたと想像される。  誰が自決を命じたか、あるいは促したか、証拠はない。非戦闘員の女子供たちは、戦闘員がまだ応戦しているときに、終局も待たずに手榴弾で自決して果てた。このようなことは、ここだけの出来事ではなかった。各地に入植した開拓団が、後退を急ぐ軍隊から見捨てられて、避難する途中で進退に窮して、ハイラル第三地区の場合よりはるかに大量に集団自決をした例は二、三にとどまらない。  死を急がせたのは、崩壊した優越意識の廃墟を覆った恐怖と絶望である。死を不当に美化して皇国思想を粉飾しつづけた積年の教育が、無力化した人びとを死へ追いやったことは否めない。人びとは信ずるに足らぬものを信ずるように馴致され、一夜にして信じたものを失ったのである。「神州不滅」も「無敵関東軍」も空念仏にすぎなかった。人びとがそれに気づいたときは、耐えがたい恐怖を耐える以外に生きのびる方法はないときであった。  ハイラルの第四地区陣地は、ハイラルの東南、つまり、国境に面していえばハイラルの裏側にある仮設陣地で、中尉を指揮官に約六百五十名の守兵がいた。十日のソ連軍の攻撃開始以来、軽微な小戦闘があった程度で、他地区の激戦を傍観するほかはなかった。  その事情を、奇蹟的に生き残った池端元一等兵は、杉田にこう語った。 「敵の攻撃正面からずれていたのと、火力のない陣地ですから、敵は安心して背なかを見せて、一・二・三地区を攻撃していました。ええ、一・二地区を裏側から攻めると、私たちの陣地とはそういう関係位置になるんです。ハイラルは燃えていました。その火災の向う側では一・二・三地区がどこも熾烈な砲撃を受けているのが見えるんです。私たちにはどうしようもありません。戦況は刻々不利に陥って、玉砕は時間の問題と指揮官の山岡中尉が判断したとしても、当然だったと思います」  指揮官は、十二日、第四地区陣地の部隊に師団主力がいる大興安嶺陣地への脱出を命じた。実はこれが部隊全滅の因となったが、かろうじて生きのびた池端らに云わせれば、友軍陣地を見捨てて逃げたのではない、師団の作戦要領ではハイラル守備隊は敵の前進を阻止して大興安嶺陣地へ後退し、その左翼につくことになっていたから、後退の機は陣地指揮官の判断に属していたのである。  師団と旅団との間、旅団内各陣地間の通信手段が確保されていたら、結果は別であったかもしれない。  ハイラルから大興安嶺まで、約二百五十キロ、ハイラルの東側を流れる伊敏川一帯は湿地帯、第四地区はそのまた東側にあって、そこから興安嶺までは漠々とした草原である。自動車輸送なら半日行程だが、徒歩ではよほどの健脚でも五日か六日はかかる。ところどころに遊撃拠点として設けた擬装掩体壕のほかは、適当な遮蔽物もなく、見透しは平原の涯まできく地形である。発見されて機械化部隊に追撃されたら、助かる確率は皆無に近い。  第四地区陣地の六百五十名はその脱出行を試みた。暗夜の脱出は、まず、指揮官の掌握を奪った。組織的な行動は早くも分解してしまったのである。明ければ、狩猟の獲物が大草原を彷徨うのに似た光景を呈する。  脱出した兵たちのほとんどが草原で消息を絶った。池端は機甲部隊に追われると、文字通り、熊に襲われて死んだふりをする故知にならった。それで助かったのは、故知が正しかったのではなくて、草原が目こぼしの偶然を恵んでくれたせいであろう。彼は戦友とはぐれて一人になり、方角を失い、暗夜に星を求めて彷徨った。銃も帯剣も捨ててしまった。土着の住民の眼にふれたが、殺される代りに食を恵まれた。  武器がなかったことが、彼の場合に幸いした。人柄にもよることである。はじめ五日か六日の行程と思ったところを、二週間以上歩いて、日付の覚えも怪しくなり、半ば逃避行を諦めて鉄道へ近づいた。いつのまにか興安嶺に入っていた。興安嶺は国境の方から来ればなだらかなのである。  池端はもう兵隊ではなくなっていた。軍人勅諭や戦陣訓の呪縛は自然に解けていた。友軍に捕まって、脱走兵とみられて、銃殺されるのはまだ少し怖ろしかったが、どうでもいいと思いはじめていた。何も悪いことはしなかったつもりだが、最後がひどい、つまらない人生であったと考えていた。  彼はソ連軍に捕まった。伊列克得というところであった。 「政府の云いなりになっていてああでしたからね、今度は反対に生きてみようと思うようになりました」  池端は、後年、杉田と識り合って、そう云った。 「あのときいっしょだった人たちとは、一度も会っていません。戦車に追われたとき、のろまの私が助かったくらいですから、他にも助かった人はいると思うんですけどね、悲惨な体験をした者同士がどんなに苦労したか話し合っても、自慰行為にすぎませんね。ほんとに聞かなきゃならない人は、いかに自分が無責任に戦争をはじめたか、あるいは支持したかを自覚しない人であって、私たちお互いではないはずなんですから」  池端は生きのびたが、ハイラルの他の陣地の守備隊が、もし、師団に合流しようとしたら、第四地区陣地の兵たちと同じ運命に陥ったはずである。  はじめからしまいまで通信が杜絶していたことは、組織的な欠陥であったが、もし通信手段が維持されていて、師団が旅団に対して大興安嶺への撤収を命じたら、悲劇は事実の数倍の規模に及んだであろう。本来なら全く粗末としか云いようのない通信確保の不手際が、皮肉にも最後にたった一つ有効な仕事をした、といえるかもしれない。 [#改ページ]     17  伊林・穆稜地区に展開した第百二十四師団の作業部隊には、八月十二日暮夜、酒と甘味品が下給された。今生の別れに酒をくみ、糖衣落花生をかじり、キャラメルをしゃぶるのである。  霧のような雨が音もなく降りつづいて、兵たちの被服を濡らし、銃身に露の玉を作っていた。  杉田は初年兵たちに冷酒をついでやりながら、一人一人の顔を覗いた。もはや、どうしてやることもできない。明日は死ぬのである。明日死ぬために、三カ月前、家を出て国境へ来た男たちである。杉田は、彼らに地形地物の利用と躍進と匍匐の要領を特にやかましく教えたが、そんなものは明日は何の役にも立たない。相手は人間ではない、自動小銃でさえない、鉄の怪物、戦車である。こちらはタコ壺に入って、戦車の御入来を待つだけである。  杉田が酒をついでやったとき、何人目かの初年兵がこう云った。 「最後ですから、お尋ねしてもよろしいですか」 「いいよ」 「……上等兵殿は、明日死ぬことが怖ろしくはありませんか」  杉田は歯を見せて笑ったつもりであった。どうして次のように答えたか、わからない。それは長い間考えつづけてきて、そう答える以外に答えようがないと信じているかのように、口を衝いて出た。 「俺だって怖ろしいよ。だからって、怖れてどうなる。危険は、直面するまでは怖れろ。直面したら、怖れるな。俺たちは直面したんだ」  初年兵は、おそらく、納得はしなかったであろう。だが、うなずいて、 「そうですね」  と呟いた。  杉田は、内心には怖ろしいような願望があった。誰かが、杉田に、「明日、何故、戦わなければならんのですか」ときくことである。きかれたら、杉田は、息を呑んで、自分の心臓の不気味な音を聞いたであろう。それこそは、杉田が初年兵たちの教育期間を通じて語り合いたくてできなかったことである。  いまは最後の夜。しとしと降る雨の下、死という共通公平な条件の上で、額を集めて語り合う最後の時間である。  杉田は、しかし、遂に、勇敢にも、正直にもなれなかった。彼は、よく訓練された兵隊であるにすぎなかった。 「明日は俺の声が聞えないかもしれない。そばに行って手を貸してやることもできないだろうと思う。だから、いま云っておく」  杉田は自分が一番云いたいこと、お前たちを死地に叩き込んだ奴は誰か、知っているか、そう云う代りに、こう云った。 「操典には戦闘惨烈の極所という言葉があるな。明日はそうなると思う。何事が起きても臆病になるな。勇敢に戦えとはいわん。臆病にだけはなるな。今夜はいくら臆病でもいい。明日はいかん。臆病になると、できる判断もできなくなる。動く体が動かなくなる。動いてはならんときに動いたりする。それだけ死ぬ率が高くなる。もう一つ、何が起きても絶望するな。絶望して自殺したりするな。生きていれば、どうにでもなる。射撃は、お前たちの腕では、敵の歩兵が百メートル以内に入るまで射ってはいかん。百メートル以内だぞ。それより早く射つと、敵が目の前に来たとき、弾がなくなる。戦車には手出しをするな。タコ壺に潜っていろ。戦わんでいい」 「戦車が来たら、タコ壺潰れませんか」 「明日になればわかるさ。射撃の足場を残して二、三十センチ深く掘れといったのは、それだ。二、三十センチで助かるかどうかの賭けだ。俺だってやったことはないんだからな」  初年兵たちはタコ壺に散った。霧雨は降りつづいている。まっ暗である。動物に還元した男の眼が、かろうじて地表の事象を捉える。 「夜襲はない。みんな寝ろ。俺が起きている」  杉田が銃身を拭きながら云った。そう、夜襲はない。敵にその必要は全くない。  戦史によれば、第五軍(司令官・清水規矩中将)の十日夜の判断では、東部国境を突破したソ連軍主力は一路牡丹江をめざしており、その最も強い圧力を受けているのは、綏芬河——牡丹江の線上に展開した第百二十四師団で、その北方にいる第百二十六師団、さらに北方にある第百三十五師団の順に圧力が軽くなっていた。放置すれば百二十四師団はひとたまりもなく抜かれ、日本人九万が居留する東満の要衝牡丹江にソ連軍が殺到する。第五軍司令官は一個師当り正面百キロにもわたる広域防備の方針を一擲して、第百二十六師団と百三十五師団を牡丹江の近くの掖河に転進させた。両師団の掖河到着は十二日の夜であった。これによって第百二十四師団の後方には二個師団が入り、牡丹江は小康を得たが、第百二十四師団各部隊が蒙ったソ連軍機甲師団の鉄槌が緩和されることにはならなかった。師団全線にわたって粉砕され、散り散りになったのである。  八月十二日の夜は更けた。小糠雨は依然として降っていた。陣地は眠っていた。規則通りの陣中勤務も行なわれなかった。おそらく、伊林地区の山間にタコ壺を堀った部隊は、どこでもそうであったろう。  敵は、十三日早朝からの攻撃前進に備えて鳴りをひそめている。  暗い。何も見えない。何も聞えない。明日この山が叫喚するなどとは思えない。  杉田は手入れの終った銃でタコ壺のなかから一挙動据銃を何回かやった。肩つけ、頬つけ、片目を閉じる、息をつめる、引鉄の第一段を圧する、照準線を概ね目標の中央下際に指向する。闇のなかだから、六番目のは形だけにすぎないが、明日は、おそらく、照準線上に敵影を捉えることだけが、杉田が生きている確実な証拠となるであろう。  杉田は銃に実包を装填して、安全子をかけた。もう何もすることがない。否応なく死を考えるだけである。  明日は死ぬ。確定的で、ごまかしようがない。自分に気休めの暗示をかけるすべがない。二十九歳。したいことがいっぱいあった。やれば何でもできそうな気がする。まだ、何一つやり遂げたことはなかった。ようやく人生をはじめたばかりで、もう終点に来てしまった。それも、厭なことを厭と云えなかったばかりにである。勇気がなかった。抵抗すべきときに、いいかげんで事を済ませたせいである。自分は決して死ぬことなく、幾百千万の男たちを死地に投じて、それを国家のためと云い繕ってきた者すべてに対して、徹底的に抵抗する勇気がなかったせいである。  何が怖かったのか。結局こうなるのなら、何も怖れる必要はなかったのである。明日は死ぬ。あらん限りの恐怖と後悔を味わったあげくに、死ぬであろう。それなら、投獄も何も怖れる理由はなかったのである。  戦場の消耗品でしかない男にとって、国家とは何であるか。天皇とは、その名において死地に駆り出された男にとって、何であるか。その名の下に死ぬ理由を、誰も納得してはいない。誰も拒否する勇気がなかったから、明日は墓穴となるタコ壺で、いま濡れそぼちながら最後の眠りを眠っているにすぎない。  この陣地にいる何百人か何千人かの男たちが、明日戦車と砲弾に肉体を激突させて死ぬのは、日本がこの十四年間他国に戦争を仕掛け、他国の土を軍靴で踏み荒し、他国人の生命と生活を大量に奪った結果なのである。そもそもの源はここ満洲であった。武力で掠め取り、差別と迫害の上に「王道楽土」の虚構を設けたときから、今日の運命は避けがたいものとなっていたといえる。  あいにく、杉田は満洲生れの満洲育ち、謂わば、日本による満洲侵略の申し子である。生れは、しかし、彼の責任ではない。責任は、彼の生活の選択にあった。満洲を事実上の故郷とすることを理由の半分として、他の半分は、昭和十四、五年の時点では、満洲の方が日本内地より徴兵を免がれる可能性が高かったから、彼は生活の場を満洲に選択したのだ。満洲に住んだ日本人は、その人物がどれほど善人だったとしても、民族平等の原則を犯して優越の立場で生活していたのだし、どれだけ戦争に反対する心があったとしても、戦争の源そのもので他民族の上前をはねる生活を享受していたのである。  そう思いはじめると、杉田はまるで意気地がなくなってしまった。要するに、彼は、明日の死を迎えた土壇場で何かをしたくても、今日に至るまでの間、毎日毎日の小さな勇気の積み重ねを怠っていたのだ。いつもそうであった。決定的な行為をするには、常に準備が不足していたのである。だから、彼は、初年兵を引き連れて戦線を脱出することはもとより、彼個人が夜陰に乗じて戦線から脱走することさえも、確信をもって行ない得ないのである。  大それたことは諦めなければならなかった。彼は感じたり考えたりする能力は幾らかあったが、それが命ずるところを実行する能力は少しもなかった。権力が企図することを予感して、びくびくしながら生きていた。そして最後の夜を迎えたのだ。いまは、もう、一人の平凡な男の煩悩があるばかりである。  杉田は猛烈に人生を恋した。男と女のいる人生の変化無限の風景に灼けつくような未練を覚えた。  もうどうすることもできない。ここにいる男たちの生命は、朝が来るまで、時間単位でしか残っていない。後悔してもはじまらない。悶えても、誰も助けてはくれない。あとは待つだけ。死が来るのを待つだけ。それが来たとき、何を考えるであろうか。  おぼろな夜明けがはじまった。八月十三日である。雨は上っていた。  初年兵が一人タコ壺から顔を出した。  杉田は声をかけた。 「眠れたか」 「眠りました」 「みんなが起きるまで代ってくれ。一時間ほど眠る」  杉田はタコ壺の底に尻を落した。一晩じゅう発展のない思考の循環を行なって、頭に濁った空白状態があった。  眠ったらしい。  起こされた。 「上等兵殿、飯が上りました」  初年兵たちは週番上等兵抜きで、関東軍最後の飯上げをして来た。  乳色の朝が山肌に漂っていた。  飯は米と精白高粱とが半々であった。沢庵と味噌汁。たぶん、これが最後の食事である。最後なら、食っても食わないでも同じようなものだが、男たちはガツガツと食った。  杉田は陣地斜面背後の林間にある幕舎へ戻って襦袢袴下を着替えた。これは、つまり、死ぬことを承認した印である。戦争に抵抗しなかった自分のだらしなさの結果だから、仕方がない。これが、一晩じゅう懊悩したあげくの結論であった。  杉田は最後にもう一度老父母を思い出して、胸を締めつけられた。老父母が可哀相であった。数十年の人生でなんら報いられることもなく、たった一つの頼りとして残った息子を、彼らはもう直ぐ失うのである。  父親は息子が治安維持法に触れたときその不忠不孝を激怒した。その父親に、息子は、無人の幕舎で別れを告げた。父親は、おそらく、息子が誰のために死ななければならなかったかを、悟るであろう。  雷鳴に似た砲声が轟いた。最後の時を報ずる号音である。  杉田は幕舎を出て、陣地へ向って緩歩した。足もとに石竹と桔梗が無数に咲いていた。  杉田は石竹を一本ちぎり取って、嗅いでみた。何の匂いもしなかった。小さな花は、しかし、その素朴な美しさの最盛期にあった。  陣地に戻ると、緊張がみなぎっていた。初年兵の一人がはるか前方の稜線を指さした。  稜線上、視野いっぱいの広さに、夥しい黒点が等間隔に展開して現われていた。  昨日偵察したときよりも数が増えている。  さあ、いよいよ最期である。 「小銃分隊、位置につけ」  杉田は静かに号令した。  お前たち、自分が生きるだけのために戦え。国家も天皇も俺たちに関係ない。せめて、お前たちの女房子供、親姉妹が退避する時間を稼ぐために戦え。  杉田は声には出さなかった。  初年兵たちはタコ壺に散った。  杉田は前方を見つめていた。稜線上の黒点は、徐々に、徐々に、下りつつあった。  砲戦は兵たちの頭越しに交されていた。空を鳴らして飛んでくるのは、ずっと後方へ行く弾丸である。頭をひっこめる必要はない。空を鞭で裂くようにして来るのは、それを聞いた男の近くへ落ちたがっているのである。タコ壺の底へ潜るがいい。  戦車三、四十輛が横隊に展開して、前方の斜面を下りて来た。守備の数個中隊のタコ壺火線全体に圧力を加えるために広く展開しているにちがいないのだが、待っている側からみると、自分の中隊、自分の小隊の正面だけに展開しているように見えてならない。  前日の夕方偵察戦車を撃退した後方からの砲撃を、歩兵たちが祈るように待っていると、砲撃がはじまったが、奇妙なことに、稜線ばかり射っている。戦車群は、もう、前方斜面の中腹まで下りているのである。弾着が修正されない。おそらく、前日夕刻の偵察で、こちらの火砲の所在を探知され、観測班を潰されたか、前日の砲そのものが潰されて、別のところから盲射をしているか、いずれかであったろう。  勝敗は戦闘以前から決っていたようなものだが、攻撃して来るソ連軍戦車部隊にとっては、日本軍の乏しい火砲が何もいない稜線上に無駄な土煙を上げ、それもやがて熄《や》んでしまったときに、戦闘は峠を越したのである。  防禦の日本軍にとっては、事は反対であった。敵の戦車群を邀撃する貧弱な放列が無駄弾を放ち、いつの間にか沈黙してしまってから、地獄の饗宴がはじまった。  戦車群が下り斜面の半ばを過ぎたころになって、一輛につき十五、六人の歩兵が戦車の前に出て来た。どれも自動小銃を持っている。日本軍の肉薄攻撃に備えてのことである。  射程はまだ遠い。擲弾筒が散発的に射ちはじめ、機関銃も鳴りだした。すると、歩兵は直ぐに戦車の背後に隠れる。日本軍陣地には対戦車火器がないから、戦車群はゆっくりと歩兵の歩度に合せて下りて来る。歩兵が出て来て、両斜面の境を流れている小川のほとりを自動小銃で掃射する。これでは、小川の付近に潜伏している肉攻班は動きがとれない。よしんば隙を発見して肉薄し得たとしても、破甲爆雷(吸着爆雷)ぐらいでは重戦車を擱坐させることはできなかったのだ。  小銃手たちは肉攻班撤退の援護をしたくて、射ちだした。有効射程外だから杉田は制めようとしたが制まらなかった。迫ってくる敵を前にして、射たずにいるのは不安なのである。その心理が肉攻班援護を口実としたようであった。  肉攻に出た者は誰も引揚げて来なかった。杉田がタコ壺から見ていた限りでは、戦車に肉薄した者も一人も認められなかった。行動する前に自動小銃の掃射の餌食になったとしか考えられない。  戦車群は斜面を下りきって、停止した。どこから攻めようかと思案しているようである。擲弾筒では歯が立たないことを知った中隊長はどう考えていたであろうか。  戦況が急変した。杉田たちの左翼に山道を隔てて布陣していた中隊は、杉田たちの陣地のような緩斜面でなくて、岩山が敵の方へ突出していた。そこからの機関銃の射撃はかなり旺盛であった。ソ連軍歩兵の散開前進には邪魔であるにちがいなかった。杉田の分隊とは道路を隔てて、隣合う関係位置にある。杉田が見ていると、戦車群が一斉に砲身を岩山の方へ向けた。十名ほどの歩兵が猿のように敏捷に岩山にとりついて、登りはじめた。杉田は見ていて、その意図がわからなかった。機関銃も小銃もその小兵力が死角に入っていたか、あるいは問題にしなかったのか、戦車群の方を射っていた。  杉田の位置から、左前方四百五十はあったろう。杉田は、岩山をばらばらに登って行く勇敢な小人数のソ連兵が、日本軍の火点を発見して手榴弾の投擲距離に入るつもりか、と思った。隣中隊は岩山で自らを護っている代りに、接近する敵兵を地物のために見落しているにちがいない。  杉田は、自分の左に散っている五名に射撃を命じた。照尺を四百に立てる。弾は三発。中《あた》らなくてもいい。散兵の行動を妨害すればいい。  敵兵たちは地物の蔭に身を投げた。杉田は地物の一点から眼を放さなかった。射程は必中限界をはるかに越えているが、その地物から身を起こしたら、その男は死ぬであろう。  異変が起きたのはそのときであった。あちこちから白煙が上った。地物に伏せた歩兵たちが発煙筒を投げたのである。これは煙幕の展張ではなかった。目印のためのように、白く、細く、高く上っていた。煙が上るのと同時に、歩兵たちは石を転がすように岩山を駈け下りはじめた。杉田はその一人を照準線上に完全に捉えたが、射たなかった。幾条もの白煙が意味する方に気を惹かれたからである。  次の瞬間、轟音が山をゆるがした。戦車群が白煙のあたりをめがけて、一斉に火蓋を切った。岩山は土煙に蔽われ、たてつづけの炸裂音に叩きのめされた。  砲撃した戦車は二十輛ぐらいであったろう。圧倒的な射撃密度は、無論、杉田の経験にはなかったことだし、想像をも絶していた。杉田たちが砲撃に眼を奪われている間に、右翼正面に展開していた戦車群は行動を起こしていた。杉田たちの位置から見ると、ちょうど敵の両翼が陣地を抱えこもうとするかのように彎曲して張り出た形になった。  砲撃が熄み、土煙がおさまると、蟻のように歩兵部隊が岩山を登りはじめていた。左翼陣地からは、もはや、一発の銃声も聞えない。 「……全滅したんでしょうか」  隣のタコ壺から、顔が土色になった初年兵がとても信じられないというふうに、声をかけてきた。 「らしいな」  杉田は砲撃をやめた戦車群に眼を向けていた。 「今度はこっちの番だろう。あれがはじまったら、潜る一手だ」  この陣地は、たったいま壊滅した左翼の岩山陣地に較べると、地形的に脆いし、戦車の侵入が容易である。堅い左翼陣地を敵が先に叩いたのは、杉田たちのいる緩勾配の斜面を敵は突撃路として選び、側面からの攻撃を事前に制圧するためであったと考えられる。  杉田は声を張り上げた。 「小銃分隊よく聞け。砲撃がはじまったら、潜って我慢するほかはない。砲撃が終ったら、戦車と歩兵が登って来る。タコ壺から出てはいかん。無謀な突撃をするんじゃない。戦車が来ても逃げてはいかん。逃げたら、やられるぞ。戦車はかまうな。行かせろ。歩兵だけを射て」  叫び終るまで待っていてくれたかのように、眼下の戦車群が一斉に砲身をまわした。零距離で陣地の直撃を狙っている。  杉田はタコ壺の前の盛土にさした石竹の花を軽く撫でた。一平方米に二発来れば、誰も生きてはいられないのだ。一発でも充分かもしれない。一発どころか、砲弾の破片一つが人命を奪うに充分である。破片も要らないかもしれない。爆風だけで充分な場合がある。盛土にさした石竹の花が吹き飛ぶときには、それを見る杉田もいないわけである。  残念であった。生れて来るのが少し早すぎた。人類が国家を必要としなくなったときに生れたかった。  杉田は、愛国心は悪党の最後の隠れ蓑である、と云った人が誰であったか、砲撃がはじまる前に思い出したかった。この言葉には、多分に真実が含まれている。少くとも、まともな人間は、愛国心を証明するために戦争を必要とはしないのだ。また、こうも云えるであろう。愛国心ほど人を狂気に陥れる毒薬はない、と。  畜生! 愛国心を隠れ蓑にしやがった悪党めら!  杉田はそれ以上考える時間はなかった。遂に砲撃がはじまった。山が揺れて叫喚した。爆煙が陣地を蔽った。陣地は、鉄片と土砂と肉片が飛び交う地獄となった。杉田は、敵戦車が左翼の岩山陣地を砲撃したときにかなりの弾量を消費したはずだと胸算用していたが、そんなことは気休めにもならなかった。凄まじい火力である。土砂と爆煙で視界がきかず、下方の戦線が錯綜して判別しにくいが、先に右翼へ行動を起こした戦車群が斜面へ進出して、砲撃に加わっているらしかった。  杉田は、タコ壺から顔を出したりひっこめたりした。砲撃の間に敵の歩兵がじりじり接近して来るかもしれないのが、気になっていた。  歩兵はまだ動いていないようであった。杉田は、瞬間、強烈に耳を殴られたような打撃と音を感じ、したたかに土砂を浴びた。一瞬のことだが、意識の中断があった。それから、砲弾をくらったからには、どこかをやられているはずだと思った。痛みが全然ない。耳が鳴っているだけである。出血を調べてみたが、どこにもない。無傷である。石竹の花を見ると、それは跡形もなく吹っ飛んでいた。タコ壺のなかから背伸びをして腕をいっぱいに伸したところに、大きな穴が出来ていた。いままでそこは草が密生していたところであった。もう一メートル足らず弾着が伸びれば、タコ壺へ直撃弾である。この至近距離で、何故、爆風と土砂だけで済んだのか、不思議であった。二発目は、もう、いけない。奇蹟は二度はつづかない。  愛国者を装った悪党ども、お前たちがここで吹っ飛ばされる分には、俺は反対はせんのだ。  杉田はタコ壺の底に尻を下ろした。直撃弾に対しては手の施しようがないから、居直る以外にないのである。杉田はキャラメルを舐めた。その甘味が口のなかにひろがるのを感じている間は、それが生きている証拠でもあり、彼がまだ冷静さを失っていない証拠でもあった。  顔を出してみると、戦況は最悪の事態を迎えていた。陣地斜面の下辺に停止して射っていた戦車群が、発砲しながら斜面を登りはじめていた。歩兵が、横隊に展開した戦車の間をのそのそと来る。匍匐どころか、屈身さえもしていない。  杉田は台上の擲弾筒陣地の方を何回となくふり返った。戦車には効かなくても、いまこそ歩兵に擲弾筒弾を見舞ってほしいのである。  擲弾筒陣地は沈黙していた。あとでわかったことだが、このときには既に、中隊の右翼を粉砕してまわり込んだ戦車と歩兵部隊が、台上の擲弾筒陣地とそのそばにいた中隊長を吹き飛ばしてしまっていたのである。  杉田は、戦車の間を来る歩兵を狙撃して、一発ごとにタコ壺にひっこんだ。連続狙撃をすると所在を発見されて、砲弾を射ち込まれる怖れがあった。  突然、砲撃が熄んで、静かになった。顔を出すと、戦闘はもう終末段階に入っていた。前後左右、みな敵である。戦車群が加速して、陣地を一気に圧し潰していた。既に台上へ駈け抜けた戦車もある。歩兵は、さっきとはちがって、戦車群のずっと後方から登って来る。戦車が二輛、おくれたのか、そういう作戦なのか、番《つがい》になって、歩兵を誘導するかのように、岩を噛み砕いて登って来た。一輛は、ちょうど、杉田の正面であった。どうにも打つ手がない。手榴弾などは象に小石を投げるようなものである。  タコ壺のなかが暗くなった。タコ壺の片側がいびつに潰れかかった。熱気が体の上を通過した。穴のなかは明るくなった。  ほっとする暇はなかった。歩兵が登って来る。前後左右みな敵だから施す術はないが、真正面から歩兵に登って来られて、面と向うのではたまらない。  杉田は正面だけを正確に射った。掃射が来て、眼の前や横の草が千切れて飛んだ。我慢のしどころであった。敵は人数も多いし、一定時間の弾量もはるかに多いが、姿を暴露している。こちらは草で偽装した鉄帽が地面から出るぐらいのものである。  杉田は射った。射つ以外にこの困難な時間の過ごしようがなかった。  不思議なことが起こった。登って来る散兵は、杉田の正面で大きく左右に割れて、お義理のような屈身で前進をつづけた。杉田としては、彼のタコ壺へ敵兵が直進して来さえしなければいいのである。一息ついた。杉田の正面で敵が大きく割れて杉田を放置したまま前進したのは、勝負は既についているのだから、少しでも抵抗のあるところは避けて通っても大勢に影響がないということであろう。不思議でも何でもない。  敵は通過した。台上に留っているらしい。声がしていた。  杉田は、はじめのうち、自分が生きているように初年兵たちもタコ壺の底で生きているであろうと思っていた。戦闘間に、砲弾で確かにやられたと見えたのは、分隊でも二、三人のタコ壺しかなかったようであった。だから、まだ多勢生きていなければならぬはずであった。  杉田は小銃分隊に声をかけたが、誰も答えなかった。彼はまだ信じなかった。誰か生きているはずである。台上にいる敵の状況を確かめるためにタコ壺から半身を出すと、掃射が来た。敵が上にいて、下で生き残っている日本兵を気にしていることは確かである。  杉田は用心深く這い出して、分隊配置の区域を匍匐した。陣地は形が変っていた。やたらに凹凸が増えて、満足なタコ壺がほとんどなくなっていた。生きている分隊員は誰もいなかった。みんな死んだにしては、しかし、死体の員数が足りないようであった。台上から吹きつけるような掃射が来るので、仔細に点検できたわけではない。眠っているように土砂に半身を埋めている者、損傷がひどくて識別しがたい者、直撃弾で痕跡をとどめない者、さまざまであった。酸鼻をきわめているといってよかったが、まだ敵弾の下を這いまわっているせいであろう、杉田の感覚は事実を感光板のように写すだけであった。戦場風景が戦慄的な心象を形成したのは、もう少し時間が経ってからである。  匍匐しながら、五十メートルほど離れた指揮班のタコ壺の方を見ると、徳広伍長の眼ばかりになった小さな顔が見えた。  来い、と手招きしている。  そこまで、途中に草の浅いところがあって、匍匐でまごまごしていては上から銃弾で縫いつけられそうであった。杉田は呼吸をととのえて、全力疾走した。掃射が横走する男の脚を追い越して、草むらを横に薙ぎつけた。  七秒、それより長くはなかったであろうが、射手が目標を捉えていたとしたら射ち損じはないはずの長い時間であった。鉄帽に礫があたったような感じがあったのと、杉田が徳広のタコ壺のそばに体を投げたのと同時であった。幸い草が深かった。体を動かしさえしなければ、まず安全である。 「お前のとこ、残った兵力は」  と、徳広伍長が、かすれた声できいた。 「……私だけです。こっちは」 「やられたよ。擲弾筒の山下が負傷してボサの蔭で寝ている」 「他には」 「お前の後ろに中峰兵長がいるはずだ」 「それだけ」 「わからん」 「小隊長は」 「早くに自決したよ。右翼から戦車が来たときに」 「自決」  杉田は小隊長のタコ壺の方を見た。 「兵隊は勝手にやれというわけか」  最後は突撃だからね、と徳広伍長が云ったのは、このときである。  杉田は草むらに伏せたままで、タコ壺のなかの徳広と言葉を交した。  断続的な射撃がはじまった。伏せている頭の上で草が千切れて飛んだ。杉田たちのいるところだけが狙われたわけではなかったが、杉田たちにはそう感じられた。  中峰兵長が杉田の足の方から云った。 「危い。早く入れ」  これも、あとから考えれば、杉田の身を案じてくれたわけではない。中峰は仲間がほしかったのだ。  杉田はどちらのタコ壺に入ろうかと迷った。徳広伍長のタコ壺は伝令一名を余分に入れるだけの広さがあったが、杉田が中峰兵長の方を選んだのは、徳広が下士官の権威で再び最後の突撃を強制したりする怖れがないとは限らなかったからである。この撰択は、しかし、結果的に、生きている男を一人死なせることになったといえるかもしれない。  中峰兵長のタコ壺は、古兵のやくざな仕事で狭かった。そこへ体の大きな杉田が入ったから、杉田は穴の底に跼んでいる中峰の上に半分乗るような恰好になった。  中峰は、前夜、杉田に、ここじゃ備えているから大丈夫だよな、と同意を求めた五年兵である。国境みたいに負けることはないよな、と。中峰はそのころから精神の平衡を失いかけていたらしいのだが、誰もかまってやる暇はなかった。 「戦闘はまだ終らんか」  中峰は杉田の下からそう云った。 「敗けたんか」 「惨敗だね。戦闘なんてもんじゃない」 「……援軍が来てくれんかな」 「そんなものは来ないよ。俺たちは捨駒なんだ。いまごろ援軍が来たって、死んだ奴が生き返るか」  そのうちに、生き残っている者にとっては戦慄的な、中峰兵長にとっては致命的な、恐怖の時間がはじまったのである。  台上から、敵兵が幾組にも分れて、自動小銃を点射しながら、斜面を下りて来はじめた。これは、負傷した仲間を救い出し、戦友の死体を収容するための戦場整理であったにちがいないのだが、生き残った者にとっては、自分たちを探しに来たとしか思えなかった。しかも、あちこちで自動小銃を点射しているのは、ひそんでいる日本兵を降伏させるためではなくて、射殺するためとしか思えなかった。  そのとき大声をあげて両手を上げて出たら、どうであったか? これには、解答がない。そのとき、そこにいて、生きていた少数の日本人はそうしなかったからである。  敵兵は下りて来た。話し声がする。足音がする。点射が間近に聞える。来る。もうそこまで来ている。足音がとまった。みつかったのかもしれない。  杉田は中峰に小声で云った。 「手榴弾はあるかね」 「ない……」  杉田は一発を中峰に渡し、自分は安全栓を抜いて、鉄帽にあてがった。  いよいよ来る。忍び足で来るようである。  冷たい汗がすーっと糸を曳くような恐怖があった。戦闘間には覚えなかったことである。生き残ったとなって、俄かに怖ろしくなった。助かりたい。だが、どうすることもできない。発見されるか、されないか、その一点にかかっている。  中峰が、穴の底にまるくなって、 「神様、助けてくれよ」  と呟いた。  杉田は全身を耳にした。来る。もう二秒か、三秒か。  このときの圧縮された恐怖の時間には矛盾がぎっしり詰まっていた。  戦闘は束の間に勝敗が決したのだ。生き残った数名は、もはや戦力ではあり得ない。戦う必要はない。最後の突撃など愚の骨頂である。けれども、捕虜にはなりたくない。捕虜になることが不名誉だからではない。捕虜は一切の不自由を意味するからである。それなら、穴にひそんでいて、敵が去ってから、戦場を離脱したあとに、どんな自由があるか。何もない。最も堅固であったはずの東部国境地帯がこんなふうだから、おそらく、関東軍は壊滅したであろう。したがって、おそらく、何処へ行っても日本人に自由はないであろう。それでも、捕虜にならずに自主的に行動したい。  捕虜になることを避けたがるもう一つの理由は、投降する瞬間の安全の保証がないことである。彼我の関係は、たったいままで殺戮を交した敵対関係である。まとまった部隊で白旗を掲げるのなら別のこと、二名か三名の敗残兵が、点射しながら下りて来る戦勝者の前に出たとき、自動小銃が火を吹かないという保証があるか。自分が相手なら殺しはしないが、相手はドイツ人と日本人を何よりも憎んでいるかもしれないのである。殺すつもりで探している男に発見されたら、殺し合うしかないではないか。戦闘は終ったのだ。自分は殺したくはない。殺されるのも厭である。発見しないでほしい。だが、発見されたら? もし殺しに来たら? そう、手榴弾を発火させて跳び出すまでである。彼我もろともに爆死する。個人的には少しも憎み合っていない者同士が、もし生きのびたら互いによき友となるかもしれない者同士が、一発の手榴弾で鮮血にまみれた肉片となる。だから、来ないでほしい。発見しないでほしい。  俺に銃口を向けるな。杉田は手榴弾を握り締めて、息をとめていた。手榴弾の撃針を鉄帽に打ちつけて跳び出す。それで終りである。先に射たれても、それをするぐらいの体力と気力はある。だから、来ないでくれ。俺は天皇の兵隊ではない。俺は兵役を拒否できなかった意気地なしだ。だが、俺を裁くのはお前ではない。俺自身だ。——  草を踏みくだく音がする。息づかいさえ聞えるような気がする。  突然、上の方で口笛が聞え、甲高い声がした。それに答えて、杉田たちの直ぐそばから何やら云った。それにつづいて、ガサガサと足音が引き返して行った。三人はいたらしい。  杉田は長い吐息をした。息は出て行ったきり帰って来ないようであった。べっとりと脂汗をかいていた。  中峰兵長が、 「行ったか、もう行ってしまったか」  と、穴の底で、顔も上げずにボソボソと云った。 「行ったが、まだ安全とは云えない」  杉田は手榴弾に安全栓をさし直した。  中峰にとって不運なことは、そのあとに起こった。  徳広伍長が、せっかく引揚げて行った台上の敵兵に対して発砲したのである。悲鳴が台上から聞えた。声の元気のよさから判断すると、擦過傷ぐらいであったろう。台上からは、返礼として、掃射と数発の手榴弾が飛んで来た。徳広はまだ射とうとしている。さっきしたたかに味わわされた恐怖の報復のつもりであったかもしれない。  杉田は中峰のタコ壺から這い出して、徳広の穴へ辷り込んだ。 「やめるんだ」  これは、もう、兵隊が下士官に云う言葉ではなかった。軍隊組織は、この瞬間に、七分通り杉田の意識のなかで崩壊していた。 「せっかく助かったのに死にたいんなら、一人で上へ向って突撃しなさい」  徳広が無礼な上等兵に対して兵舎にいるときのように振舞えなかったのは、何よりも、やはり、ようやく助かったのに死にたくはなかったのと、この上等兵が陣地作業に出て来る直前に国境の兵舎で古兵たちを相手に危うく刃傷沙汰に及ぼうとしたことを、思い出したのかもしれなかった。 「暗くなるまでじっとしていよう。生存者を集めて脱出する。私は満洲生れの満洲育ちだ。地図が大体頭のなかに入っている。最寄りの部隊に合流するまで、私が指揮をとる。いいね」  杉田は多少のためらいを圧し殺して、一気に云った。徳広の指揮に従ったら、とても命をながらえることはできそうになかった。  この指揮権の交替には、関東軍は総崩れになったにちがいないという判断が前提としてあった。それがなければ、伍長が上等兵に従うことなど、いくら関東軍がカカシの兵団になっていたとしても、あり得ないことである。  関特演以来の徳広は、全軍の崩壊を想像させるに足るその日の壊滅で、意気沮喪していた。一方、杉田は、天皇とともに絶対視されていた軍組織そのものの崩壊を予想して、自我の解放感を早くも抱きはじめていたのである。  中峰兵長の悲劇は、このやりとりがあった直後に起きた。  曇った空の裏側で太陽がかなり西へ低く傾いていたことを、杉田は憶えている。突然、間近で、嘔吐する声が聞えた。中峰の声であった。杉田と徳広は顔を見合せた。その声は、想像を逞しくすれば、背後から忍び寄った敵に首を絞められたか、刺されたかしたようにも聞えた。あり得ないことではない。台上の敵は斜面の草むらの何処かに生き残りの日本兵がいることを知っているのだ。引揚げたとみせかけて、にじり寄って来たのかもしれない。  そうではなかった。吐くような声がやむと、中峰がタコ壺から出て、全身を暴露した。帯剣を片手に握って、ブツブツ云っている。 「やい露助、来てみろてんだ。叩き斬ってやる」  気がふれたのだ。前夜から敗北の予想に怯えて、あり得ない勝利の幻影にしがみつこうとしていた男、戦場整理の恐怖の瞬間には神に助けを祈っていた男、彼は、杉田が徳広の発砲をとめるためにタコ壺を出てからの、孤独の恐怖に耐えられなくなったにちがいない。はじめから杉田が中峰のタコ壺に入ったりしなければ、こうはならなかったかもしれなかった。  杉田は、この関特演の五年兵が、自分たちに較べて戦争最後の年の初年兵が素質的に如何に劣っているかという理由でビンタをくらわすような古兵の一人であったことを、死屍累々とした戦場でさえ、忘れることはできなかった。  中峰は引き吊って据ってしまったような眼で徳広と杉田を発見して、敵兵と思い込んだらしい。 「野郎!」と呻いて、帯剣を振りかざしながら、酔っぱらいが躍りかかるような恰好で襲って来た。銃を置き忘れ、相手が銃を持っていることも忘れている。 「どうする」  徳広が云ったとき、杉田は、タコ壺の上から中峰が振り下ろした帯剣を、下から銃身で受けて、床尾で突き倒していた。 「押えてくれ。あんたの同年兵だろ」 「できんよ。奴は狂ってるんだ」  台上から、草を払うような射撃があって、手榴弾が二発ゆるい抛物線を描いて落ちて来た。爆発の瞬間を、当然、杉田と徳広は見ていない。顔を上げたとき、杉田も徳広も血が凍る思いがした。立ち上りかけている中峰が手榴弾を鉄帽に打ちつけようとしていたのである。いまの手榴弾の爆発を杉田たちの仕業と思ったのかもしれない。中峰が握っている手榴弾は、さっき、タコ壺のなかで杉田が与えたのだ。  杉田は跳び出して、中峰の手から手榴弾を叩き落し、中峰を地面に押えつけようとした。狂っていても『関特演』の肉体は確かに強壮であった。二人は草むらを転げまわった。杉田は台上からの射撃音を聞いた。早く片づける必要も感じた。中峰の腕を背なかに捻じ上げて俯せに組み敷くことを考えたが、格闘はそう都合よくは運ばなかった。杉田の手が中峰の喉輪にかかったのは、たぶん、そのときである。  杉田はタコ壺に戻った。徳広はききたそうな顔をしながら、何もきかなかった。杉田は煙草に火をつけて、火の部分を手で囲いながら喫った。宵闇がそろそろ漂いはじめていた。 「もう二、三十分待って、生き残りを集めて来る」  杉田が云った。 「当分の間、夜しか歩けない。敵が行ったばかりのあとを行くのは、危険だろう。今夜一晩、敵の来た方へ歩いて、後続を確かめてから反転しよう」  暗くなりかけた。杉田はタコ壺を出て、中隊陣地の跡を生存者を求めて歩いた。杉田の行動以前に脱出した者があったかどうかは、わからない。もしなかったとすれば、杉田が探し出した生存者は、擲弾筒班の村井二等兵と、前額部骨膜に達する擦過傷を負って半ば昏睡状態にあったこれも擲弾筒班の山下二等兵、それに徳広伍長、杉田自身の四名である。その朝、陣地配備についた中隊は百五十八名であった。  杉田が教えた初年兵はみんな死んだ。杉田自身は殺人者となって残った。砲声はやみ、硝煙の臭いも消え、陣地斜面には死体が散乱し、あたりは暗い。何処かで、ギ、ギ、と鳥が啼いていた。戦闘の終った山へ塒を探しに戻ったのかもしれない。  杉田は陣地の跡を歩いては佇み、また歩いては佇んだ。今日一日あったことが信じられない気がした。今朝まで多勢いた男が、みんな死体になってしまった。勝敗の決が必要だったとしても、そんなに死ぬ必要はなかったのだ。敵が殺したのではない。無駄な抗戦を無駄と考えなかった戦争指導が殺したのだ。みんな、何のために戦うのか、わからずじまいで死んだであろう。戦った者には、自分が戦わねばならなかった理由を答えられる者はいないであろう。みんなは、戦って死んだが、何の足しにもならなかった。生きる者のための時間の稼ぎにもならなかった。彼らは、誰一人として天皇のためになど戦いはしなかった。そんな魅力は天皇の軍隊にありはしなかった。ほとんどが、己れの弱さ故に戦場に立つことを拒否できなかったに過ぎない。  それでは、しかし、とても戦いきれないから、彼らが戦うことが、彼らの愛する者の生と平安の代価を支払うことになるのだと、強いて理由づけたに過ぎない。  戦線の兵たちは知らなかったが、七月二十六日ポツダム宣言が発せられ、日本政府がこれを「黙殺」すると新聞発表したことが、八月六日と九日の原爆投下、同じ九日のソ連軍進攻に最後的な口実を与えたことは否定できない。  権力機関は国民の生命など大して問題ではなかった。国民は人的資源であるに過ぎなかった。物動計画の一項目を構成する程度のものでしかなかった。権力機関を構成する人びとは、国体護持という名目の下に、天皇を頂点として、彼ら自身と、彼らを利益代表とする受益階層を含めた体系の護持だけが関心事であった。  実力もないくせに面子にこだわる軍人の虚勢も、忠君愛国を隠れ蓑とする軍国主義者の頑冥固陋も、悉くそこから発している。  杉田が徳広のタコ壺に戻ると、村井二等兵が心細そうにきいた。 「これからどうなるんでありますか」  杉田はすっかり不機嫌になっていた。 「お前ちょっと新京まで行って、山田乙三にきいてくるか」  杉田は肚のなかでこう云っていた。  ——今日で俺たちは国家に対する義務の前払いは済んだんだ。これからは無際限の自由を支払ってもらおうじゃないか。今日限り、軍人勅諭も戦陣訓も返納する——  杉田は、村井の顔を見ながら、実は徳広伍長に聞かせるつもりで云った。 「敵はもう牡丹江に入っているだろう。全満全線で同じようなことになっているだろう。俺たちは敵の後ろで生き残った。必要なのは戦闘間兵一般の心得ではなくて、あれには書いてなかった敗残兵の心得だ。どうやって生きのびるかだ。一つ、決して諦めない。一つ、細心の注意。不注意は絶対に許されない。一つ、危機は極力回避する。回避できなければ断固として突破する。一つ、和を保つ。俺の指揮に不満なら、直ちに去ってくれ。不満のままの共同動作は絶対にいけない。いいね」  負傷している山下二等兵は半分眠りながら聞いていた。村井二等兵はいくらか気持に張りが出たようであった。徳広伍長はだんだん強くなってくる杉田に指揮権を完全に渡すほかはないと観念したようであった。  杉田は村井を連れて陣地をもう一まわりして、食糧を集めた。乾麺包三袋、糖衣落花生若干、それに杉田が自決した小隊長のところから抜き取った羊羹一本、これで全部である。  四人は、星屑もない暗夜に幽鬼の不気味な呟きが聞えそうな戦場から、離脱しはじめた。 八月十三日のことである。 [#改ページ]     18  実戦談の類を調べてみると、第百二十四師団の後方に展開している第百三十五師団の部隊には、敵の重戦車を何十輛も擱坐炎上させたという勇ましい話がある。もし事実なら、前述のように手も足も出せずに壊滅した百二十四師団の各部隊も、後方の友軍に有効な応戦準備をさせるだけの働きはあったということになるのかもしれない。また、もし事実なら、平原に横隊に戦車を展開して突進すれば苦もなく蹂躙できるものを、重い急造爆雷を背負った肉攻手に次から次へと何十輛も爆破させられるように、わざわざ一列縦隊で日本軍のなかを突進するような拙劣な指揮をとったソ連軍戦車部隊があったことにもなる。  壊滅した日本軍部隊の生き残りは、はじめの数日間は、概ね、ソ連軍の進攻路につかず離れず後退して、友軍との合流なり情報の入手なりを図ろうとしたから、何十輛もの敵戦車の残骸を望見すれば、勇気づけられもしたであろうし、後方にある友軍の防戦態勢に信頼を寄せもしたであろう。だが、敗残兵の体験からは、その種の感想はついぞ聞かない。  伊林・穆稜・掖河の地区で死闘が行なわれた十三日、総司令官以下の関東軍首脳部が長期抗戦という名目で何の準備もできていない通化へ後退してしまった新京では、満洲国軍が反乱を起こした。前夜おそく皇帝溥儀の一行が通化へ避難したばかりの禁衛隊(日本流にいえば近衛師団)と通信部隊である。  関東軍司令部が撤退したり、皇帝が避難したりすれば、事はもはや終ったと考えるのは当然である。もっとも、反乱といったところで、新京の場合は、満軍のなかにいる日系将校を殺したり、日本人諸機関へ攻撃をかけるというほどのことではなかった。ソ連軍の来攻に備えて陣地配備を命じたところ、その命令を拒否したのである。不穏の報告を受けて戦車で視察に行った司令部の二将校は、戦車から出たところを射殺されたが、これは、戦車で行ったりしたので、満軍側は武力鎮圧に来たと思って射撃を加えたものと考えられる。  新京では満軍の反乱が急激に重大化されなかったのは、新京にはまだ第百四十八師団が駐屯していたのと、翌十四日午後には、傍目には無方針の暴露としか見えないながらも、総司令官以下が新京に戻って中枢機能がやや恢復したからである。  他の地区での満軍反乱は、新京でのように生ぬるくはなかった。ソ連軍進入に際しての混乱に乗じて各地で背反し、所属の日系軍官が殺された。水豊ダム、公主嶺、※[#「さんずい+兆」、unicode6d2e]南、鏡泊湖、富錦、佳木斯、通遼、興安、勃利、依蘭等では、満軍を対ソ防衛戦に出動させようとしたり、あるいは逃亡を制止しようとしたりした日系軍官が犠牲になっている。  満洲はもともと中国領土の一部であり、そこに『満洲国』を捏造した日本が謳った「王道楽土」も「五族協和」も、日本人中心主義の虚偽に満ちた作文に過ぎなかったから、日本の支配力が崩れたとき、さまざまな形で背反が発生するのは当然であった。日系軍官のなかにも、無論、真剣に日満の融和を念願し、そのために辛労を惜しまなかった者もいる。少数の善人の存在は、しかし、国家の大罪を救い得なかったし、大罪の報いに殉じなければならなかった者もいるのである。  同じことが、満軍に限らず、一般住民の対日背反についてもいえる。日本人は、それを、もっぱら、暴行掠奪暴動と称して、一方的な被害者であるかのように云い立てるのに忙しかったが、国家的な規模で先住民の権利を奪い、熟地を奪い、労働を奪い、生命を大量に奪ったのが日本であったことについての反省は、甚だしくおくれたのである。これらの所業を実力をもって保障したのが、関東軍であった。  その関東軍は、いまや随所で潰走し、地上から消えようとしている。  関東軍総司令部は、八月十四日の午後、山田軍司令官以下通化から新京へ舞い戻った。翌十五日正午の「重大放送」を聞くためである。ラジオ放送ぐらい通化にいても聞けるわけだが(事実、第二課長をはじめ数十名の将校はこの放送を通化で聞いた)、それに伴う万般の処置が山の奥では都合が悪いということであろう。要するに、何の設備もできていない通化への移転は早とちりだったのである。  十五日朝には、「たとい大命に反するとも外征三軍結束して戦争を遂行すべし」という電報が、南方総軍と支那総軍から入っていたというから、正午の重大放送の内容は、三軍の参謀たちは予知し得ていたとみることができよう。電報は総司令官の名において打たれた正式のものではないが、問題は、たとい大命に反するともという軍人の思考の病巣にある。天皇の軍隊を、天皇の命令に反してでも戦争継続に使うというのである。軍人たちは、それを、忠誠のあまりに、と弁解するであろう。こんな独善的な話はない。逆上した短慮な軍人たちは、もともと彼らが捏造した虚構の情熱に浮かされていただけである。天皇など彼らにとって飾り物に過ぎなかった。  十五日正午、総司令部の全幕僚は総司令官室に集合して「玉音放送」を聞いた。みんな泣いたという。皇国史観そのものが激越な虚構であり感傷であるから、その終焉に滂沱たる涙がそそがれるのは、それなりに自然であった。けれども、戦争の終結を告げるその放送が、もし数日前に聞かれたら、山野の陣地に展開して絶望的な抗戦を強いられた兵たちは決して泣かなかったであろう。彼らにとって、死は、決して虚構でも感傷でもなかったからである。またもし、首相・鈴木貫太郎がポツダム宣言「黙殺」の新聞発表をした時点で戦争終結の「玉音」が聞かれたら、沖縄の犠牲を最後として、広島でも長崎でもソ満国境でも夥しい死が救われたであろう。  関東軍に限らず、各軍そうであったらしいが、戦争終結の「玉音」を聞いて泣いた関東軍総司令部の幕僚たちは、泣くほど激昂したからでもあろうが、戦争終結の「聖断」は政治上の決断であって、未だ統帥命令ではない、停戦命令が来ない間は和戦の選択は現地軍の権限内にあるという判断に立っていた。統帥大権者である天皇が戦争終結の放送をしても、大本営命令の体をなしていないからという形式論で、彼らが「神聖不可侵」と信じていたはずの天皇を棚上げしてしまうにひとしいのである。敗け戦をやってきた負け惜しみがすべてに優先している。  大本営が各総司令官に対して即時戦闘行動停止の命令を発したのは、八月十六日午後四時であった。  関東軍総司令部では、停戦命令が来た直後に、最後の幕僚会議をひらいた。関東軍は如何にすべきかを決定する会議である。如何にすべきかもないものである。天皇の意志は既に放送されたし、大本営の停戦命令も届いているのだ。それでも、興奮激昂している参謀たちに云いたいだけのことは云わせなければおさまらない空気であった。  意見は三つに分れた。第一は徹底抗戦。第二は抗戦しつつ有利な状況において停戦する。第三は即時停戦。総員十八名からなる会議は、第一案が圧倒的多数、第二案がそれに次ぎ、第三案は沈黙によって支持されていた。軍人のこういう会議では、悲憤慷慨する主戦論が大勢を占めるのが常である。そういう勇ましい参謀たちは、それぞれたとえば一挺の小銃、三十発の実包、二発の手榴弾をもって、殺到する重戦車と戦ってみるとよかった。兵隊たちはそうやって死んだのだから、そういう戦闘をやらせた参謀たちは実戦の模範を示してやればよかったであろう。  会議は最後にはさすがに常識に落ちついた。総参謀長・秦中将が承詔必謹を説いて、総司令官・山田大将がこれに同意を示すことで、軍としての方針が決定したのである。  翌十七日夕刻、東京から竹田宮が新京に飛来した。終戦に関する外征軍の混乱を防ぐために派 遣されたのである。(南方には陸軍少将・閑院宮春仁が、中国には陸軍大将・朝香宮鳩彦が特派された)。竹田宮が一カ月前まで宮田参謀として関東軍に在ったことは既述の通りである。彼は新京に一泊、翌十八日奉天に飛び、第三方面軍司令部で後宮大将に終戦を伝達、同日、朝鮮京城へ飛んだ。  これが一日おくれると、関東軍と満洲国終焉の物語に、もう一つの出来事が書き加えられることになったかもしれない。  十九日は満洲の主要都市にソ連軍の軍使一行が飛来した日である。奉天にも来た。満洲国皇帝溥儀は日本へ避難するつもりで、この日、通化から奉天へ飛んで来て、奉天から日本へ飛び立つ前に、ソ連側に捕えられた。もし竹田宮の奉天退去がもう一日おくれていたら、宮田参謀が竹田宮であることを知っていたソ連側が見逃しはしなかったはずである。  竹田宮はきわどいところを免れたが、皇帝溥儀の方は予定変更があったために、奉天へ来てしまったのである。  皇帝溥儀は、先に記した通り、八月十三日、関東軍総司令部の通化移転と前後して通化へ行き、通化には適当な住居がないため臨江へ移動、そこも思わしくなくて大栗子の鉱業所長宅を仮住居としていた。彼は日本への避難を希望したが、日本側の反応は冷淡であった。亡命して来ても安全は保障しかねるが、たっての希望なら受け容れるというのである。冷たくされても、傀儡皇帝には日本しか亡命するところはない。  はじめの予定では、大栗子から通化へ出て、通化から平壌へ小型機で飛び、平壌で乗り換えて東京へ飛ぶはずであった。  予定の変更は、十九日、通化の飛行場で、溥儀の出発直前に起きた。終戦の僅か五日前に第四課(政務担当)長として着任したばかりの宮本大佐が、通化飛行場に電話で、皇帝坐乗の小型機を平壌ではなく奉天へ飛ばすよう命じてきたのである。奉天から日本向けの大型機を出すということであったが、この変更の真相は判然しない。宮本大佐はソ連に抑留されるために着任したようなものだし、抑留地で死亡したからである。推測では、皇帝退位宣言を満洲国領内で行なわせたかったからであるという説があるが、それならザバイカル方面軍の到着が懸念されていた奉天をことさら選ぶ必要はなく、大栗子でも通化でも僻地ではあっても満洲国領内であり、「蒙塵」した「行在所《あんざいしよ》」なのである。退位宣言に不適当とはいえない。宮本大佐は日ソ開戦直後に着任し、混乱のさなかに用務はもっぱら課長代理以下の参謀たちに集中して、課長は有名無実の状態に置かれたらしいから、皇帝亡命という史劇の終焉だけは自分の手で幕を引きたかったのではないかとも想像されなくはない。  ともかく、溥儀は奉天飛行場で日本行きの飛行機を待っている間に、ソ連軍の軍使と護衛の部隊が飛行機で到着して、溥儀をはじめ目付役の吉岡中将も、第三方面軍司令官・後宮大将以下の将官ほとんどが身柄を拘束され、翌二十日にはソ連領へ連れて行かれた。  溥儀は、のちに、東京裁判に証人として出廷して、彼に関することは悉く日本の強制に依ることを「証言」した。彼が傀儡皇帝であったことは事実だが、労せずして皇帝の位につき満悦した時期があったことも事実であり、関東軍の「内面指導」に怒りを覚えたことがあったとしても、それは三千万民衆のためではなく、彼自身の面子のためであったことも事実であり、不快の想いを越えてなお、帝位に執着したことも事実である。  昭和二十年八月十八日、大栗子において行なわれた最後の満洲国高官会議による皇帝退位と満洲国解体の決定をもって、偽帝国『満洲国』は消滅した。昭和六年九月十八日の『満洲事変』陰謀から、十三年と十一カ月である。 [#改ページ]     19  関東軍の瓦解によって集中的な悲劇を現出したのは、所謂開拓団であった。  開拓団は、昭和二十年五月現在で、八百八十一団、約二十二万人、開拓青年義勇隊(十六歳から十九歳までの青少年による屯田兵的性格の農業移民団)が約十万一千人、合計約三十二万人である、と、大東亜省は発表している。終戦直前の応召があったり、送り込んだ日本側官庁と受け入れた満洲側機関との間に数字のひらきがかなりあったりする上に、異った資料源による数字によって事態を推察しなければならないので、正確を欠くが、そのこと自体が如何に混乱していたかを物語りもするであろう。不正確を怖れずに大体を記述すれば、終戦時の開拓移民二十七万(満洲国史編纂刊行会による)のうち、死亡は約七万八千五百、そのうち自決・戦死が約一万一千五百、残りは病没と消息不明である。在満日本人を百五十五万人(この数字も各種あって一定していない)とすれば、開拓移民はその一四%を占め、在満日本人死亡者(一九四九年まで)十七万四千人に対して開拓団死亡七万八千五百は、四五%に相当する。  開拓団の死亡率が高いのは、概ね僻地にあって日ソの開戦・終戦を報されなかったり、通報を受けるのがおそすぎたりしたこと、関東軍の大量動員のため混乱期にこそ必要な強壮な男子が著しく減少していて、避難その他の行動が適切に行なわれなかったこと、加えて僻遠の地が多いため避難の輸送手段が乏しかったこと、等々が理由として挙げられるが、何にもまして考えられなければならないのは、開拓地の没収同然の買上げを強行した日本の開拓政策を、被害者である中国人は決して許してはいなかったということであり、そういう相互関係に身を置いている開拓移民を、敗戦の関東軍は「作戦任務の要請」という名分の下に見捨てたということである。  開拓移民に限らない、見捨てられた人びとは戦火に追われて満洲内部へ彷徨い歩いた。彼らは、関東軍さえしっかりしていてくれたら、こんな惨めなことにはならなかった、と愚痴を云った。関東軍さえしっかりしていたら、この人びとは満洲各地で「優越民族」としての生活を享受していられたのだ。加害者の立場にあることの反省などは影をひそめていた。そんなものがあっては植民地支配はできない道理である。ある日、関東軍はなんら頼りにならぬことを突然暴露した。惨澹たる敗走がはじまった。人びとは、各地で、急転直下、被害者に転落した。個々人が善人であろうとなかろうと、八月九日未明までは加害者の側に位置していた人びとが、突如としてその立場から墜落して、悲劇的な被害者意識の虜になったのである。  何処を歩いても敵ばかりであった。杉田は、はじめの数日は夜だけ行動した。負傷した傷口に昇汞ガーゼをあてがうだけの手当しかできなかった山下は、弱音を吐かずによくついて歩いたが、杉田が前方を警戒して停止すると、山下は崩れるように寝転がって、眠ってしまうことが再々あった。杉田は、その都度、暗夜の道を手探りするようにして、この開拓青年義勇隊出身の、童顔のまだ消えない青年を連れに戻った。  山下も村井も擲弾筒班の初年兵で、杉田とは馴染が薄かったが、杉田は負傷している山下をどんなことがあっても助けようと心に決めていた。別に何の理由もない。助け了せるか否かが、杉田たちの逃避行が成功するか否かを占うように思えたし、困難と危険があることだけが予想できて、どのような困難と危険が待ちかまえているか全く予想できないときに、そのなかを突破するには、母親が子を庇うに似た強さを必要とすることを、杉田は意識していた。  杉田は暫くの間、危険を嗅ぎ分けるために神経を張りつめる傍ら、友軍と遭遇しないように気をつかわなければならなかった。組織的な部隊と出会えば、徳広伍長が黙ってはいないであろうからである。原隊を失った兵隊は最寄りの部隊に合流しなければならないことになっている。杉田には、もう、その気がなかったのだ。彼は真っ直ぐに生活へ戻って行く直線を思考のなかにひいていた。関東軍は崩壊したにちがいない。日本は敗けたにちがいない。そうは思うが、証拠がない。事実崩壊していても、最後の一兵まで抵抗を強調するような将校が指揮している部隊に遭遇したりしたら、事は面倒である。 「何処へ行くつもりだね」  と、杉田の脚の速さに閉口しながら徳広がきくと、 「敦化へ」  杉田は答えた。 「状況次第だがね」  杉田が敦化を一応の目標としたのは、戦闘地点と自分の出身地を結ぶ線が京図線に交るあたりが敦化らしく想像できたし、敦化あたりまで後退すれば全般の状況、殊に南満の状況が判明するであろうと思ったからである。この地理的判断は誤っていなかったが、上等兵の分際では全軍の配置がわかるはずはなく、殊に開戦直前の軍の移動のような極秘事項に通じているわけがないから、そこに大将・喜多誠一を司令官とする第一方面軍司令部と中将・富永恭次を長とする第百三十九師団が位置していたことは知らなかったし、まして、そこが武装解除された関東軍の捕虜収容所になろうなどとは夢想もしなかった。  つまり、杉田の一行は、捕虜という身分の不自由を避けたくて、ひたすらに捕虜収容所めがけて歩いたことになる。  逃避行では、敗残兵は誰しもそうであったろうと推測されるが、杉田たちがソ連軍との接触を避けようとして、人気のない方へ道をとったことが、彼らを老爺嶺山系の密林のなかへ導いた。  杉田たちだけではない。この方面から満洲内部へ達するために西南に進路をとった者の多くが、同じ困難に陥った。拓かれた土地へ出るには、どうしても突破しなければならない密林地帯であった。  杉田は、逃避行をはじめるときには、前途に殺したり殺されたりする危険は予想したが、飢餓はほとんど考えなかった。夏であるから、どうにかなると高を括っていた。途中の遺棄陣地に米などが置き去りにしてあったりしたことが、誤った楽観を抱かせた理由の一つであった。  そう都合のよいことばかりが配列されてはいなかったのである。森林に足を踏み入れたとき、そこがそんなに深く広い樹海のはじまりとは思わなかった。杉田は自分の行軍力に過信を抱いていた。彼の脚で踏破できない地勢は満洲地図に関する限り、ないと思っていた。  密林は自惚れを簡単に打ち砕いた。鬱蒼と繁った密林は、夜を除いて、常に薄暮に近い状態にあった。どこも同じような明るさであり、暗さであった。頭上高く生い繁った枝葉で完全に蔽われているから、太陽の位置を確認できない。どこから昇って、どこへ沈むのか、見分けがつかない。したがって、方角の維持ができなくなる。おまけに、巨木の枝が入り組んで、頑として人間の通行を阻んでいる。腐木が無数に倒れていて、朽葉に埋もれて足を奪う。歩行の困難が弱気の者を絶望させるには、一日か二日で充分であった。各前線からの敗戦兵や国境付近の町から避難した民間人たちが、この密林に迷いこんで、遂に出られなかった人が多かった。ときどき林間に銃声がこだました。道に迷った敗残兵が友軍を求める合図らしかったが、音は近くてもめぐり会うことはなかなかできなかった。  杉田が餓死の危険を真剣に考えなければならなくなったのは、そこかしこで行き倒れている老若男女や兵隊を見てからである。杉田には方角の維持が何よりも緊要な事柄となった。それが、見当がつかない。死んでいる人びとは、おそらく、方角がわからないままに樹間の歩きやすいところを進んで、ぐるぐると徒らに歩きまわって倒れたにちがいない。  杉田は、仲間に方角がわからなくなったとは云えなかった。云えば、他の三人が気落ちしてしまうことも明らかであるし、杉田を信頼しなくなることも明らかであった。  杉田が休憩しながら方角の推定に苦しんでいるときに、眠っているように見えた山下が突然きいた。 「中峰兵長殿はどうしたんですか」 「死んだよ」  杉田が素気なく答えた。 「やられたんですか。戦闘が終るまでは生きていたんでしょう」 「……お前は生き残った。中峰兵長は死んだ。人のことを気にしないで、自分が生きることを考えるんだな。早い話が俺が死んだら、どうする。中峰兵長のことどころじゃないぞ。俺たちはいま生きているが、密林を出たとたんに、お前か俺かがコロリとやられるかもしれん」  杉田を見ていた徳広が、視線が合うと、眼をそらした。杉田は責められているような気がして、腹が立った。あの状況で、ほかにどうしようがあったか、と、これはもう何十ぺんも自分に問いかけたことである。その都度、あれは余儀ないことであったと、自分に云い聞かせた。それでいて、ほかに方法があったような気がしてならなかった。  あのとき、杉田は、足手まといの狂人を連れて敵中を歩くことはできない、と、格闘の最中に、あるいはもっと早く、徳広のタコ壺を跳び出すときに心に決めていたように思えるのである。  全滅後の生死を賭けた行動を決定する上で、どうしても妥協できない相手と争って殺したのなら、こんな厭な気持は残らなかったかもしれない。相手は発狂した男であった。杉田たちを敵と思いこんでいるようであった。手榴弾を鉄帽で発火させようとしていた。それが、しかし、杉田の誤認だったとしたら、杉田は、明らかに、無用の殺人を犯したことになる。それなら、中峰を打ち倒して、武器を取り上げて、あの陣地に置き去りにして来ればよかったのか。杉田が解答のない問題に胸を塞がれているときに、 「この密林、出られますかね」  と、村井が云ったことで、杉田は救われた。 「ここで死にたくなきゃ、なんとかして出るさ」  杉田は立って、巨木の幹に隠れて小便をした。なんとしてでも方角を確かめなければならない。  何気なく、全く何気なく、杉田は樹の幹に触った。杉田にとっては、それはまさしく天佑ともいえた。幹の片側が、幽かだが、冷たく湿っている。杉田は他の樹の幹にも同じことを試みて、同じ感触を得た。もう間違いない。冷たく湿って、苔のつき方が多い方が北である。都会ばかりで生活していた者の自然に関する知識の乏しさを思い知らされた。この杉田が数日後には、見えもしない部落の存在を、鼻で嗅ぎ分る、謂わば野獣の嗅覚を持つようになったのである。  杉田は、遺棄陣地で米にありついたときから、非常用に軍足一本分を持って歩いていた。飢餓の危険を自覚してからは、それが文字通り命綱になった。一行の最期のときに食うつもりで、草を炊いて食って歩いた。蛇を探し、蝸牛を探した。茸類だけは毒を怖れて食わなかった。気力は萎えてはいないつもりだったが、空腹感が生命を体の内側からむしり取っているようであった。密林に入って六日目の夜明け、立ってみると、健脚を自負していた杉田の脚がいうことをきかなくなっていた。ガタガタ慄えるのである。危険な兆候であった。徳広たち三人は死んだように眠っている。今日中に人里に出なければ、四人は、いままで沢山見てきたような死体になる。  杉田はみんなを起こして、米と草で粥を作り、腹いっぱい詰めこんだ。 「今日中にこの密林を出る。出るまで俺は停らない。誰が落伍しても、引き返して連れて行く余力は俺にもないからね、死にたくなかったなら、ついて来るんだ」  密林のなかが薄明るくなりかけたころから歩きはじめ、太陽が西へ傾くころまで、杉田は、事実、一度も立ち停らなかった。  いつの間にか密林を抜けた。だが、感激はなかった。草深い平地がつづいて、行くては、やはり、無人の山や谷や林ばかりである。人里に近づいたしるしはない。この草原では、夥しいブヨが何処までも何処までもたかって、気が狂いそうであった。しなびた餓死者が屍臭を放って点々と転がっていた。男も女も子供もあった。どの死体も、きまって、単独で転がっていた。弱い者から先に捨てられ、死んでいったのであろう。  ようやくブヨの大群から逃れたころには、杉田の足も縺れはじめ、頭のなかには熱い霧が立ちこめたようになった。  夏の長い陽脚は、まだ西の地平線に立っていた。そのころ、杉田は、前方の疎林の縁に淡い煙を認めた。煙は人間を意味する、敵性であろうとなかろうと。  杉田は、おくれた三人を待って、煙の方へ用心深く近づいた。  煙は、一個中隊以上と思われる日本軍の部隊が大休止を取っていたのである。その部隊は、遠目でもわかるほどに軍装が整っていた。  杉田は地べたにあぐらをかいている指揮官のところへ行って、所属と官等級姓名を名乗り、彷徨に至った概略を述べて、若干の携帯口糧を乞うた。  指揮官は血色のいい大尉であった。年齢も杉田と同じぐらいと見えたが、杉田が山賊のような汚い髭面になっているのに較べて、大尉は綺麗に髭を剃っていた。  その大尉が云った。 「百二十四個師団は寧安の方へ退ったはずだが……」 「知りません。私は作業中隊の全滅後は四名だけで行動をしていましたから」 「何処へ行くつもりか」 「敦化へ出れば状況が判明すると思います」 「全滅したといったな」 「そうであります」 「お前たちは何故生きとるか」  これは、だしぬけに切りつけるような口調であった。杉田は顔面が硬直した。血がコトコトと音を立てたようであった。  大尉がたたみかけた。 「お前たちだけで何故最後の突撃をせずに生き残った。察するに、お前ら、脱走兵だな」  杉田には迅速な判断が必要であった。軍はまだ組織として存在するのかしないのか。杉田は、まだ、自分を上等兵として、相手を大尉として扱わなければならないのかどうか。敗残兵は何の情報にも接していない。全滅した日からの実感があるだけである。  ——こいつら、鮮満国境へ撤退するつもりだな—— 「釈明の必要があれば、直属上官にします」  杉田は声が躍るのを抑えるのに苦しんだ。 「口糧は頂けないのですか」 「やらん」  大尉が即座に云った。 「貴様ら、軍法会議ものだぞ。貴様らにくれてやる糧秣はない」  杉田は、大尉の後方あちこちに屯《たむろ》して休憩している兵隊を見渡した。彼らは杉田を笑っていた。  時間がたてば不利になる。決断が必要である。 「要らんよ」  杉田は腰だめにした銃を大尉に向けた。 「誰も動くな。動くと大尉の頭が吹っ飛ぶぞ。何が最後の突撃だ。こいつら、一装用を着くさって、敵の弾を浴びたことがあるのか。貴様らがそうやって逃げ支度をするために、俺たちは全滅したんだよ、全滅を。くらわせるぞ」  杉田は口だけではなかった。ためらわずに引鉄をひいた。大尉の度胆を抜くには充分な音がして、大尉の膝の前の土を射ち抜いていた。 「誰も動くな。俺の必中限界は二百だ。二百まで、誰も動くな。俺は兵隊を廃業したからな、大尉なんぞなんとも思ってはおらんのだ」  杉田は後ろ向きのまま退った。  彼の行動は鬱憤を晴らすには足りたが、空腹を満たすには何の役にも立たなかった。  四人は、夜へ向って歩きだした。もう疲労の極に達していたが、どうしても人里か畑へ出なければならなかった。  杉田は、歩きながら、山下や村井はともかく、徳広が杉田に背いてあの部隊に合流しなかったのを訝っていた。あの部隊には、薄汚い敗残兵を迎える寛容がなかったからか、それとも、上等兵に指揮されている伍長では、もう何処の部隊でも伍長としては通用しないと思ったからか。  真っ暗になって山の端に出たとき、闇の谷一つへだてた彼方に、小高くなったゆるやかな黒い起伏の影絵が見えた。またもや平地の林のようにも見えるし、畑と見ればそう思えなくもない。  開拓青年義勇隊出身の山下が、 「……あれは畑です」  と云った。  四人は黙々と歩きつづけた。それは確かに畑であった。四人はトウモロコシ畑に飛び込んで、手あたり次第にむしり取った。実はまだ粟粒ほどのしかついていなかった。飢えた男たちは芯ごと食った。芯は甘い汁をふんだんに含んでいた。  このことがあってから、杉田は、飢餓の危険を回避して、闘争の危険を選ぶようになった。どんな敵に遭遇するかわからなくても、人里のある方へ、畑のある方へ道をとった。  そうすることは、確かに、敗残兵にとっては、いつ突発するか知れない生命の危険を意味した。諸処方々から敗残兵が食を求めて出て来て、杉田たちの四人は十人になり三十人になり、員数は日により出来事によって変化した。  これは、もう、関東軍の部隊ではなかった。餓狼の集団である。合流した男たちのなかには、無論、杉田より上級者が沢山いたが、杉田は指導権を手放さなかった。指導者でいたかったわけではない。人を信じられない偏狭な心のせいである。彼は自分の動物的な警戒本能以外に信じられるものを持たなかったし、自分と同じ緊張度の持続を他人のなかに信じられなかった。彼の指揮が厭な者は自由に離れてゆけばよい。彼は自分の危険負担において行動を決定する。杉田の選択が誤れば、誰でも杉田を射ち殺すことができる。  気の荒い男がいないでもなかったが、杉田と争ってわざわざ先頭に立つ苦労を引受けるより、気楽について歩く方が得だと勘定したらしかった。  杉田は、畑を荒すことも、盗みを働くことも、ときには行くてを阻む者と殺し合うことも、やむをえないとしていたが、荒くれ男たちが行きずりに女を犯すことだけは許さなかった。即座に射殺する、と宣言した。そうする権限が彼にあるわけでなし、そうすることで他の悪事が正当化されるわけもなかった。彼は、ただ、一点だけ自分を許すところがほしかったに過ぎない。幸い、この戒律を犯す者はいなかった。  いたらどうであったか。彼は、宣告通り、射殺したであろう。そして、やがては、憎まれて彼自身が誰かに射殺されることになったであろう。  日を追って、杉田たちは、日本は降伏したにちがいないと考える点で、みんな一致したが、人里へ近づくたびに、赤腕章をつけた民兵が射ってきたり、ときにはソ連兵と協同して攻撃してきた。すると、戦争がまだ継続しているような錯覚が、異常な緊迫感を伴った。彼らは、その都度、戦って逃げのびた。  あとから考えれば、杉田たちのような敗残兵が畑や民家を荒らすから、民兵組織が敗残兵狩りを行なうのは当然である。  日本軍の敗退が中国人に潜在していた抗日意識を武力闘争へ盛り上げていたから、彼らの敗残兵に対する攻撃意欲は旺盛であった。 「奴ら、俺たちが何をしたってんだ」  と、民兵の執拗な攻撃にたまりかねて、悲鳴に以た声をあげた男がいた。杉田たちは、そのときは、先行していた敗残兵の一群に対する民兵組織の大がかりな掃討作戦に巻き込まれた形であった。  杉田は離脱を図ったが、幾つもの部落の連繋作戦の環が出来ていて、広々とした麦畑を戦場とするちょっとした野戦の相貌を呈していた。 「満洲を開発してやったのは日本じゃねえか」  と、その男が、恨みがましく杉田に云った。 「朝から晩まで連中を搾ったのも日本だからな」  杉田は民兵の動きから眼を放さずに答えた。 「いい土地を捲き上げたのも日本だ。何から何まで差別したのも日本だ。衣・食・住・人格、何から何までだ。俺が連中だったら、やっぱり怒るね。銃があれば、やっぱり射つよ」  杉田はそう云いながら、いつでも民兵を照準線上に捉える用意をしていた。突破するには手榴弾を使わねばなるまいとも考えていた。  何処へ行っても民兵たちが日本製の銃を持っていることが、不思議であった。死んだ兵隊から取ったにしては、数が揃いすぎている。  降伏した関東軍の武器をソ連軍が治安維持のために各村落の民兵隊に給付したものか、それにしては手まわしがよすぎるし、満洲国軍が崩壊してその武器が行き渡ったものか、日本の兵器庫から民兵が持ち出したものか、いずれとも判然としないが、敗残兵たちは自分たちと同じ銃で射たれるのである。杉田たちが彷徨した地域は、『満洲国』建国以来、反満抗日の拠点となった村落が多かったから、山賊化した敗残兵が安全に通過できる道理はなかったのを、敗残兵の方では認識不足も手伝って強行突破を試みたのだ。  一日一日が生涯であった。戦争が終っているなら、日本が降伏したのなら、天皇の軍隊は当然消滅しているはずであるから、男たちは自分の生活へ戻って行けばいいはずである。だが、彼らの生活の場は、もはやなくなっているのかもしれない。この広い土地に彼らを容れるところはもうないのかもしれない。杉田はそういう悲観的な予想とは反対に、食う物もなく、その下に寝る屋根もなかったにもかかわらず、戦争年間を通じて最も豊かな自由を持っているような気がしていた。彼が彼自身の主人になりえたのは、敗残兵となった瞬間からであった。国家も天皇も溶暗した。軍隊は圧力を消失した。人間は個人に還元した。敗残兵の身の上は、当然、甚だしい不如意のなかに置かれたが、同時に、消費しきれないほどの自由があった。そんなに大量の自由は必要でなかった。ほんのちょっぴりあればよかった。自分の意志がその構成に参加していない権威など、無視する自由がありさえすれば。  彼が愛したのは、事実、餓狼の自由にすぎなかったが、長い軍国主義時代の不毛の青春にとっては、飢餓と危険に満ちた野獣の自由でさえ珠玉のようであった。  だが、逃避行はいつかは終らねばならない。どのように終らせるかが問題であった。自分の意志と方法で終らせたい。戦争が終ったのなら、各地に告示ぐらい出ていてもよさそうなものである。伝単ぐらい撒かれそうなものである。召集のときには、どんな山奥にいる男にも令状が届く仕組になっていた。いまは、終りを告げる何もない。勧告の代わりに銃弾が飛んでくる。だから、杉田たちは歩きつづける。何処まで歩いても、赤腕章と戦車の無限軌道の跡しか見当らない。関東軍は、もう、何処かへ行ってしまったのだ。あるいは、消滅してしまったのだ。だから、杉田たちはもっと歩きつづけなければならない。射ってくれば、射ち返す。狩り立てられれば、逃げまわるか、強行突破するかである。肝腎の戦闘のときには弾薬は乏しかったが、逃避行では弾薬だけはこと欠かなかった。死者が遺してくれたからである。  敗残兵の逃避行を長く綴る必要はない。どれほど波瀾に富んでいるとしても、それは関東軍のこぼれ話にすぎない。関東軍の大部隊はとっくに各地で武装解除を受け、敗残兵たちが山野をさまよっているころ、既にソ連領内へ逐次運ばれていたのである。輸送終了までの総計約四十七万といわれる。  杉田たちの集団の彷徨は、ある日突然に終った。杉田の所属部隊全滅の日から五十余日たっていた。その前日、彼らは、めざして来た敦化の近くの小部落に入った。そこには、開拓民の家族を主とする邦人婦女子と老人たちが宿泊していた。見渡す限り褐色の平野の真ん中にある部落である。何処からでも見通しがきく。杉田たち約三十名は潜入したつもりでも、見られたにちがいない。  翌日、杉田たちが出発の用意をしているときに、民兵と赤軍兵との混成小部隊が来るのが見えた。兵力は桔抗していた。杉田は戦って切りぬけるつもりであったが、婦女子に泣きつかれた。あとのことを考えてくれというのである。  無理からぬことであった。戦闘は断念しなければならなかった。遮蔽物もない平野では、遁走も不可能である。杉田としては意外な結末であった。かたときも手放したことのない銃を井戸のなかへ投げこんで、みんなの武器を捨てさせた。  五十日は無駄であった。人生が終ったような気がした。もう、彼は彼自身の主人ではない。捕虜である。部落の近くに、何を運搬するのか、トロの軌条があった。勝ち誇った民兵たちはトロに乗って、杉田たちに押させた。敗戦が心にしみた実感は、これがはじめてであった。屈辱感が胸を掻きむしった。こんな想いを日本人は長年にわたって中国人にさせていたのだという反省も、実のところ、情なさを救いはしなかった。  収容所は、はじめは、沙河沿のだだっぴろい草原であった。冬の一装用を着た血色のよい捕虜が何千人もいた。杉田たちは夏の三装で戦って以来、山野を押し渡ったぼろぼろの姿である。とても同じ軍に属した兵隊とは見えなかった。一装用の連中は、乞食のような杉田たちが入って行くと、「汚ねえな」と云った。杉田は、途中で遭遇した、あの、髭を綺麗に剃った大尉を思い出した。いまは、しかし、杉田の手には銃はない。  軍隊は、社会の矛盾を鋭角的に映し出す。最前線が死闘しているときに、後方部隊は酒保品を温めてぬくぬくしている。前線から体力を消耗し尽して後方に達して、秋から冬を迎えようというときに、冬の一装用はおろか、三装さえも一着もなかった。  捕虜は敦化の飛行場の格納庫へ移されて、そこに敷いた藁の上に寝起きした。毎朝早くから夕方まで、パルプ工場の撤去作業に使役された。給養は悪かった。一日一掬いの穀つき高粱。ときどき一匙見当の塩、ときたま一片の黒パンと少量のマホルカの配給があった。副食物は全然なかった。  捕虜たちは飢えていた。作業現場で、昼になると、ツルをつけた空罐を下げた捕虜たちが、食事をしているソ連兵たちの周囲を取り囲んで眺めていた。ソ連兵が食物の一片を投げてくれるのを待っているのである。一片が投げられると、異国の兵隊の笑いの前で、凄まじい争奪戦が展開された。果ては「ダワイ!」と追い払われるのである。これが「無敵関東軍」の成れの果てであった。天皇の軍隊を説く者は一人もいなかった。いたら、嘲笑と悪罵を浴びるだけであったろう。  杉田は、空罐を下げて他人の食事を眺めることはせずに、七名の仲間から毎日一名の病欠を故意に出して、ソ連兵の厨房塵芥のなかからかつて食物であったものを拾い集めさせ、配給食糧といっしょに炊いて食う方法をとった。作業は七名分を六名でするのである。だが、故意のサボタージュを出したことを咎められて、ファシストのサムライだと罵られ、一週間の懲罰労働をくらった。森林へ行って、森林鉄道の軌条を撤去して運搬し、夜は捕虜同士抱き合って、雪が降りはじめた地面の窪みに寝るのである。  そのころ捕虜はほぼ千名ずつの梯団を組んで、シベリアヘ送られていた。  杉田は、地面に顫えて寝ている間に決心した。この夏衣袴のままでシベリアヘ送られれば、この冬を越すことはできない。体力の消耗も限界に来ている。脱走して失敗しても、やはり死ぬ。同じ死ぬなら、自分の意志に従った方が諦めがつきそうである。  早い冬が来ていた。雪が降り、氷が張った。最後の選択を実行に移してからは、自由の意識などは微塵もなかった。九分通り瀕死の動物になっていた。行くてはるかに連なる電柱の一本一本が生命の里程標であった。あの電柱まで歩けるか。  高粱の切株が行儀よく並んだ道ばたの畑に、雪が舞い降りていた。杉田はそこに寝たかった。寝れば、雪が人の寝た形に積るにちがいなかった。  彼は戦闘で生き残ってから幸運に護られつづけていた。凍死がしのび寄っていた最後の夜も、見知らぬ人の情に救われて生きのびた。  長い物語を聞き終ったとき、母親は顔を蔽って静かに泣いた。  かつて、息子の思想の不忠不孝を激怒した父親は、 「お前の云った通りだったな」  と、眼鏡の下の、目ヤニの溜った目を赤くしていた。 「俺は天皇に手紙を出したい。なぜ綺麗に自決しないのか……」  名もない老人のしわぶき一つぐらい、海を越えて聞えはしない。けれども、老人としては精いっぱいの表現であった。  忠君愛国を美徳の基幹としていた頑固な老人の意識をゆさぶるには、息子とその戦友たちの苦難の物語で足りたのである。  二十七年たった。  グアム島のジャングルから生還した元伍長は、恥かしながら生きて帰ったと云い、銃を天皇に返すために持ち帰ったと云った。彼の出現は、好奇心に満ちた国民の関心を集めた。杉田は、はじめは驚嘆し、日を重ねるにしたがって厭気がさした。この事件の報道の初期のころ、ある週刊誌に、マリアナ海域の米海軍司令官が、ジャングルから出て来た元日本兵を病院に見舞ったとき、この元日本兵が足もとにひれ伏して命乞いをしたと書いてあったのを読んで、杉田は、取り返しのつかぬ歳月を過ごした男の運命のむごたらしさに胸のつまる思いがした。そこには、召集され、戦闘に投入され、生き残って、恐怖におののきながらひたすらに生きのびた一人の男の事実だけがあって、天皇や国家がありがたがられる余地は全くなかったのだ。だが、僅か数日後に、彼は、こしらえられた状況に見事に反応しはじめた。虚構の大義を復活させることに利益を見出したのである。  同じ伍長で、最後は突撃だからね、と云った徳広は、シベリアで死んだ。杉田が手とり足とりして教えた初年兵五十六名は、彼らが若くして白骨とならねばならなかった理由を、永遠の沈黙のなかに鎖している。 [#地付き]〈了〉 [#ここから改行天付き、折り返して7字下げ]     付記 史実関係は拙著『戦争と人間』1—14を主な供給源とした。『戦争と人間』では引用資料・参考資料の類は細大洩らさず註の部で出典を明記しておいたので、今回は省略した。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]    あ と が き [#地付き]五味川純平   誰にでも一生ついてまわる体験があるにちがいない。そのときを境として、それ以前と以後とでは、身心ともに別人のようになったとか、好むと好まざるとにかかわりなく、そのときの状況反応によって身についた考え方なり生き方が、状況は全く変ってもほとんどそのまま残るとか。私の場合のそれは、兵役と戦争であった。戦争というより、戦闘というべきかもしれない。  私の兵役期間はそう長くはなかった。一年九カ月は、私の世代の兵役期間としてはむしろ短い方であろう。私にとっては、しかし、十分過ぎるほど長かった。最後にたいへんなおまけがついていた。それとても、あの大戦を戦って生き残った人びとの平均的体験——体験の平均値を出すことがもしできればの話だが——とほとんど似たりよったりのものでしかないのかもしれない。  そうであるとしても、その後約三十年、私は未だに復員しきれていないような気がするのである。あの異常な緊張の持続によって軍隊の理不尽に耐えていた期間と、それとはまた別の動物的緊張の連続によって生死のはざまをナロウ・エスケープした百日間は、確かに私に、もしその体験がなければ終生のテーマとすることはなかったはずのものを、私に怨念として与えたようである。  それをフィクションとして表現したのが、「人間の条件」であったし、ドキュメントとして誌したのが本書である。  フィクションならともかく、私事にかかわるノンフィクションには内心抵抗がなくはなかったが、敢てそれを冒したのは、私なりに関東軍私記は書いておきたかったのと、軍隊や戦争の場で集約的に要求される「大義」の虚しさと、その凄まじい破壊的機能は、私たちの世代に最も顕著な痕跡を遺したと考えられるからである。  グァム島から一人の元日本兵が二十八年ぶりに生還したとき、私は、大義の虚構性に挑む私たちの努力が甚だしく不足していたことをしたたかに思い知らされた。そのころ私はこれを書きはじめていた。最近ルパング島からまた一人の元日本兵が三十年ぶりに生還した。私はこのあとがきを書いている。虚構の大義はまだ機能を停止していないのである。 〈底 本〉文春文庫 昭和四十九年八月二十五日刊